hydrangea #2
——朝十時に、駅前広場で待ち合わせ。
でっかいユリノキが目印だ。
六月上旬からこっち、日照時間が著しく短い日が続いている。その影響もあってか、商店街の客足は少々まばらだ。
外は相変わらずの豪雨だけれど、駅前広場にはドーム状の高い屋根がついているので、傘をささなくても濡れることはない。生温くて、湿気をたっぷり含んだ空気のせいで、汗が張り付いて気持ち悪い。
「先輩、お待たせしてすみません」
「全然、待ってないわよ」
先輩はユリノキの下にあるベンチに腰掛けている。
時計を見ると、ちょうど十時になる五分前だった。
「りさちゃんからお誘いしてくれるの、嬉しいわ」
今日の先輩の服装は、エスニック柄をしたビッグシルエットのチュニックにタイトなブラックデニムのパンツ。長く下ろした黒髪に白いターバンを巻いている。足元は若草色のレインシューズだ。ショルダーバッグもビニールの、耐水性のもの。アウトドア用でもあるのかな。用意がいい。
「先輩は、大人っぽいメイクが似合いますね」
いつもより少し濃いめのアイメイク。それは、ユリノキのうちわのような葉の間から覗く、山吹色のチューリップに似た可憐な花に負けず劣らず見目麗しい。きちんと付き合って初めての、二人きりのデートを意識してるんだと思うと、少し照れ臭い。
それと同時に、たった二年の差が大きな隔たりのように思えてくる。私は彼女の隣を歩くにふさわしいんだろうか。大学で、もっと似合いの人に巡り合っているんじゃないだろうか。考えれば考えるほど、不安は強く、隔たりは膨らんではち切れそうだ。その原因はやっぱり、自分に自信がないからなんだろう。
「ありがとう。りさちゃんも、ロングスカート似合ってるわよ」
私は夜の海の色をしたロングスカートを穿いている。上着はシチリア海をイメージしたデザインTシャツにロング丈のカーディガン。靴はスニーカーだ。厚地のものを選んできたつもりだけれど、ここに来るまでに少し浸水し始まっていて、早速萎えそうだった。
「ちょっと待っててね」
先輩は手近な古着屋に一人で入っていく。アクセサリーでも買うんだろうか。
言われた通りにちょっと待っていると、先輩が買い物袋を持ってお店から出てきた。それを、私に手渡してくる。
「これ——?」
「履いてみて」
それは、ペイズリー柄の靴下と、薄紫色のレインブーツだった。
「濡れたままじゃ気分が落ちちゃうでしょ。せっかくのデートなのに」
先輩が少し照れくさそうに「デート」と口にする。口許がはにかんでいる。嬉しくて胸が弾むような音色だった。
「えっと……、ありがとうございます」
靴を履き替えて、さりげない風を装って先輩と腕を組んだ。
——大胆だったかな。私からもデートらしいことをしてみたくなった。でも、先輩は笑顔で、それを受け入れてくれる。
こうして公然と恋人らしいことができるのは、ちーちゃんのおかげだ。いつも背中を押してくれる彼女のためにも、先輩の隣を胸を張って歩ける私でありたい。今はまだ、意気込んでは尻込みしての繰り返しだけれど。
途中でカフェラテとコーヒーを買って、商店街のドームの外に出ると、雨は若干小降りになっていた。先輩の亜麻色の折り畳み傘に二人で入って、ケヤキ並木を歩く。
バス停までの短い道を行く間に、私は『紫陽花月間』のポップ制作のことを話す。嬉しいことに、本は三冊とも引く手数多で、ポップの評判も上々だそう。古瀬山先生が調子よく誇張した『紫陽花月間』の図書室模様を一時間くらい聞かされた。
「ようやく一つ、作品らしいものを作ることができました」
「うん。よくやったわね」
先輩は傘の中で頬をすり寄せて、ねぎらってくれた。
バスを待っている間も話は尽きない。温泉旅行からこっち、伯父さんがお風呂にハマっていることとか、なんでもない話題を持ち出しては二人で笑った。
普段はそれほど多弁じゃないのだけど。たぶん、先輩に褒められたのが嬉しくて高揚しているんだ。
「——それで、今日のチケットも伯父さんからもらったんですよ」
「行きたいところ、美術館だっけ?」
「はい」
