shot #3


   ***萌黄***




 まったりとした昼下がりすぎの陽だまりに佇む、檜造りの旧校舎の美術室。内装までが深い檜皮色である視覚芸術研究部——通称シケンの部室は相も変わらず平穏である。


「はっ! お前が芸術を語るなんざ一千年早いぞ、ミッチーッ!」


「生意気だな、シゲェッ」


「ごふ——ぅ」


 先輩たちは元気に取っ組み合いをしている。今まさに茂さんの黄色いパーカーの鳩尾に、道明さんのマジ蹴りが炸裂したところだ。


「キミら、イーゼルは割るなよぉ! もう買ってやらんからねっ」


「————(お茶を啜る音)」


 部長の恭一さんと副部長のヒワさんは呑気なもので、お湯出しのルイボスティー片手に観戦している。旧校舎とはいえ、美術準備室の給湯設備は現役ばりばりらしく、本格的なティーセットやミル付きのコーヒーメーカーまで持ち込まれている。恭一さんの趣味だそうな。


 そんな部員たちの様子を横目に見ながら——、


 俺は部屋と廊下をぐるぐると行ったり来たりしていた。背後からは真っ白なデジタル一眼レフを構えた少女——ちーが追いかけてくる。


「どうして逃げるの、萌くんっ」


「いや、あんま撮るなって——っ」


 俺は火曜日と金曜日の毎週二日間、シケンの活動に参加している。本来の所属は女子サッカー部なので、練習を欠席させてもらう代わりに、結構キツい自主練が課せられた。

 それを苦渋の決意で飲み込んで入部して、いの一番に学んだこと。

 ——改まってちーに撮られるのは恥ずかしい。


「はーい。みんな集合っ」


 ヒワさんがぱんぱんと手を叩く。

 それだけで騒然としていた部室が静かになる。入部して二番目に学んだのはヒワさんには決して逆らってはいけないということだった。


「本日も気合を入れていきましょう。新入部員歓迎、作品講評会を始めますっ」


 部員は俺も入れて六人。ちょうど三人がけの長机を二つ向かい合わせに並べて座る。

 ヒワさんは明るい声ではきはきと部員たちを仕切る。


「一人ずつ作品を見せてもらうから、それぞれ良いところ、直した方がいいところを意見し合ってね。早速行こうか。部長、お手本をどうぞ」


「うん。お手柔らかによろしく」


 そう言って机の上に出されたキャンバスの油絵に、目を奪われた。


「この間の夕方、描いたんだ」


 描かれていたのは一面の雲と、その隙間から漏れて出てくる朱色の陽射し。

 ——天使の梯子だ。

 雲と夕焼け、全体的には暗い配色のはずなのに、差し込む光の泡のような透明感と彩度の高い影が、虹のように幻想的だった。

 ちーも隣で鳶色の瞳に星を浮かべている。


「あの——、すごすぎてなにも言えないんですけど……」


「部長は風景画の天才なの」


 茂さんが黄色いパーカーの胸を張って自慢げに言う。


「ついたあだ名が『雲間の魔術師』ってね」


「それつけたの茂くん、キミじゃない」


 向日葵色ヘアーのヒワさんが、俺たちに向かって右手をひらひらと振る。


「アタシは芸術家じゃないよー。事務とか広報全般を担当。もちろん備品も。ばっちりサポートするから頼ってねっ」


「でもって、『シケンのひまわり』ちゃん、でぷ……っ」


 彼女のシケン内での二つ名を口にした茂さんの顔面に、裏拳が突き刺さる。さっきからぼこぼこである。

 素っ気なく拳を引っ込めたヒワさんは、鼻を押さえている茂さんの肩を小突く。


「ほらほら、なにぼさっとしてんの。次は茂くんよ」


「——はい」


 茂さんは場を鎮めるように咳払い。そして、どこからか——実際には部屋の隅にあるカバンまで走っていって——取り出した紙束を俺たちの目の前に掲げる。


「さぁ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! これが『炎天下の漫画家』——斉木茂の魂の作品だぁ!」


 それは文字通り二十頁ほどの漫画だった。目の大きな少女漫画っぽい絵柄に、写真をそのままポップ調に変換したような背景。ヒロインの女の子二人が一人の男の子を巡って恋の駆け引きをする話だった。

