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つまるところ、宮古初香は暴君だった。
『モエ、あんたがやりなさい』
俺の胸の中には、しゃくりあげるちーの細い肩。
ついさっき、同じクラスの女の子グループにスケッチブックを取り上げられ、ゴミと一緒に燃やされてしまった少女は、こぼれる涙を懸命に堪えて俺のパーカーの裾を握りしめている。
『ハニートラップ作戦よ』
三つ年上の姉ちゃんは、俺たちから見たら絶対的な存在だった。
子供ながらに大人である先生にも平気で意見をする。そして、授業の一環として導入してみたはいいものの、先生や児童の意欲が低すぎて形骸化していたクラブ活動を、わずか一年で盛り上げた。選択できるコースを増やし、そこに適した先生を割り当てる。コースの拡充と予算取りの調整をしながら、校内外へアピールすることも忘れない。結果的に、クラブ活動を学校のセールスポイントにまで押し上げた。
それを、たいした権限も与えられていない自治委員会の立場でやってのけたのだから、開いた口が塞がらない。尊敬を通り越して呆れ果てたものだ。
彼女は腕を組み、桜の園のベンチの上にふんぞり返って、大真面目な顔で小学一年生の俺に告げる。当時から女の子の間で俺の評判はよかったので、あながち的外れな作戦ではないと思った。要するに、俺がその女の子と懇意になって、姉ちゃんの元に引きずり出せばいいわけだ。
『やだよ——っ、お姉ちゃんっ』
冬の乾燥した空気に、ちーの涙まじりの声が響く。
『安心なさい。いちかのことは、私とモエで守ってあげるから』
いつもそうしてきた。ちーは小柄で天真爛漫な子だけど、少し他人と足並みが揃わないことがあって、それが原因でいじめられることもあった。だから、姉ちゃんと俺がフォローしなければと、そう思っていた。
『ぃ……ちかは、あの子とお友だちになりたい』
『なに言ってんの。斉木結はあんたが気に食わないんだよ。仲良くなんてなれっこない。一度てっていてきに分からせてやった方がお互いのためだわ』
姉ちゃんはベンチの上に立ったまま、両手を広げて言い含める。
その言い分には理があると思う。結とはまぁ、ちーを抜きにすればそれなりに友だちをしているから、作戦を成功させる自信もあった。迷いなくこう思っている自分も、それなりに腹を立てているのだと思う。
『ちがうよっ! ゆっちゃんは、かんちがいしてるのっ』
いよいよ涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでもちーは譲らない。首から提げた小さなトイカメラを大事そうに抱えて。
『写真をとったら、きっと伝わるもん……』
姉ちゃんはぱたりと手を下ろす。
『——次にひどいことされたら、そのときはぜったいに仕返しするから』
『お友だちになるもん……。そしたら、お姉ちゃんもおこらないでね』
姉ちゃんはまだ怒りがおさまらないようだったが、『いちかが言うなら』と矛先を収めた。妹だけには極端に甘やかしな彼女だ。胸中は複雑だろう。
ちょっと前のちーはこんなに自分を貫く子じゃなかった。
あれは春頃だったか。そのトイカメラを持って帰ってきた日から、少女はただの泣き虫を卒業したのだ。
*
*
*
今、少女が首から提げているのは真っ白なデジタル一眼レフ。
フルネームを名乗った彼女の周りに三人の先輩が殺到する。
茂さんがおそるおそるといった感じで聞いてくる。隣の道明さんは若干顔が引きつっている。
「ねえ、宮古ってもしかして、初香先輩の——?」
「お姉ちゃんのこと、知ってるんですか?」
「やっぱりっ、初香さんに紹介されて来たの?」
ヒワさんはちーにずいっと身を寄せて訊ねる。なかなかに猪突猛進な人だ。
「凛咲せんぱいです。ここが、あたしの『楽しい』に繋がってる場所だって教えてくれました」
「はぁー、凛咲りんがねぇ————。王子くんは?」
「俺は、ちーの従姉妹っす。姉ちゃんともまぁ——、生まれた頃からの付き合いです」
「にしても、初香先輩とは似てないなぁ……」
茂さんはちーを見つめて、感慨深そうに頷いている。
「キミらは初香さんにだーいぶお世話になったもんね」
「思い出したくないのだが……」
語尾が震えている道明さんは放っておいて、とりあえず済ませるべきことは手短に済ませよう。サッカー部には「今日は先生から用事を引き受けたので休む」と伝言してあるけど、時間が許せば顔を出しておきたい。
「それで、部長はどこですか? 入部届、今日までに提出しないとマズいでしょ」
俺がそう言った瞬間、背後の扉が気難しい音を立てて開いた。
「——きたきた」
戸口に立っていたのは、細い銀色をしたフレームの眼鏡をかけた、温和な雰囲気を纏った男子生徒だ。茂さんや道明さんと違って、制服を着崩していないので、整った印象を受ける。ネクタイピンはもちろん三年生の松葉色だ。
ヒワさんは彼の背中をぐいぐい押して、窓際の机に座らせる。
「部長の羽賀恭一くん。聞いて聞いて。なんとこの子は——」
「初香先輩の妹さんと従姉妹さん、だよね」
「あ、あれ……? 知ってたの?」
「いや、こっちが一方的に見ただけだよ。初香先輩の卒業式の後、迎えに来てたのをちらっとね」
恭一さんは腕を組んで、ゆったりと背もたれに寄りかかる。
俺たちがここに来た経緯を、ヒワさんがはきはきと説明した。
「待たせたみたいですまないね。早速だけど、簡単に説明するよ。うちは視覚芸術研究部。『視覚芸術』とは名乗っているけど、得意なことに打ち込むのも、初めての事に挑戦するのも自由」
「放任ですね。まぁ、姉ちゃんらしいというか」
恭一さんと俺は苦笑を交わす。
それだけで人となりが伝わってくるようだ。姉ちゃん好みの、才覚と好奇心に溢れた根っからの芸術家なんだろう。
「うん。この部は、初香先輩が作ってくれたんだ。他の部活でやりたい事ができずにいた河内さんや僕のために。僕らもその想いを継いで、なにかをやりたがってる生徒の拠り所にしたいと思ってる」
そこまで整然と説明した彼は、前傾になり机に身を預ける。銀フレームの眼鏡が夕陽の色を映した。
「早速だけど、いちかくんと萌黄くんの好きなことを、教えてくれないかな?」
「いや、俺は——」
「萌くんとあたしは、これです」
——ん?
ちーがカメラを携えて言った。
「いいね。写真家——、新ジャンルだ」
そう言って、恭一さんは温和な微笑みを浮かべた。
なにやらどさくさ紛れに、俺まで写真家認定されてしまう。
否定しようとした俺に向かって、ちーはくすっと笑って、内緒話のように「萌くんはモデルね」と囁いた。
——サッカー部、少しは休めるかな。土日頑張ればいいし。
もうずいぶん前、美術部を出た頃から、ぼんやりとそんな思考を巡らせ始めていた自分に気付いて、俺はもう一度苦笑した。
***続く***
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