piece #3


   ***萌黄***




「そろそろ起きたんじゃない、姉ちゃん」


「うん」


 ここは宮古家から歩いて三十秒——お隣さんの東家。その一階にある俺の部屋だ。ちーと俺はベッドに寄りかかり、クッションに座っている。ローテーブルの上に広げたポテチと麦茶のグラスには少しも手がついていない。

 計画通りなら俺たちはこれから宮古家に向かい、姉ちゃんのサプライズパーティーを演出する手筈になっている。


 しかし、ちーは俺の腕に小柄な身体を強く絡ませたままだ。姉ちゃんとお揃いのエスニック柄刺繍のゆったりとした長袖チュニック。足元は素足に黒のショートパンツ。こう密着されると、目のやり場に困る。


「凛咲さん、困っちゃうんじゃない?」


「うん」


 ちーが小さな顔を俺の肩口に埋める。

 拉致があかない。彼女は彼女なりの考えがあって姉ちゃんと凛咲さんを二人きりにしたんだろう。でも、その意図を打ち明けてくれるでもなし、こうして時間稼ぎみたいなことをしている。


 ——その仕草の裏で、俺がどれだけ心乱されているかを知らないで。


 ちーは無防備だ。自分の放つ陽気で人目を引く存在感が周囲に及ぼす影響には無頓着、一方で他人の感情の機微には敏感すぎるほど敏感だ。その行き着くところは、よく言えば分け隔てなく平等、言い換えれば特別な誰かを見失ってしまいそうな博愛主義を孕んでいる。

 でも最近は、何かと凛咲さんについて回っていたから。そう遠くないうちに、この子の何かが変えられてしまうんじゃないかと思っていた。


 久々に何事もない二人きりなんだから、ちょっと気の利いた雑談でもしよう。

 そう思い立った脳みそとは裏腹に、俺の口は全然違うことを口走った。


「覚えてる? 中学の頃、俺がちーに言ったこと」


「——覚えてるよ」


 ちーの消え入るような囁きが返る。

 それだけで跳び上がりたいほど嬉しいんだから、俺の感情の回路も大概どうにかなってる。


「俺はちーの恋人になりたい。あの頃とか関係なく、いまの君の大切な人に」


 かつて桜の園で告げたのと同じ言葉を、ようやく吐き出す。記憶の中で何万回再生しても擦り切れず、いつまでも目蓋の裏にある情景。ちーの変わらない、日向のような微笑み。


「あたしは萌くんを大事に想ってる。それじゃあ、ダメ?」


「うん。ちー考えてることと、俺のしたいことは違うから」


 ちーは鼻でゆったりと息を漏らして、声をひそめて訊ねてくる。それは記憶にあるのとはちょっと違う、試すような色を秘めた囁きだった。


「どんなことがしたいの、萌くんは?」


「こっち、向いて——」


「——ん」


 一瞬の間を置いて、小首を傾げてこちらを見つめるちー。

 ここまできて、自分がなにをされるか分からないほど、ちーは無知じゃない。それならこれは、彼女の意思でもあると言えるんじゃないだろうか。願望にも似た言い訳をしながら、俺は彼女の首筋に指を這わせた。

 ちーの柔らかな栗毛を撫でる。俺がずっと前にプレゼントした三毛猫の髪留めは今もそこにある。

 彼女の両手はまだ俺にしがみついたまま。脛から太腿まで、素肌に指を滑らせると、彼女は小さくみじろぎする。


「可愛いよ、ちー」


 いつもの日向のような瞳は少しだけ潤んでいた。見つめてくるちーの薄い唇に口づける。唇でつつき合うだけの拙いキス。でも、俺のまぶたの裏は火傷したように熱かった。


 ——宮古さんがいるから?

