pair #3
***萌黄***
深緑色の板の上を、白いピンポン球が爽快に跳ねる。
「ゲームセット! マッチ、トゥ、ちー!」
「——っはぁ、もぉ、なんで勝てないのよー。悔しいっ」
結は、はだけた枯草色の浴衣の襟を直しつつ、裸足で地団駄を踏む。本当に、呆れるほど負けず嫌いだな。
「宮ちゃんすごいねー。三連勝っ」
「ふふっ、ゆっちゃんの動きは見切ってるからね」
栗毛を、凛咲さんお手製のマーガレット編みにしたちーは、天狗になっていた。
——それよりも、盛大に着崩れた浴衣をどうにかしてほしい。
動きやすいようにと、卓球場に入るなり、ちーは豪快な裾上げを敢行した。裾を折り上げて、帯に挟む。試合中、ほどよく柔らかそうな太腿がちらちら覗いていて、俺としてはだいぶ気が気でないんだけど。現に、隣のコートで打ち合っている茂さんや道明さんの視線が、さりげなく、いや、露骨に注がれているし。
「くぅぅ——、もう一回よっ。絶対負かす」
「結、熱くなりすぎ。俺もそろそろ打ちたいよ」
ちーの浴衣をあっちこっち直しつつ、俺は肩を竦める。さっきから審判ばかりで、まだラケットすら握らせてもらえない。
「う、萌黄くん……。わかったわよ」
「珠、やろうぜ」
「う、うん」
最初にちーと試合したっきり、同じように観客に徹していた珠を誘った。俺は結から、珠はちーからラケットを受け取って、コートに向かう。
「私が審判するわ」
入れ替わりにスコアボードの後ろに立った結がそう言ったとき——、
「いちかっ」
「お姉ちゃん?」
台風——もとい姉ちゃんがやってきた。手にはコーヒー牛乳の瓶とソフトクリームを持って、後ろには凛咲さんとヒワさんと詩織さん、挙げ句の果てには龍さんまで引き連れて。
「調子いいみたいね。全勝?」
「うん」
「私もよ。そろそろ、勝ってる者同士で決着をつけようじゃない?」
姉ちゃんはソフトクリームを口に運ぶ。
苦笑いする龍さんの手元には革製の、コインケースとおぼしきもの。
——まさかじゃなくて間違いなく、賭けを持ちかけて勝ったんだろうね。
「う〜ん。あたしはいっぱい打ったから、萌くんと代わろうかなぁ」
ちーはへらっと日向のように笑う。可愛いな、もう。せっかくよれよれの裾も直したところだし、ぜひともそうしてもらいたい。特に男性陣相手に、これ以上肌を晒すのは勘弁して欲しい。
ところが、姉ちゃんの次の一言が状況を一変させる。
「そうねぇ。勝った方が部屋割りの決定権を持つ——ってのは、どう?」
生まれたのは不自然な沈黙。
「————。いいよ」
「ええ。ちー、やるの?」
彼女のことだから、てっきりフラットに流すものだと決めてかかっていた。勝負事が好きで、相手の戦意を煽るのにかけては右に出るものなし——姉ちゃんという暴風雨を唯一無傷でやりすごせる人は、妹である彼女とその両親をおいて他に知らない。
あの葛藤するような間に、ちーはなにを思ったんだろう。四人部屋を三つ。男女は分けるとして、八人いる女性陣の部屋割りなんて、適当でもいいだろうに。
——いや、もちろん、俺はちーと一緒がいいけど。
「審判はあんたよ、モエ」
「えぇー……、俺まだ一回も試合してない——っ」
「いいわよね」
「——はい」
こうなったらもう手がつけられない。生まれた頃から徹底的に宮古初香の流儀を叩き込まれた俺は、姉ちゃん相手には遺伝子レベルで逆らえないのだ。
珠が空けてくれたコートに、姉ちゃんが立ち塞がる。
しぶしぶ、ちーにラケットを受け渡して————、
小走りでスコアボードの前に移動する。両脇では結と珠も見守っている。
「萌黄くん、変な顔してるわよ?」
結が俺を見上げて訝る。
「あ、あはは……」
やばい。にやける。
すれ違い様、ちーがこそっと耳うちしてきた。
——「絶対勝って、同じ部屋になろうね」
ぬるい吐息と共に、まだ耳に残っているささやき。こうやってわかりやすいシグナルを発してくるちーは、以前にもまして愛らしい。
「ふふん、久しぶりに真剣勝負をしましょう?」
「望むところだよっ」
睨みあう姉妹。
俺はちーの勝利を願いつつ、つとめて公正な審判に専念することを決める。
「ファーストゲーム。姉ちゃん、トゥ、サーブ。『0 - 0』——ラブ、オール!」
姉ちゃんがサーブを打つ。様子見と言わんばかりの緩やかなサーブが、ちーの利き腕である左寄り、センターラインを割ってくる。
すかさずちーは前進しつつ回り込み、強打で攻める。それはサイドライン際、右利きの姉ちゃんにとっては逆手になるコートの左サイドを打ち抜いた————、ってことにはならなかった。
「『1 - 0』——ワン、ラブ」
コートから跳ねたボールは、かつんかつんと床を弾んでいって、ちーの後ろの壁に当たる。
「あまーい」
ちーの打つ方向を予測していたかのように、バックハンドで待っていた姉ちゃんが鋭い打球を返して得点したのだ。反面、読まれたのが予想外だったのか、ちーは呆然としている。
「むぅ————、次は決めるから」
すぐに気を取り直したちーは手元でラケットを回して、軽く飛び跳ねる。
——うん?
