left #1


   ***一——凛咲***




 旧校舎から飛び出すと、雷の白い光に視界を照らされた。

 反射的に身が竦むけど、後ろから先輩のちょっと低めの声が呼びかけてくる。今の私を見られたくなかった。幾重にも重ねた単を全て脱ぎ捨ててしまったような心持ちだ。

 荷物も持たず、身ひとつで濁った水たまりの上に飛び出す。昨日先輩に買ってもらったレインブーツが、先輩から逃げるのに役に立っている。皮肉もいいところだ。


 身体は無我夢中で足を前に運ぶだけ、五感は素通りするものを認識するのがやっと。そのはずなのに、思考は異常なほど冷静に回転している。記憶が樹形図のように広がり、現在へと繋がっていく。初めてのコンクール、父の辛辣な一言、伯父さんの教え————そして、あの転落事故。


 旧校舎の壁は雨にすっかり濡れて、沈んだような色合いになっている。雨樋を伝う水がぼたぼたと急かすような音を立てる。空は雲に覆われて真っ暗だった。

 走れば走るほど、追い立てるように風が強くなっていく。

 裏庭の片隅、二枚のフェンスの間から伸びる細い道に駆け込む。


 ふいに見上げた空が光って、遅れて空が怒鳴りつけてくるような轟音が鳴り響く。

 その合間を縫って、


「せんぱい——っ!」


 呼び止める声には普段の彼女からはかけ離れた、切羽詰まった色が滲んでいる。それまで休みなく動いていた足が、自然と止まった。


 足の赴くままに走ってきた。気づけば、青い葉が生い茂る桜の園。ソメイヨシノの木々は時折吹き付ける強風に耐えるように、太い枝を反らしている。湿った緑色の葉っぱが舞って、泥に飲まれる。公園の中央でどっしりと構える枝垂れ桜も、しなやかな枝を振り乱していた。

 どうしてこんな、先輩でもわかる袋小路に逃げ込んでしまったんだろう。一時期ルーチンワークのように通い詰めていたせいだろうか。もっとどこか——商店街の中とか大和市の外とか、人に紛れられる場所はいっぱいあるのに。


「なんで追いかけてきたの」


 ちーちゃんのミドルヘアの栗毛は、ろうそくの火のようにゆらゆらと舞っている。三毛猫の髪留めにおさえられた左側の前髪だけが、かろうじて元のスタイルを保っている。

 公園を囲う塀に沿って掘られた側溝に、どしゃどしゃと雨水が流れ込む音がする。さっきまでは天候が回復していたと思っていたのに、今やまるで乱気流に捕まったヘリコプターのような荒れ具合だ。


「せんぱいが、泣いてたから」


「泣いてないよ。だいたい、こんな雨じゃわからないでしょう?」


 ちーちゃんは体操着とスニーカーで、足元は泥だらけになっている。女子サッカー部の、萌黄くんの応援にでも来ていたのか。背負っている学校指定のリュックもびしょ濡れだ。多少は耐水性があるとはいえ、中にも浸水しているだろう。


「こんな雨の中に飛び出すせんぱいを見ちゃったら、放っておけないです」


「何それ。同情じゃない」


「同情でいいじゃないですかっ」


 陽だまりに降り注ぐ光をレンズで収束させたように、鋭く高い声音。そこに、いつものへらっとした音色はなかった。突き抜けるような芯の強さは、むしろ彼女の姉——先輩を思い起こさせる。

 ちーちゃんは私に向かって一歩、強く踏みしめる。泥が高く跳ねたけどお構いなしだ。


「いいじゃないですか、同情したって。心配なんです。せんぱいはお姉ちゃんを描くって言った。お姉ちゃんに好きって伝えるんだって、あたしに言ったのに」


 そうだ。ちーちゃんに手を引かれて、先輩の一押しのおかげで、私は確かに父の鎖から解き放たれた。今の私は淀みなく先輩を描ける。当たり前のように、絵を仕上げられるはずだ。

 でもそれが、もう一人の私を思い出すきっかけになってしまった。


「私は、ちーちゃんの知ってる私じゃないよ」


「ここにいるせんぱいは、間違いなくせんぱいです」


 ——何も知らないくせに。

 そう思うと、苛立ってしょうがなかった。ちーちゃんの声のトーンは、いつもの調子に戻っていた。私を何度も安心させ、導いてくれた『私を見ている』というメッセージ。それは私にとって、心地よすぎるくらいの承認だったというのに。

 今となっては、受け取り方が百八十度変わってしまった。


「違う。やっと思い出したよ、咲季のこと。私のせいで失くしてしまったあの子のこと」


「せんぱいは何も失くしてないはずです」


 その声はあくまで穏やかで、だからこそ私の癪にさわる。


「煩いなっ!」


「——自分の気持ちを伝えることは、ありのままの自分に胸を張ることです。だって、どんなに隠そうとしたって、分かる人には、分かっちゃう。せんぱいが自分で言ったんだよっ」


 ふいに、雨に打たれて冷えた背中が、一気に熱を持つ。雨音は相変わらず、激しく耳に叩きつけられている。

 ちーちゃんの言うことが理解できない。

 いや、この子はもしかして——。


「ちーちゃんに、何が分かるっていうの……?」


「少しくらいは、わかります」


 彼女の丸い顎から絶えず水滴が滴り落ちる。前髪が張りついて目元が隠れてしまっている。


「——さっちゃんの、ことも」


「やっぱり、ちーちゃん、あなたは……」


 さっちゃんを——咲季を知っているのか。

 ——どうして?

 確かに、ちーちゃんはと会っている。だが、事情を知っているのは家族以外には詩織くらいなものだろう。彼女が私に断りもなしに、誰かに話すとは思えない。私にさえ、一度も知っているそぶりすら見せなかったのだから。

 ——どこまで、理解しているの?

 目を見開いて、探るように睨みつける。

 ちーちゃんは三毛猫の髪留めを外し、前髪をかき上げて顔をあらわにする。その表情は、普段と何もかわらない満面の笑みだった。

 ぞっとして腹の底が冷えていく。


「せんぱい、デートしませんか?」


「デートって……」


 急にその場に似つかわしくない単語を発した彼女は、ごく自然に私の懐に潜りこむ。そして、腰に手を回して抱きつき、私を見上げてくる。二人とも濡れ鼠な状態だったから感触は重かった。だけど、触れ合う場所の温かさは本物で。


「昔からのお約束——」


 雨水が滴っているから判然としない。でも、彼女か私のどちらかは、泣いているのかもしれないと思った。だって、触れた場所から震えを共有しているから。


「悩める芸術家は海にいくものですよ」


 ちーちゃんは、雲の中を乱反射してようやく地上に届いた日差しのように、弱々しく呟いた。


 ああ、やっと一つだけ理解した。あの日再会してから、彼女がずっと私の前を走り続けていた理由。ちーちゃんはずっと追いかけていたのか。前のめりに走りがちな双子の妹——咲季のことを。




   ***続く***

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