 いつかぶつけられた一言が蘇る。それはある意味で正しいんだ。でも事実、俺はちーと付き合ってない。ちーに、一方的に片想いをしているだけだった。


 こうしたいと何度も思っていた。

 それが今、手の届くところにある。


「——はぁ……、恋人ってなんなんだろう、ね」


 彼女の問いかけはどこか白昼夢のように霧散していった。しつこいくらい願掛けをしたあの枝垂れ桜の麓じゃない。なんの変哲もない俺の家で、いつもの二人の居場所で、こうして想いを確かめ合っている。


「ちー、ベッドいこ」


 栗毛がこくりと頷く。

 桜色のシーツの上に横たえると、ちーはようやく両手を解いて俺の腕を離してくれる。うっすらと赤く痕が残っていた。

 チュニックが翻って、ほどよく引き締まったお腹に丸っこいお臍がくぼみを作っている。

 俺はできるだけびっくりさせないように、でも刺激が伝わるようにと、指の腹でお腹から胸へのくぼみをなぞるように指を動かす。ちーが堪えるようにもぞもぞとシーツのシワを掴む。ブラは都合よく前開きのホックだったので、ちょっと迷って——、指先を引っ掛けて外す。チュニックの上からでも胸の先が屹立しているのがわかる。俺はそこを唇で甘噛みしつつ、意外と大きめの胸をすくうように揉み上げる。


「っふふ——。くく——っ、くすぐったい、よ————ん、ぁ」


 柔らかくて張りのある、温かい肌。何度か触れていると、徐々に弱いところがわかってくる。ちーの感度が高いのは胸の谷間の稜線。

 俺はさっきより柔らかいタッチで、指先を立ててその場所を集中的になぞる。しつこいくらいに慎ましく、粘っこく。お互いの足がばかみたいに震えて擦れあう。


「————っ!!」


 むず痒そうに悶えていたちーから、唐突に、劇的な反応が返る。ちーは両手を俺の背中に力いっぱい伸ばしてしがみつくと、足の指先をぴんと張って一瞬硬直した。苦しそうにぶるっと下半身を震わせて脱力した彼女は————、


 ぼんやりとした瞳に大粒の涙をこぼした。


「ちー……?」


「う——ぅっぐ……。よかった。萌くん……すきだよ……っ」


「ほら、いいからショーツ履き替えな」


 俺はちーのショートパンツを脱がせる。触れたショーツは少し湿っていた。もっと先を求めたくなる自分を必死で押しとどめる。この涙の意味が分からないほど鈍感じゃない。

 少女は俺の起伏の乏しい胸元に顔を埋める。


「——萌くんはずっと、ファインダーの裏側を見てたんだね」


「うん。ちーのことしか、見てなかった」


 ちーが額を擦りつけてくる。


「せんぱいとお姉ちゃん、きっと恋人なんだよ」


「それと、ちーは関係ない」


「——そう、だよね。変だな……。あはは」


 ちーは力なく笑って、俺の懐で首を振る。普段の彼女らしくもない、弱々しくすぼんだ肩を撫でる。


「今日のことは、なしにしようか」


「ううん。これは、あたしが望んでしたことなの。やっぱりうまく言えないけど、萌くんはあたしの一番大事な人なんだよ?」


 それを真に受けた俺は、何度だって彼女の『王子様』であろうと思ってしまう。ちーがあの絵に——あの人に縛りつけられていることを知りながら。

 もし俺が本当に王子だったら————。ちーをそこから引き剥がして、囚われの姫にしてしまいたい。


 ——遅いよー、どうしたのー?

 ちーのスマートフォンに凛咲さんからのメッセージが入ってくる。


 外は夕方になっていた。流石に待たせすぎた。でも、俺たちは抱き合ったまま、どうしてもその場から動けなかった。夕陽の朱に染まるちーの肌。なにをするでもなく触れ合うこの時間は、一輪の花を抱くように愛おしくて。


 この黄昏時はつかを、俺はどうしたって忘れられない。




   ***続く***

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