piece #4


   ***凛咲***




 こうして、ノイズ一つない空間で先輩と二人きりになれたのは、ちーちゃんのおかげだった。


 明け方、突拍子もない——サングラスとマスクをつけて姉の部屋に忍び込み、音も立てずにスマートフォンのアラームを止めてみせるという——映像を配信してきた彼女は、電話越しにいつものけろっとした声で、デートプランの変更を提言してきた。

 そこからは時間との勝負だった。承諾した私は、すぐに自宅を出て、萌黄くんの家に向かった。息をつく暇もなく、ちーちゃんと萌黄くんがあらかじめ仕込みをしてあった材料もろもろを使って、三人がかりであの料理を仕上げたのだ。

 一番緊張したのが、料理を運び込むとき。うっかり先輩が起きてこないかと、最後まで冷や冷やさせられた。

 しかし、すべての作業を終えて、ちーちゃんの家でお茶をご馳走になっても、元々約束していた十時には余裕があった。

 ——これも、ちーちゃんの驚くべき手腕。姉譲りの一芸……かしら。




 お昼からずっと、先輩と時間を忘れるほど語り合った。

 彼女が卒業してから大学に入って、だらけきっていたサークルの実権を握るまでの話——、二週間ほど南米に行ってサバンナの湿原を満喫してきた話——、それから、入学前に語学留学の内定をもらっていた話。どの話を聞いても、先輩は逞しくて、エネルギーに溢れている。

 でも、私は知っているんだ。彼女だって悩み葛藤していること。

 ——普通に恋をして、一喜一憂するのだということ。


 レースのカーテン越しに窓の外を見ると、空は宵の口に差し掛かった頃だった。でも、ちーちゃんに送ったメッセージには一通も返信がない。夕方前には萌黄くんの家から帰ってくると言っていたのに。


 いよいよ不安に思い始めた頃、玄関の扉が開く音がした。

 先輩が大股でそちらに向かっていくので、私も後についていく。


「ただいま」


「おかえり。待ちくたびれたわよ」


「ごめん、姉ちゃん。ゲーム始めたら意外と白熱しちゃってさ」


 先輩は腕を組み、廊下の縁に仁王立ちする。声色に怒りはこもっていない。ちーちゃんの悪戯にはまったのをしきりに悔しがっていたので、一言くらいぶつけたい気分なんだろう。

 ぺたんこのスニーカーを履いて土間に立っているちーちゃんは、萌黄くんに寄り添うように腕を絡ませている。こんなにぴったりくっ付いている二人は初めて見た気がする。先輩も同じことを思ったようで——。


「どうしたのよ、そんなにいちゃついて」


 ちーちゃんは胸元で組んだ手をきゅっと握る。それは私の中にある彼女の印象からは、いまいち想像し難い弱々しさを感じた。


「お姉ちゃんこそ、ばっちりだったみたいだねっ」


「何がばっちりよ——」


「あたしからのバースデープレゼントそのいちっ」


 ちーちゃんは人差し指を立てる。

 その瞳はあやまたず私の眼に向けられていた。

 先輩と私は顔を見合わせる。


「んー……——?」


 ——もしかして、私のことを言ってるんだろうか。

 プレゼントって……。ただならぬ想像が頭をよぎってしまい、顔が爆発しそうになった。


 そんな私を巻き込んで、ちーちゃんが打ち合わせておいた号令をかける。


「そのに! ——らぶ・あんどっ」


 私は慌てて、カーディガンの右内ポケットから円錐形のクラッカーを手に取る。紐を引いて——、


「「「ハッピーバースデー!!!」」」

「お姉ちゃんっ」「姉ちゃん!」「先輩」


 玄関をいっぱいにするほどの色とりどりの紙テープが舞った。絢爛華麗を体現したような先輩にぴったりの、本当に派手な誕生日だ。

 先輩は切れのある眼を丸く見張ってから、やがて口許を綻ばせる。


「——ありがとう。あなたたちが祝ってくれることが、何よりの勲章よ」


 先輩は紙テープに私たちが書いたメッセージを読んでいる。

 ——先輩とたくさんの時間を過ごせますように。

 読んで欲しいけれど、いざ読まれていると思うと、少し恥ずかしい。でも、大丈夫。これからはきっと、面と向かって言葉で伝えることができるから。


「ああもう、りさちゃん!」


 天井を仰いで叫んだのは、照れ隠しだろうか。

 今度はそろそろ来るだろうと思って用意していた。カーディガンの左内ポケットから円錐形のクラッカーを手に取る。紐を引いて——、


「ハッピーバースデー! ちーちゃん!」


 出会った頃には誕生日が過ぎてしまっていたから、やり直すならこのタイミングだと決めていた。

 ——宮古いちか、四月一日生まれ。

 詩織の手伝いを名目に全校生徒のリストを覗く権利を持っている私は、彼女の誕生日をあらかじめ知ることができた。


 私はちーちゃんの手を開いて、小箱をのせる。


「プレゼントだよ」


 少女はきょとんとした表情で私を見つめる。

 一瞬感じた小さな違和感は、なんてことない——、三毛猫の髪留めがついた分け目が朝と逆になっていることだった。


「いつ——、買ってたんですか?」


「『ハチクマ』で先輩のと一緒に。まさか二人分、一気に見つかるとは思わなかったわ」


「開けていいの?」


「うん」


 ちーちゃんが箱を開けて小包を解く。

 中身はカメラ用のストラップ。表面は緋色のちりめん地に白い兎のマスコットが散りばめられた柄、裏面は萌黄色の生地に白茶黒の三毛猫が散りばめられた柄————、なんとなく私たちを表現した色柄の取り合わせだと思ったのだ。

