pair #4


   ***凛咲***




 ヒワさんは部屋に入るなり、敷かれてあった洗い立てのふかふかな布団に飛び込んだ。ばふっと音を立てて。空気が溢れ出して、向日葵色の髪と、枯草色の浴衣の裾が舞う。


「やぁ、広いですねー。ご飯も美味しかったし、いちかちゃん様様ですわ」


「ヒワちゃん、食べてすぐ横になると、すくすく育っちゃうわよ」


「縦方向になら、いくらでも伸びて構わないんですけどねー」


 ヒワさんは広い布団の上をごろごろと転がる。子供みたいだ。

 先輩は、和室の奥の広縁にある木枠の椅子にゆったりと腰掛けて、扇子で胸元へ風を送っている。口を小さく開いて、そこから息を吐き出す。その仕草はなんとも艶っぽい。

 私も枕を抱いて、向かいの椅子に腰を下ろす。何か抱くものがあると安心するのは昔からの性分だ。

 窓から見える空には星が瞬いている。通り雨はすっかり去って、雲一つない闇色の夜空が広がっていた。


「ヒワさんはそのままで充分可愛らしいですよ」


「詩織ちゃん愛してるぅ!」


「きゃあっ」


 枕元に正座していた詩織に、ヒワさんが寝姿勢から突如として飛びついた。頬ずりされている親友は、困ったように笑いかけてくる。

 ——ヒワさん、女の子好きだからなぁ。

 私は適当に笑い返して、そっと目を逸らすことにする。後で、愚痴の一つくらいは甘んじて受けよう。

 それよりも、先輩に問い正したいことがある。


「どうして、ちーちゃんにあんなこと言ったんですか?」


 よりにもよって『部屋割りの決定権』だなんて。

 私たちを無視してというのは差し置いても、あんな突拍子もない条件を出して挑発するのはかわいそうだ。先輩はそろそろ、自分の発言がどれほど『いらない含み』をもって解釈されるのか、自覚して欲しい。


「乗ってくると確信してたからよ」


 先輩の鳶色の瞳が華やかに瞬く。

 やっぱり違う。ちーちゃんは部屋割りくらいで実の姉に陥れられる可能性を疑うような、余裕のない心の持ち主じゃない。

 もっと別の——、


「何かを、言ったんですね」


「もう、いちかのことになると鋭いな。——そうよ。家を出る前に、あの子に注意しておいたの。あんまりモエとべたべたしすぎじゃないのって」


「いいじゃないですか。付き合ったばっかりなんですよ」


「そこまで見えてるのに、らしくないとは思わないの?」


 先輩の瞳に射抜かれる。同じ色をしているけど、ちーちゃんのビー玉のような輝きとは異なる、摩擦のあるすりガラスのような煌めき。


 ダブルスでのちーちゃんは、さらに調子が悪化していた。あっちにはスポーツ万能の萌黄くんがいたのだけれど、ちーちゃんらしくない凡ミスが響いて、あっさりと私たちに軍配が上がった。

 確かに、試合の前から「あれ?」と思う場面はあった。そもそも部屋割り程度を賭けた勝負を受諾した時点でちーちゃんらしくないのだ。でもこうして裏側を明かされてしまうと、先輩がかけた揺さぶりが原因だという方が信憑性が高い。


「ま、私の思い過ごしかもね」


 先輩は自分の黒髪を指ですいて、愉快げに笑う。


「でも、さすが妹ってところかしら。考えてる部屋割りまで同じとはね」


 自分から持ちかけた勝負。なのに先輩は、再戦を要求するちーちゃんに向かって、「私は一切の権利を宮古いちかに委譲する」と事もなげに言ってのけた。結局、この部屋割りを決めたのはちーちゃんである。


「だったらなおさら、あんな当てつけるような勝負——」


「いやだもの。あの子にりさちゃんを取られるの」


 ——あ。

 心臓がどくんと跳ねる。


「それって……」


 ——ヤキモチ?

 私が以前、先輩と詩織が仲良くしているのに嫉妬したのと同じように。

 もしかしなくても、そうだ。以前の私なら見過ごしていたかもしれないけれど、今なら断言できる。先輩よりもちーちゃんと過ごす時間のほうが長いから羨ましくなって、それで牽制のようなことをしたんだ。所在なさげな左手で浴衣の合わせをつまみ、右手で照れくさそうに頬を掻く先輩の横顔が、にわかに眩しく見えてくる。


「まぁ、ストレートで勝ったんだから上出来よ。ありがとうね、りさちゃん」


「えっと、いえ……」


 先輩がぱっとこちらに顔を向ける。

 私は先輩の顔を見返すことができず、俯いてしまう。膝の上でもじもじと指を合わせる。それでもむず痒くて、身悶えしそうになるのを抑えるのに必死だった。

 そこに、割り込む明るい声。


「はいはーい。聞きたかったんですけど——」


 ヒワさんは、詩織を膝枕していた。長い髪を撫で撫でしつつ、もう片方の手を挙げて訊ねてくる。詩織は達観した表情でされるがままになっている。もう流されるに身を任せることにしたんだろう。


「初香さんと凛咲りんって、いつのまに進展してたんですか?」


「は——っ」


 ——はい?