俺の心の声と、いつのまにか側に立っていた凛咲さんの呟きが、全く同じ響きをもって伝わる。
言葉にならない疑念を抱いたまま、試合は進行していく。
サーブもスマッシュも強さという意味での差はないと思う。実際、運動神経がいい二人だ。実力は拮抗していて、激しいラリーの応酬が続くのだけれど。ここぞという瞬間にはことごとく、ちーの読みが外れてしまう。彼女が点差を埋めようとして前のめりになればなるほど、姉ちゃんの思う壺だった。
「ゲームセット! マッチ、トゥ、姉ちゃん!」
「っし——っ」
姉ちゃんが腰だめに小さなガッツポーズ。
終わってみればゲームカウント『3 - 0』——姉ちゃんの圧勝だった。
ちーのサイドに落ちたピンポン球が、乾いた音を立てて床を跳ねる。気づけば勢揃いしていたギャラリーの視線がみんな、そちらに集中する。
「むぅぅぅ——……」
——そうだ。
違和感の正体。こんなにゲームでムキになっているちーを見るのは、初めてなんだ。
「——っ。もう一回っ!」
ちーは卓球台にぶつかるほどに身を乗り出して、声を張りあげる。悠然と立っている姉ちゃんとは対照的に、大きく息を切らして玉のような汗を滴らせるちー。鳶色の瞳が揺れている。それを痛々しいと思うのは、俺の主観が入りすぎているせいだろうか。
『萌くん……すきだよ……っ』
俺はもう、ちーがあんな風に泣くのを見たくない。
そう思ったら、身体が勝手に動いていた。
「ダブルスだ、姉ちゃん! ちーと俺が組む」
俺は珠からラケットをひったくり、ちーの側に駆けつける。
姉ちゃんはそんな俺たちを冷ややかに一瞥する。その視線に向き合ってようやく、姉ちゃんの提示した『勝者の特権』の意味を漠然と推測できた。姉ちゃんはちーと俺の間にある繋がりを快く思っていない。
わかってるんだ。あの黄昏時に、俺は正しく彼女の想いに気づけたと思う。桜舞い散る園にたたずむ凛咲さんの写真を、大事にしまい込んでいるのも知っている。だから、本当はこうして飛び出すのは得策じゃない。
「いいわよ、私は」
だって——、
「りさちゃん、私とペアを組みましょう」
姉ちゃんは凛咲さんの腕を引いて、公然と抱き寄せる。ヒワさんが「きゃっ」と歓声をあげた。凛咲さんは心底戸惑ったような表情をしている。
この人のやることはいつも、誰かの心に波風を立てずには終わらない。
ふいに、窓がガタンと揺れる。にわか雨だろうか。水滴が音を立てて、窓に吹きつけられた。
「萌くん」
「うん」
「絶対負けないから」
「ファーストゲーム。萌黄くん、トゥ、サーブ。『0 - 0』——ラブ、オール!」
——どうしてこんな構図になっちゃうんだろうな。
俺は心底姉ちゃんを恨みつつ、最初のサーブを放った。
***続く***
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