hydrangea #3


 ——朝十時に、橘高校正門前で待ち合わせ。

 天候は昨日よりもずっと回復していて、東向きの窓からは、うっすらと陽が差し込んでいる。檜造りの旧校舎の、美術室。シケンの部室で、先輩と私はそれぞれ、イーゼルに立てかけたスケッチブックに向かって、お互いを描いている。


 久しぶりに、描くことを意識して、人をじっくりと観察した。

 目鼻立ちがはっきりしていて、整っている顔立ち。長く艶やかな黒髪に浮かび上がる、シャープな顎と角のない肩。やっぱり先輩は綺麗だ。

 私は制服で来てしまったけど、先輩は私服だ。胸と肩が大胆に開いた、エスニック柄のワンピース。生地はサテンかな。深い藍色に赤く差し込まれた、薔薇のような幾何学模様は複雑で、絵描きに対する挑戦のようですらある。木枠の椅子の上で組んだ足はすらりと長く、黒いヒールのショートブーツとのコントラストが眩しい。


 案外身体は覚えているもので。二、三枚ほど適当なスケッチを描いたら調子が出てきた。それより単純に、一枚描くたびに先輩に褒められるのが嬉しかった。


 鉛筆を持って、同じように私を観察していた先輩と目が合った。普段なら恥ずかしくなって俯いてしまうところだけど、今は違う。その一瞬の表情を逃したくなくて、目が離せない。


 ——描きたい。

 その想いだけが身体を突き動かす。

 構図、陰影、筆圧、配色、バランス——そんなものに思考を巡らせるリソースが勿体ないとばかりに、夢中で鉛筆を走らせた。線をぼかすために擦り付けた指先が真っ黒になるのも厭わずに。

 やっぱり先輩はいい。心のままに描きたくなる、私の理想のモデルだ。


 ——ああ、こんなに描きたいのに。

 パレットの上で絵の具を溶いた瞬間、呪いのようによぎる、あの一言。


『金賞がどうした。値段のつかない絵に価値はないと言っただろう』


 この期に及んで、私はまだ気にしているのか。先輩に伝わらないわけがない、受け取ってくれないはずがない。ちーちゃんも言ってくれたのに。

 でも、でも————、


「先輩、昔話に付き合ってもらってもいいですか?」


「ええ。遠慮は無しにしてよ。私、りさちゃんのことは全部知りたい」


「はい」


 最初の色を置く。

 ——大丈夫、まだ描ける。

 ————大丈夫、二人でなら進めるはずだ。


「昔、父が言ったんです。『金賞に価値はない』って」


 私は混濁した記憶から、その情景を呼び起こす。

 先輩は不快感を隠そうともせず、眦を引き上げる。


「そんなこと、言われたの?」


「いえ——」


 そうだ。私と妹は扉の陰に隠れて、びくびくしながら覗き込んでいた。


「父が伯父さんにぶつけた言葉を、たまたま聞いちゃったんです」


 父は伯父さんを毛嫌いしている。

 そうなったのはもう二十年以上前——二人の高校時代からだと聞いている。

 二人は、母方の祖父である画家・波多野英知に絵を習っていた。彼のもとで順調に上達していく伯父さんに対して、伸び悩んだ父はコンプレックスを抱いていた。でもその頃はまだ、父は伯父さんの絵を、才能を認めていたそうだ。

 決定的だったのは、最後のコンクール。敵わないと思い知った父が筆を置くことを決めたその日、唐突に、伯父さんは絵を捨てて写真の道を選ぶと言った。父はさぞかし無念だっただろう。裏切られたくらいに思い込んだっておかしくない。


「先輩は、私の才能が好きなんですか? 値段のつかない絵しか描けない私に、価値を見い出せますか?」


「感心しない質問ね」


 一段低い声で、先輩は嗜めるように言った。


「答えてください」


 睨み合い。竦みあがりそうだ。目が据わっている先輩は、有無を言わさぬ迫力を放っている。でも、ここまできたら私も確かめずにいられない。どんなに愚かな質問だと分かっていても。

