hydrangea #4


   ***萌黄***




 梅雨真っ盛りの六月中旬であろうと、大会を目前に控えた女子サッカー部の練習は変わらない。

 にわか雨は止んでいるけど、いつまた降り出すか分からない。そもそも連日の大雨で、ピッチはドリブルもままならないほどぐしゃぐしゃだ。

 監督の松阪英俊まつざかひでとし先生からは、悪天候のコンディションに慣れるための訓練との指示を下されたけど、泥だらけになってフォーメーションの練習をするのは非常に気分が萎える。

 わずかな雨止みの間に聞こえてくる、スズメの鳴き声がせめてもの慰みだ。背番号を呼び合う声はどこか遠く。飛んできたボールを半自動的に足で受ける。

 そこに——、


「萌くんっ!」


 その呼びかけ一つで、俺の低調だったやる気は急上昇した。

 とはいえ不覚にも、動き出しが遅かったせいで挟まれている。本来ならドリブルでラインを上げるところだけど、ここは——トラップでタメを作って——ロングシュート。それは理想的な弧を描いて、ゴールの右上いっぱいに突き刺さる。


「こら、東ぁ! フォーメーションを乱すな!」


 絶賛恋人募集中である松阪先生の怒鳴り声が、耳から抜けていく。


「王子ぃ、また姫ちゃん来てるぞ!」


「この雨の中、よく来るねぇ。マネでもないのに偉いわ」


 ちょうどいいタイミングで十五分の休憩だ。それぞれサイドのベンチ付近に寄って、水分補給やら雑談やらを始める。

 あの姉ちゃんの誕生日以来、ちーはサッカー部の練習を頻繁に覗きにくる。ある日は写真を撮るだけだったり、またある日はマネージャーをやってみたり、さらにある日はピッチに立ってみたり。そのお目当てが俺であることを隠そうともせず。

 俺たちの関係は大っぴらになっていないけど、誰かがちーのことを『姫』と呼び始めてから、あっという間に定着してしまった。いつか言われた「宮古さんがいるから」という邪推は俄然真実味を帯びて——というか真実なんだけど——、先月から告白される回数が半分の半分に減るという、思わぬ女子避け効果付きだ。


「ちーっ!」


 俺のところにまっすぐ走ってきたちーは、学校指定のジャージとスニーカー姿だった。手には水色の傘。分けた前髪の左側を、三毛猫の髪留めが飾っている。


「こんな雨の中まで来ることないんだぞー」


 ——と言いつつ嬉しいんだけど。

 この低気圧の下でも、ちーはいつもと変わらず元気そうだ。姉ちゃんあたりにとってはしんどいだろうに。凛咲さんとデートしているらしいので、無理して平然を装っているのだろう。


「大丈夫。ジャージ着てるから」


「そういう問題じゃないの。風邪ひくなよ?」


「萌くんこそ、水分補給ちゃんとしてる? 熱中すると忘れるでしょ」


 ちーがリュックから水玉の巾着を取り出す。中の透明な瓶を開けて、詰まっている黄色っぽい物体を一枚摘んで、躊躇いなく俺の口に押し込んだ。


「もが……——……お?」


 ちょっと甘めの、ほどよい甘塩っぱさが口に広がり、遅れてレモンの酸味が唾液腺を刺激する。スライスされた果実を噛むと、さらに口内の酸っぱさが増して、思わず目が細くなる。


「——うまい」


「蜂蜜塩レモンだよ。萌くんの好みに合わせて、あま〜くしてみました」


 ちーは日向のような笑顔で、にししと笑う。


「姫っていうか嫁だよなぁ」


「よめ?」


「いや、こっちの話」


 ちーはきょとんとしている。

 そんな彼女の頬を指でつつきながら聞く。餅のようだ。桜餅。


「今日はどうする? 練習混ざってく?」


「見学で〜」


「ほいよ」


 ちーはリュックから白いデジタル一眼レフカメラを取り出した。なるほど、今日は『撮る人』なわけね。

 だったら、一段とかっこいいところを見せなきゃな。


「——なになに?」


 いつの間にやら、他の部員が興味ありげに覗き込んでいた。その中の一人、同級生の小鳥緑ことりみどりの視線は、ちーの手元にある瓶に向けられている。食べ物に関してはことさら目ざといやつだ。


「蜂蜜塩レモン。みんなでどうですか?」


「うわーっ、ありがとう! 私これ好きなんだぁ」


 ちーが緑にすすめると、その周りにわらわらと部員たちが集まってくる。ゾンビ映画かよ。


「独り占めはずるいぞ、王子ぃ」


「私も私もっ」


 たちまち俺は輪の中から弾き出されてしまう。

 ちーのへにゃっとした雰囲気は、サッカー部では大いに受けがよかった模様で、今やマスコット的な人気を博している。まだ大会前だと言うのに、彼女が応援に現れた試合の勝率は百パーセントという怪しい噂まで流れ始まっている。ツチノコかよ。


 ——うん。めちゃくちゃかっこいいところ、見せつけてやる。




   *




「萌黄くん、行ったよ!」


「まかせろっ」


 十一対十一。フルコートの模擬試合。

 ボールが俺に渡った時点で、両サイドのパスコースは切られている。中を切り崩そうにも、この悪路をドリブルで抜けるのは困難だ。さっきのようにシュートをするには、ちょっと距離が遠い。遮二無二ロングフィードという手もあるけど————、決めた。

 俺はその場でリフティングをする。そして、マークが付く前に、コントロールを維持したまま走る。ボールが剥がれそうになるけど、なんとか持ち堪える。


「なんだそれっ!?」


 驚いている隙に一人かわした。あと一人抜けば、シュートまでのラインが見える。向こうもそれは分かっているようで、正面にぴったりとつかれてしまった。

 しかし、抜くまでもない。踵でボールを斜め上に蹴り上げる。

 それは、緩い弧を描いて、呆然としていたキーパーの後ろの泥を弾いて、ゴールラインの後ろに沈み込んだ。


「王子ぃ!」

「萌黄くんっ」

「愛してるっ」


 文句なしのスーパープレイに、文字通り飛びついてくるチームメイトの抱擁から身を翻して、サイドで試合を観戦しているはずのちーを探す。


 その視界の隅をかすめたのは、旧校舎から駆け出してくる人影。

 あれは——、凛咲さん?


「ちー——?」


 ふいに言いようもない胸騒ぎに襲われる。

 ちーのいた場所では、水色の傘がひっくり返って雨に打たれていた。


 空が雷雨になっていたことに、今さらになって気がついた。




   *

   *

   *




 それから七月に入るまで——、


 ちーと凛咲さんは、家にも学校にも、一切姿を見せなかった。




   ***続く***

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