「どんな展示なの?」
「パンフレット、どうぞ」
「ふむ——、企画展『画家が見た少女展』ね」
様々な画家が、思い思いの筆致で少女を描いた作品を展示している小規模な企画展だ。しかしながら、作品の幅は広く、ルノワールやブグローといった美術史上有名な作家から、日本の学生までカバーしている。
以前、私の絵が入選したのは風景画部門。でも、私はずっと人物を中心にして絵を描きたいと思っている。加えて、少女というモチーフもお誂え向きだ。
——先輩を、もっと描きたい。
彼女の魅力を表現するためのヒントが、この展覧会にあるかもしれない。
*
美術館は赤い煉瓦造りの古めかしい建物だ。三年前に補強工事が為されたものの、外装は十年以上前の姿を保っている。濡れた煉瓦は全体的に黒っぽく、重々しい感じがする。最後に訪れたのは『先輩』が展示された時だ。
先輩と手を繋いで、中に入る。受付に千円札を払うと、企画展が開催されている展示室はすぐ目の前だ。
順路は特に指定されていなかった。フロアの白い壁を覆うように大小様々な絵が吊るされている。順に目を通していくと、千八百年代のものから最近のものまで、様式も画風も違う作家の作品が展示されていた。私が一番目を惹かれたのは、農村の姉妹の絵だ。お互いを愛しみ合うように抱く二人の姿が、胸に強く訴えかけてくる。
「先輩、退屈じゃないですか……?」
「まさか。楽しんでるわよ」
先輩は肩をすくめて「そう見えない?」と戯けてみせる。
彼女の横顔はいつも通りの雰囲気をたたえている。嘘や遠慮を言っているようには見えない。というか、元々意味のない嘘や方便は絶対使わない人だ。
「私は自分の目で、見られる限りのものを見たい。絵も例外じゃないわ」
その先輩の眼は、とある一点で止まっている。
彼女の興味を引いたその絵は——、
「これ——って、萌黄くん……?」
ショートの癖毛をした少年みたいな少女。むすっと膨れているような横顔の向かう先は広い虚空があるばかりで、何も描かれていない。でも、私にはわかる。きっと視線の先にはあの子がいる。だって、頬に綺麗な朱がさしているんだから。
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——大和市美術館 画家が見た少女展——
———一般公募の部 審査員特別賞————
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——————『花を追う君』———————
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————————風間純—————————
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純は元々いい絵を描く子だと思っていたけれど。私が美術部にいた頃より、格段に上達している。私が立ち止まっている間も、彼女は描き続けていたんだ。
*
——悔しいな。
バス停に戻る道すがら、無言でそんなことばかり考えていた。
半年もの期間を、純はストイックに、絵のために捧げてきたんだろう。かたや自分は、同じ時間を無為に過ごしてきた。
私を映す冷ややかな視線が思い出される。見下されて当然だ。そう思うと、羞恥心やら劣等感やらで唇が震えそうになる。
その唇に、先輩の指が優しく押し当てられる。
「思いつめないで。あなたが筆を置いていた時間はなかったことにならないけど、その間に得たこともなくならないのよ」
彼女の言葉は、その事実を誰よりも信じさせてくれる。描かなかった時間に得た、大好きな恋人。
もう唇は震えていない。
だから、もう口籠らない。極めて自然に切り出せたと思う。
「先輩、部室に来てくれませんか?」
「ええ。あなたのその言葉を心待ちにしてたのよ」
先輩は、バス停の屋根に降りしきる雨音に負けないほど強い声で、不敵に笑って見せた。
***続く***
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