interlude:理想郷
視研《りそう》
(一年前)八月三十日 午後一時三十分。
ケヤキの木々の合間から、行き遅れた蝉の声が延々と鳴り響いている。それが、降り注ぐ日差しを余計に加熱させるようでうんざりする。茹だるような空気の中に混じって、ほのかに漂う青い香り。この季節はまだ長引きそうだ。
そんな夏休み最終日。生徒会長である彼女は、年季の入った檜造りの建物を前に、腕組みして堂々と宣言する。
「うん。ここがいいわね。気に入った」
「でもここって——旧校舎……」
「あら。今日から文化部の部室棟だけど、問題ある?」
二つ上の先輩である彼女は、ただの思いつきを、さも昔からの決定事項であるかのように告げる。
「問題大ありです! 取り壊しが決まっているのは知ってますよね?」
取り壊しの方は本当に昔からの決定事項だ。
何年か前までは授業でも使われていたらしいが、今じゃ廃屋も同然。最後に補修されたのはずっと昔なので、安全性の面でも問題なしとは言えない。
先輩は、言い募る私を手のひらの一振りで押し黙らせて、一歩後ろに控えていた生徒会役員の女の子——私の親友である詩織に訊ねる。
「詩織ちゃん、この学校の文化部の数はいくつ?」
「三十ちょうどです。同好会を含めると——三十七ですね」
「ふんふん」
詩織はわずかに緑色がかった長い黒髪を払って、淀みなく答えた。
わざとらしく頷いた先輩は、今度はもう一人の生徒会役員である私に向かって訊ねる。
「では、凛咲ちゃん。現在文化部に割り当てられている部室の数は?」
「十……八です」
「よくできました」
先輩は満足げに鼻を鳴らす。もう彼女の強引なロジックは読めていた。
——それが数日後には、修繕費用共々、実行予定の決議案として生徒会の議題に上ることまで、ありありと想像できる。
「恭一くん、視覚芸術研究『会』の状況をかいつまんで」
次に彼女が問いかけたのは、二年生の羽賀先輩だ。彼は生徒会には所属していない。しかし、先輩や私とは同好会というつながりがある。
彼はふっと息を漏らすと、眼鏡の奥の眼を細め、淡々と報告するように告げる。
「——メンバーは初香先輩と河内さん、僕の三人。来月までに最低あと二人……、来年のことを考慮すると二年生以下を三人集めておいた方がいいですね。顧問は河内さんから古瀬山先生に依頼中。問題の活動実績については——河内さんの賞を生徒会長の権限でねじ込んでおいてください」
「それは任せなさい」
「部室問題はたった今解決したようなので、以上です」
「よろしい」
生徒会役員二人の前でしれっと交わされる談合の現場。
でも、例えばこれを録音して校内放送で流したとしても、先輩の名声にはなんの影響もないんだろう。実績は認められつつも、強引なやり口も辞さない彼女の名前は、どちらかと言えば悪名として轟いていたから。
そのくせ、教師、生徒問わず彼女を信頼する人が大勢を占めているのも事実だ。常軌を逸したデタラメな求心力。それを彼女は持っていた。
今日だって、なんの関係もない女の子を一人侍らせている。校則違反ぎりぎりの向日葵色の髪の毛。背が小さくてぱちっとした二重まぶたの可愛らしい子だ。
先輩がおもむろにその子の背中を押して、私たちの前に披露する。
「とりあえず部員を一人連れてきたわ」
「あああの——っ、大瀬日和! 二年生ですっ」
——入部、希望……?
てっきりいつも通りの取り巻きの女の子かと思っていた。しかも上級生だった。同い年だと疑いなく思っていたことを、心の中で謝罪する。
「なんの取り柄もないけど、一生懸命がんばるので!」
緊張した声を張り上げる彼女の、真夏の熱気に負けないほど熱い視線の先にいるのは——、羽賀先輩。
その羽賀先輩は、素っ気なく「はじめまして」と返す。
それを、不敵な微笑みで眺める先輩。また何か、果てしなく邪な取引を持ちかけたに違いない。
「早速だけどヒワちゃん。視覚芸術研究『部』にふさわしい仲間には、どこに行けば会えるかしら?」
「そうですね……。順当にいくなら、美術部————」
大瀬さんが腕を組んで天を仰ぐ。
そして、名案を思いついたようにぱっと顔を向ける。
「あっ! 漫研や造形もいいかもしれませんよ!」
その二つの部は三年生の教室で活動していて、部室を割り当てられていない。つまり、部室棟の話をちらつかせれば味方になってくれる可能性も大いにある。もしかして大瀬さんも先輩と同じタイプなのでは——、そんな疑念がよぎった。
先輩はその答えを待っていたように、艶やかな黒髪を揺らして頷く。目まぐるしく私の側に移動したかと思うと、半袖のブラウスから伸びた健康的でしなやかな腕が、私の肩に回される。
「素晴らしいわ! じゃあ早速、教室へ行くわよ」
——こんな人前で恥ずかしいんですけど……っ。
密かに緊張する私にお構いなく、先輩は約束された成功への路を大股でずかずかと踏みしめる。
*
——時を同じくして。
「っるせー! こんな部活、俺の方から辞めてやる!」
漫画研究部、部室の扉を乱暴に蹴り開けて出てきたのは、苛立たしさに顔を歪めた紫パーカーの少年。紙束とスケッチブック、ひと抱えもある筆記用具入れを持って鼻息荒く廊下に立つ。
その隣は——造形部。
「僕の美的センスは、君たちには早すぎたみたいだね。失礼するよ」
こちらの部室からも、大仰な台詞と共に颯爽と一人の生徒が出てきた、胸元をはだけたシャツの上にエプロンを着たプラチナブロンドの少年だ。
二人の視線が交錯し、同時に火花が散る。
「なんだ、お前」
「なんだ、君は」
——彼らが宮古初香と出遭うのは、このわずか数分後の話である。
***続く***
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