 やがて、彼女は根負けしたようにため息を吐いた。


「逃げないで聞いてよ? 勿体つけて言うから」


 私は唾を飲み込んで、頷く。


「——最初は、才能だったかもね。ツバメの絵を見たときから、この子だって思ってた」


 先輩は滔々と言葉を繋いでいく。そういえば、演説は人一倍得意だったな。


「私は素質のある人が好き。いちかやモエ、生徒会やシケンの子たち。みんな私の好みで側にいて欲しいと思ったから、そうしたの。りさちゃん、あなたもそうよ」


「やっぱり、先輩もそうなんだ」


「あえて、お父さんの言葉を借りるわ。『金賞に価値はない』」


「————っ」


 私はたまらず立ち上がる。その先を聞くのが怖い。

 美術室の扉に向けて踏み出そうとしかけた足を——、


「最後まで聞きなさい!」


 先輩の鋭い怒鳴り声が制止する。


「聞いて。私にとってはね。りさちゃんが絵を描くことに、価値があるの」


「え——?」


「私がりさちゃんに絵を続けてほしいって言うのは、何も才能が勿体ないからじゃない。絵を描いているりさちゃんの、ひたむきな姿が失われるのは勿体ないと思うから」


 先輩は優しく目を伏せる。口許にうっすらと微笑みを浮かべて。

 この人はいつも、私のために言葉を尽くしてくれる。私と過ごすためにいくつもの居場所を作って、私を知るために自分も絵を学ぼうとしてくれる。


「恋人が一番楽しそうにしてる瞬間が見たい。それって、そんなにおかしなことかしら?」


 先輩の言葉は、私の中にこびりついた絵の具の塊を溶かしていく。

 力んでいた足が脱力して、腰がすとんと椅子に収まった。目の前には先輩の姿を写しとったスケッチブック。

 筆が羽根のように軽くなる。これまでのどんな絵よりも。今までどうして描けなかったんだろうと思うほど、自由に伸び伸びと、色を重ねていける。先輩を好きになって、恋人でいられて、本当に幸せだ。

 ——ありがとうございます。

 ごく自然に言葉が浮かんできて、それを声にして伝えたいと思った。



 

 でも勢い余ったのか。安堵感と同時に、記憶にこびりついたもう一つの、絵の具の塊を溶かしてしまう。

 途端に脳内で警鐘が鳴る。これは開けてはいけない。絵の具を溶いたもやのかかった扉の前で立ち止まる。しきりに警告してくる心とは裏腹に私の手は、その扉を押し開けてしまう。

 私を縛るあの言葉、それはいつのものだったか。確か幼稚園の頃、父と母の絵を描いて、それを妹と二人でコンクールに応募したんだ。結果が発表されたとき、伯父さんは私たちを目一杯ねぎらってくれた。




   *

   *

   *




 ——————————————————

 ————東京都 児童の絵画展————

 ——————年長組 金賞——————

 ——————————————————

 ———————河内咲季———————

 ——————————————————


 少女が口角をいっぱいに広げて笑っている。

 私とそっくり同じ顔の、双子の妹。


『りさ! 絵をかくの。たのしいよっ』




 ——————————————————

 ————東京都 児童の絵画展————

 ——————年長組 銀賞——————

 ——————————————————

 ———————河内凛咲———————

 ——————————————————


 少女が涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔でしゃくり上げる。

 私とそっくり同じ顔の、双子の姉。


『おんなじ絵なのに……。どうして、さきばっかり——っ』




   *




『金賞がどうした。値段のつかない絵に価値はないと言っただろう』


『憎むなよ、和馬かずま。絵にはなんの罪もないだろう』


 伯父さんは長い癖毛を揺らして、きわめて穏やかに告げる。


『私が憎んでいるのはお前だ、涼。だが、凛咲と咲季には、そうなって欲しくない』


 父の声は震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、当時の私にはなにものとも判別できなかった。

 それから少し経って、伯父さんは私たちを連れ出してくれた。鎌倉からずっと遠くにある、小さな公園。満開の枝垂れ桜と、それを守るように咲いたソメイヨシノが見渡す限りを薄紅色に染め上げていた。


『——よく聞いてね、凛咲、咲季』

『人を描くことは、傍にいるよ、もっと知りたいよ、って気持ちを届けること』

『好きな人に好きと伝えること、なんだよ』


 ——わたしはだれにつたえようかな?

 伯父さんの言うことは真実で、それなら私が一番にそうしたい相手は一人しか思いつかなかった。




   *




 双子の妹は短くなった色鉛筆を次々と持ち替えて、魔法のように、画用紙を染め上げていく。

 そして、普段と何ひとつ変わらない、あどけない笑顔で言う。


『りさ、なかないで。わたしはりさがだいすき。さきはもう、いなくなるから』




 ——可哀想にねぇ、あんなことになるなんて。

 ——あの子、事故の前のこと、ほとんど覚えてないそうよ。




   *

   *

   *




「あ、あ——……」


 そんな、

 筆が、動かない。

 持ち手が鉛のように重くて、筆先が磁石のようにキャンバスに貼り付いて、一ミリも動かせない。

 どうしてだろう。先輩に完成した絵を見てもらいたいのに。きっと喜んで、優しく褒めてくれる。だって、先輩を描くことは私の一番『楽しい』ことに違いないんだ。

 こめかみがひどく痛む。

 ——私は、誰に声を伝えたかったんだっけ……?


「どうしたの、りさちゃん。顔色悪いわよ」


「……ごめん……なさい——」


 私は薄い赤色が溶けた水の入ったバケツを、先輩の足元にめがけて勢いよくひっくり返す。


「きゃ————っ!?」


「体操着はそこの袋に入ってますっ。洗濯は、被服研に。シャワーは、運動部の部室棟にあるので使ってくださいっ」


「りさちゃん——っ!!!」


 先輩の叫び声が遠ざかっていく。まくし立てたきり、何も見えなかった。檜の廊下が立てる大きな足音を気にすることなく、息が切れるのも忘れて走った。


 いつからだろう。外ではごうごうと雷雨が唸り声をあげていた。




   ***続く***

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