 先輩がプレゼントしたデジタル一眼レフに私がプレゼントしたストラップをつけてくれたら、それは例えようもなく嬉しいことだ。

 私は日向のような笑顔を期待していたんだろう。だから、彼女の瞳から大粒の雫がこぼれ落ちて、はっとしたように萌黄くんの肩に顔を埋めたのを見て心の底から慌てた。


「え、え——、ちーちゃん? 大丈夫?」


「————っぅ……ひぐ……っ」


 ちーちゃんの両肩が震え、我慢しきれずに漏れてしまったような、押し殺した嗚咽。


「ちー、よかったじゃん」


「うん——っ」


 萌黄くんがちーちゃんの頭を撫でる。どうしてだろう。いつか思い描いた、ちーちゃんが付き合いたいと思うような人——その虚像に萌黄くんの姿が重なった。

 ちーちゃんが顔を上げる。


「ありがとう、せんぱい。宝物にするよっ」


 少女は涙をぽろぽろとこぼしながら、でも——。いつもの日向を感じさせる微笑みと共に、ストラップを胸に抱いた。




   *




 四人で食事をして、ゲームをして遊び、気づいたら十二時を回るところだった。萌黄くんが持ってきた、『ピンチを手札で切り抜ける』カードゲームが面白すぎて、つい夢中になってしまった。アドリブの得意な先輩とちーちゃんの独壇場だったけれど。

 萌黄くんはちーちゃんの部屋に、私は先輩の部屋に泊まることになった。


 先輩の部屋は雑貨屋『ハチクマ』に負けず劣らずというか————、

 インド象の隣にスフィンクスが鎮座していて、壁にはどこかの民族からもらったという派手な仮面が何枚も並ぶ、まさに異空間と呼ぶのが相応しいような部屋だ。他にも土器やら装飾品やら——よく分からないけど、考古学的にはたいそう値打ちのあるらしい物体が、部屋のそこかしこを占拠している。

 全部先輩とご両親のお土産らしい。どんな人たちなんだろう。

 異文化交流ここに極まれりというか。こんな落ち着かない部屋で眠れるだろうか。実際、暗がりに浮かぶ仮面三兄弟はかなり不気味で鳥肌が立った。


 先輩はドレッサーの前で化粧を落としている。ベッドに座っている私の角度から、キャミソールの大きく開いた胸元が見えそうになって、反射的に目を背ける。

 耳鳴りがする。最初の頃はこの沈黙ひとつが気まずかった。対応を誤ったら自分が取るに足らない人間だということを見破られてしまうと思ったから。この人は才能に強く惹かれる人だ。底の浅い才能では、彼女をつなぎ止められない。そう思う度、胸が締め付けられるように痛かった。

 手元の包みのリボンを、強く握りしめた。


「おまたせ」


「せんぱい……」


 先輩はベッドの脇に立っていた。艶やかな黒髪を下ろして、シースルーのキャミソールに紅色のレースの下着姿。伸びやかな肢体と健康的に焼けた肌を惜しげもなく晒している。


「先に、プレゼント。受け取ってもらえますか……?」


 私は先輩に赤い布の包みを差し出す。彼女がリボンを解いていく。


「——ランタン?」


「はい。また先輩と、行きたいと思ったから」


 黒いシルクハットをかぶった透明なプラスチックの熊。シルクハットに取っ手がついていて、プラスチックの部分が光る『ハチクマ』オリジナルのランタンだ。


「ありがとう。今日は本当に、感動させられてばかり」


 先輩はランタンをベッドサイドに置いて、早速明かりを灯す。部屋の照明を消すと、光が炎のように揺らめいていた。

 それから、私の隣に腰掛け、私の頬に手を添える。


「いい、りさちゃん?」


 私は頷き返す。


 唇を合わせたキス——そこから、先輩の唇は首筋へ。焦ったくなるほど時間をかけて、彼女は私にマーキングする。直に触れた先輩の肌は風邪でも引いたように熱を帯びていた。

 やがて、唇が私の耳たぶを咥える。経験したことのない感触に全身がぞわっと反応する。


「ん————っ」


「し——、声おっきい……。隣のいちかに聞こえちゃうよ……?」


「いじわ、る————、っ」


 先輩は私の身体を布団に横たえる。壊れ物を扱うように優しく。


「怖い?」


「ちょっと……怖い、です」


「私も、怖い」


 先輩が私に体重を預けてくる。途端に漂う柑橘の濃密な甘い香り。


「——嫌だったら言ってね」


 素っ気ない響き——だけど、それは心許なさの裏返し。

 私は先輩の手を取り、指を絡める。

 ——そうして二人で確かめ合って、二人で進むの。


 この記念日はつかを、私は絶対に忘れない。




   ***続く***

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