shot #4


   ***凛咲***




 つぶれた肺が、色を求めて喘いでいる。

 デッサンを何百枚と書いて、クロッキーを何千枚重ねて、スケッチを何万枚と破り捨てた。それでも、満たされない。

 漫然と——あるいは焦燥に駆られて描き連ねた束の中に、あの静謐なる桜の園は一枚とて存在しない。

 私の全てだった。想い、願い、焦がれた何もかもを、あの六十号のキャンバスに込めたんだ。


『金賞がどうした。値段のつかない絵に価値はないと言っただろう』


 真っ黒な墨汁のようにいつまでも薄まらない、父の言葉。

 先輩がもし、同じことを思っていたらどうしよう? もっといい絵を描き続けなきゃ、すぐに見放されてしまうんじゃないの——?


『絵は好き?』


 ——私は、先輩が好き。

 考えれば考えるほどに、筆は前へも後ろへも進まなくなる。

 いよいよ行く手のなくなった私は、足元の真っ黒な染みを、水の滴る絵筆で叩き続けるしかなかった。




   *

   *

   *




 ソファーに浅く腰掛けて天井を見上げると木目の境目に細長い耳と丸い尻尾——兎のような染みを見つけた。昔の人はこんなふうに月を眺めていたのかなと、ぼんやりした頭で考える。


 一週間後——五月二十日は先輩の誕生日だ。

 結局あのキャンプの日以降、彼女とは会っていない。というか、合わせる顔がない。帰りの車の中でもほとんどやり取りはなかった。主に私が彼女に目を合わせられず、避けるような態度を取ってしまったのが原因だと思う。


 ——失望されてしまっただろうか?

 むき出しの依存心——まさか、自分の中にあれほど醜い感情があるとは思わなかった。思い出すなり、背中がぞわっと一斉に泡立ってくる。

 そんな心の片隅に、あれだけのことをしても充足されない何かを感じるのは、きっと意識してはいけないんだろう。




 ふと、乾いた音が風に乗ってきて耳を掠めた。




「また、そういうことする」


「せんぱいが絵になるから仕方ないんですよ」


 なんの言い訳にもならない理由を掲げて、ちーちゃんはカメラから手を離す。彼女お得意の不意打ちショット。


「そんな屁理屈じゃ、もう、ごまかされてあげたりしません」


 窓辺のカーテンがそよぐ。青葉にかげる陽が爽やかに差し込む、小さな部屋の中にいるのは少女と私の二人だけ。

 少女はブレザーを脱いで白いブラウスの袖を捲り上げ、愛用のデジタル一眼レフを首に提げている。とんとんとローファーを鳴らして私の方に歩きながら、へらっと日向のように笑いかけてくる。


「よかった。なんだか疲れてる顔してましたよ」


 レースのカーテンがかかる窓際には、私が座るL字のソファーと机。机の上には、丁寧に畳まれたブレザーが置いてある。非公認同好会・放課後ウォーカーの活動場所である、図書室の奥にある資料室だ。


 熾烈を極めた勧誘活動もひと段落して、一年生はみんな部を決めていた。ちーちゃんだって、すでに正規の部に所属している。私たち非公認同好会の設立目的であった部活巡りも、無期限休止となって久しい。だから本来、この同好会は解散して然るべきなのだけど、他ならぬ彼女の希望で、月曜日と木曜日の毎週二日間、私たちはここで会うことにしている。


「部はどうなの?」


「気になりますか?」


「ちーちゃんが迷惑かけてないかは気にしてる」


「えぇ〜っ」


 少女はぷくっと頬を膨らませて、私の肩を小突いてくる。


「く——っ、ふふっ。ダメね、あの部はちーちゃんに負けず劣らず迷惑な子たちばっかりだったわ」


 ソファーの肘掛けに腰を下ろして、少女は私の方に背中を預ける。——軽いな。ふわりと漂う柑橘の混じった日向の香り。


「部長さんが少しだけ教えてくれましたよ。せんぱいのこと」


 現部長——羽賀先輩は個性豊かなシケンにおいて、画家という点で大きな共通項のある人だった。部長は風景画専門で、私は人物画メインだったけれど、なんとなく静かなものを好む気質で波長が合っていると思ったものだ。


「よく二人で野外スケッチに行ってたそうじゃないですか」


 そうだった。私がせがんで、二人だったりシケンのみんなだったり、連れ立って外に出た。そして、その場所には必ず先輩がいて、次から次へとちょっかいをかけてくるから、私は落ち着いて仕上げることができなかったんだ。


「せんぱい——」


「え……——?」


 ちーちゃんの指が私の目尻をすくう。そうされて、初めて湿り気に気付く。


「——あ、あれ。ごめん……」


 身体の反応に、心が追いつかない。パニックになりかける私の頭に、柔らかくて温かい手がのせられる。


「せんぱいの絵、美術室で見たよ。あたしはあの絵に——せんぱいに会いたくて、ここに来たんです」


 ちーちゃんはぽふぽふと、撫でるように手を動かす。それがあんまりに優しすぎて、少しくすぐったかった。


「ちーちゃんが私のファンなのは、素直に嬉しい」


「——うんっ」


 少女は天に向かって一声。


「せんぱいの『やりたいこと』、早速見つけちゃったかもっ」


 少女が立ち上がり、狭い資料室の中で華麗にターンを決める。私に鳶色の二つレンズを向けて、胸元でシャッターを切る。臙脂色のネクタイピンも愉快そうに踊った。


「——えっ?」


 それから、わざわざ私の元に戻ってきて耳打ちをする。


「ねぇ、せんぱい。こーいうのはどうですか————」


 彼女が囁く一言一言に、涙が払い落とされていく。

 不思議だ。さっきまで泣くほど塞ぎ込んでいたのに。——今ではすっかり、明日からなにをしようかとわくわくした気持ちで考えている。


「うん、これはかなり、ラブ、だね……」


 ——好きな人に好きと伝えること。

 最初に会った桜の園で二人で撮った写真に写った笑顔のように、普段やらない挑戦状なんて大胆なゲームを提示してみたように。この子といると、いつもの自分を軽々と飛び越えていってしまう。


 彼女の前では、誰もが表現者になってしまうのかもしれない。




   ***続く***

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