 まっすぐ飛んでくる豪速球な質問に口籠る。さっきの気恥ずかしさも手伝って、心の準備が間に合わない。

 でも、先輩は動じた様子もなく、鷹揚に扇子を閉じて口許に添える。


「ヒワちゃんってば、ずばっと聞くわねぇ」


「言質もらったと思っていいです?」


「ええ。りさちゃんと私はそういう関係なの」


「ひょぉ。いつの間に。その話もっと聞かせてくださいよー」


 ヒワさんの眼がきらきらとしている。シケンに顔を出していた頃、ヒワさんに似たようなことを聞かれたっけ。そのときは先輩がさくっと否定してしまって、密かに傷ついて、いたたまれなくなったのだけれど。

 でも、居心地の悪さだけはその時以上だ。


「ふぅん。凛咲も隅におけないのね」


 暗がり中、詩織の——興奮したヒワさんにもみくちゃにされながらも——落ち着いた、おくゆかしい笑い声が響く。顔が熱くて息苦しい。私は膝の上に置いた枕に顔をうずめて、すっかり動けなくなってしまった。




   *




 先輩たちが寝静まった頃に、こっそりと部屋を出た。畳を抜き足差し足で歩き、オートロックの扉をそっと開ける。深夜に近い時間だが、遠い場所まで来たせいか、なんとなく気持ちが騒いでしまう。窓から眺めた星空を直接見たかった。


 玄関ロビーについてすぐに気づいた。温泉の入り口前にある休憩スペースのソファーに、誰かがうつ伏せに寝そべっている。あの水気を含んだ栗毛は——、


「ちーちゃん」


「はふぅ——。せんぱ〜い」


 ちーちゃんが片手を挙げる。私は小走りで、彼女の元に向かった。


「こんな時間まで。温泉は苦手じゃなかったの?」


「大好きですよ。すぐのぼせちゃうから、小刻みにたくさん入るんです」


「そーいうものなんだ?」


「そーいうものなのです」


 行灯の、温かみのある黄色い明かりに照らされて、ちーちゃんの上気した頬がくっきりと浮かび上がる。卓球の時に感じた緊迫感みたいなものは消え失せて、いつもより三割増しでリラックスした雰囲気を放っている。半分とろんと伏せられたまぶたが、私の眠気まで誘発してくる。マイナスイオンとか出てそうだ。


「星を見に、ちょっと出ない? 山の空は、きっと広くて、綺麗だよ」


「うんっ、——っと、わぁっ」


 ちーちゃんが跳ねるように立ち上がって、ふらりとよろけた。

 後ろに倒れそうになったところに、すんでのタイミングで手を差し伸べ、彼女の手を握ることに成功する。無我夢中で思いっきり引っ張ると、軽くて小柄な身体が私の胸の中におさまる。


「あぶないなぁ。のぼせてるんなら、急に立ち上がっちゃダメだよ」


「う、うん——。ごめんなさい」


 ちーちゃんがぱっと手を離して駆け出していく。


「あ、もう。また転ぶよ」


「せんぱいがいれば大丈夫ですよ。早く行こっ」


 ——何が大丈夫なんだか。

 ちーちゃんに釣られるように私も駆け出して、旅館の玄関をくぐった。


 見上げれば、壮大な夜空だった。まるで星が降ってきそうな。雲も色も全て雨に洗い流されて、暗く澄みきった星空だけが残されている。


「綺麗……」


 ふいに、鼓膜を軽く叩くような音がした。


 ちーちゃんが私に向かって構えているのは、——藤色の、フィルム式のトイカメラ。


「写真、撮ってもいいですか?」


「そういうのって普通、撮る前に聞くのよ」


 春先にこれと同じようなやり取りをしたな。もうずっと昔のように感じる。あのときとは随分と、色々なことが変わった。

 微風にたなびく栗色の柔らかい髪。口許にくっきりとした笑みを浮かべるちーちゃんは、夜空の中でもそこだけ日向みたいに見えた。


「それ、まだ持ってたんだ」


「せんぱいに、もらったものだから」


 九年前の桜の園で、私がちーちゃんにあげたカメラだ。最近はもっぱら白いデジタル一眼レフを愛用しているから、とっくに使っていないものと思っていた。というか、まだ動いていることにびっくりだ。

 ちーちゃんはそれを、丁寧な仕草で袖の中にしまう。


「次の雨が明けてもまた、せんぱいとキレイな空を見たいなっ」


「——そうだね」


 私のすぐ側までやってきたちーちゃんを、そっと背中から抱きしめる。


 目まぐるしい春が過ぎ去っていく。

 夏の足音はもう、すぐ近くに聞こえていた。




   ***続く***

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