 確かに絵はきれいだけど——、


「——ビミョウ?」


 茂さんは一転自信なさげに聞いてくる。よく見ると目の下に隈ができている。


「いや、絵とかすっごいきれいですよ?」


「うーん、いちかちゃんは? ——ってお留守かしら」


 話を振られたちーは作品に没頭していた。聞こえているのやら、こうなった彼女はしばらく無反応だろう。


「わからんか!? お前には芸術に必要なもの——ストーリー性、意外性、共感性が、圧倒的に欠けている!」


「欠けてるったってなぁ——。偉そうに言ってくれるが、どうしたらいいってんだ……」


 茂さんは黒い短髪を焦ったそうにかく。


「この男の子のお話を描いてみたらどうですか?」


 ふと、それまで沈黙していたちーが告げる。


「それって……、どういう?」


「この子は、主人公じゃ、ないよね?」


 茂さんばかりか、ヒワさんまでが疑問を口にする。

 そう。ちーが指したのは、ヒロインでもメインの男の子でもない。その男の子の友達——地味で目立たない少年と描かれている彼だった。


「確かにそうですけど、この子は、ヒロインたちや彼が困ったときに必ず手助けしてくれる役柄なんですよ。それって、一番近くにいる人ってことだと思うんです。この子から主人公たちはどう映るのか、考えてみるのもいいかなって」


「ふむ——……」


 茂さんは顎に手を当てて、真剣な面持ちで頷いている。


「なるほど、新しい視点というわけだね。さすがだよ。いちかっ」


 道明さんがちーの肩を組もうと差し出した手をブロックする。彼は目線で威嚇してくるけど、どうやら勝手に俺に対する苦手意識を持っているっぽいので、最終的にはすごすご引き下がる。身内に敵を作るのは不本意だけど、ちーを守りやすいことだけは幸いだ。


「ふん、トリを飾るのは僕、『柔らかい彫刻家』こと櫻井道明の作品を見よ!」


 ドシンっと大きな音を立てて、机の上に石膏像が置かれる。


「像はいいですけど……」


「お前、また手かよっ!」


 手——だけだった。手首から先だけの等身大の部分像。指先の丸みや関節の太さ、掌の細かい線までもが精緻に彫られている。まさに『理想の手』を実体化したような。それはそれですごいんだけれど、彫刻と言われて胸像を思い浮かべていた俺は面食らってしまう。あと、指の関節に比べて、手首の関節あたりが雑なのも気になった。


「煩いっ、この手の美しさが分からんかっ!?」


 道明さんが茂さんに突っかかろうとしたその時、


「いちかちゃん、なにしてるの……?」


 ヒワさんの本心からの問いかけ。

 ちーが——、石膏像と記念撮影していた。


「やぁ、いい手だなぁと思ったらつい」


 ——らぶ・あんど・ぴーす。

 まぁ、確かに。ピースに見えなくもないけど。

 ししっと笑う彼女に、道明さんすら唖然としている。恭一さんはその脇で事もなげにお茶をすすっていた。


「あー、ごほん。上級生のは以上だけど、いちかちゃんはどう? 何か見せたいものがあったらどうぞ」


「あたしはこれを——」


 ちーが差し出したのは、もちろん写真。


「へぇ————」


「凛咲りん! 笑ってるじゃんっ!」


 その小さな紙の中に広がっていたのは、風に舞い上がる、淡いながらも際立つ桜色。その中心にいる凛咲さんとちーは——、幼い頃からの遊び友達のように笑い合っていた。


「それからですねぇ——」


「ちょ——っ、これいつの間に——!?」


 ちーがリュックから追加した写真に写っていたのは、俺だった。ピッチで泥だらけになってボールを蹴っている。次の写真はロングシュートを決めた時のやつだ。


「この間の練習試合を覗いたときにぱしゃっと」


 しゃあしゃあと言ってのける。聞いてないぞ。ちーの柔らかい頬をつねる。


「うひ——ひょえふんっ」


「——部長、決めました?」


「うん」


 恭一さんが厳かに立ち上がる。すると、波がすっと引くように空気が和んで、全員が彼に注目する。オーケストラの指揮者のようだ。


「この部では初香先輩の時代から部員に二つ名をつけることになってるんだ。さっき僕らが名乗ったようにね」


 ああ、それで。さっきから変なあだ名だなぁと思っていたけど、姉ちゃんの発案だったとしたら呑み込める。昔から『子分A』みたいなニックネーム呼びが好きな人なのだった。


「では、恭一くん。お願いします」


 ヒワさんが大げさに一歩下がる。彼女はこういった間の取り方が絶妙にうまいと思う。姉ちゃんがリーダーなら、さしずめ彼女は参謀といったところ。


「いちかくんは、うん。この写真から取って『恋するファインダー』かな」


「はいっ」


「萌黄くんは『ネモフィラの君』——うちの成功の象徴だ」


「……王子を引きずってませんか?」


 恭一さんは素知らぬ顔で俺を見ている。

 ——ろくでもない予感はこれだったのかな……?

 また恥ずかしいあだ名が増えてしまった。


 でも、成功の象徴、ね————。

 それが真実ならなんら申し分ない。むしろ願ったりだ。

 俺が望んでいるは成功は、昔からひとつだけだから。


 それよりも『恋するファインダー』——ちーの恋はどこに向かっているんだろう。もう、相手を捉えているのかな。凛咲さんと写った写真に対して、恭一さんが何を感じたのかが気になった。




   ***続く***

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