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ちーのペーパーナイフが机の上に置いてあった便箋の封を切った。
図書室の奥の奥にある——第七資料室。遮光カーテンに守られた二連三列の書架と設計ミスの産物のような細長い部屋は、図書室の蔵書量に比べるとどうにも所狭く感じられた。まるで窓際のソファーがあるスペースのためだけに存在しているような——。
凛咲さんから受け取った『招待状』には「第七資料室へ行け」という指示だけが書いてあった。そこで、司書教諭の古瀬山さんから鍵を借りてきた。
同じデザインの便箋の表書きには『挑戦状:楽しいのありか』と記されている。中身は果たして——ちーと一緒に覗き込む。
——第二体育館へ行け。
短くそう書かれていた。筆ペンの文字は間違いなくあの人の筆跡だ。
ちーが俺の肘に肩を寄せてきた。
「萌くんもついて来てくれる?」
じぃっと——鳶色の瞳で覗き込むように見上げてくる。
「まぁ、そのくらいならいいけど」
ちーはその一文に思うところがあるんだろう。凛咲さん——彼女は彼女で、俺が同行することまで織り込み済みだと思う。いったいなんのつもりで、こんな回りくどい誘導をするのか。気にならないと言ったら嘘になる。
「よし、さっさと行こう。第二体育館って、女バスの日だよな?」
ちーはこくりと頷いた。
*
ボールが床を弾む音とパスを呼ぶ声が、さざめきのように通り過ぎた。
「ごめんなさい、さわちゃん」
ちーは深々と頭を下げた。セミロングの栗毛が垂れて、首から提げたカメラと一緒に揺れている。
さわちゃん——
コートの端にいる二人の様子を、俺は壁際から見守っている。
「まぁ、正直そんな感じはしてたよ。残念だけど、こればっかりはしょうがない」
爽子さんは抱えていたバスケットボールを片手で掴んで、ちーの頭にぽこんと載せる。
「——やりたいこと、見つかった?」
「はいっ」
「そっか、えらいえらい」
「いたた——っ」
ボールがぐりぐりとちーの頭の上を転がる。ぎりぎりまで入部届を保留にして期待を持たせていたのだから、このくらいはやむなしだと思う。
ひとしきり撫で終わると、爽子さんはボールをカゴに向かって投げ飛ばす。ナイスシュート。そして、ちーの肩を抱きしめる。小柄な彼女の足元が一瞬ちょっとだけ浮いた。
「たまには助っ人頼むよ。宮古がいると盛り上がるんだ、やっぱり。紅白戦だけでいいから、ね?」
「ふふ。勝っちゃいますよ?」
「——それができたらレギュラー譲ってあげる。もち、試合出てもらうけど」
「萌くんも出ようねっ!」
「そりゃ助かる! 立っ端のある人は大歓迎よ」
上下に並んだ二組の眼差しが俺に集中する。
「俺はサッカーと相思相愛なのっ!」
——まぁ、バスケでも負ける気はしないけど。
駆け寄ってきた爽子さんとちー、それに俺——即席の円陣を組んで不敵に笑い合う。初対面の先輩とこうして火花を散らすのは、闘争心をくすぐられて、ちょっとわくわくする。
そこに、きゅっとシューズの音が響く。
「三人揃ってなんですか、気持ち悪い……」
側にいたのは俺と同じクラスの一年生——
彼女は即日バスケ部に入部していた。
「ひどいな朋美は。後輩と仲良くしてるだけでしょー」
「ふざけてるんなら、早く練習に戻ってくださいよ。宮古宮古って、練習に全然身が入ってなかったじゃないですか」
爽子さんよりさらに背丈のある朋美が言うと、威圧感すら漂ってくる。腕を組んで睨み合う二人。ちーの視点で見たら、マレーシアにある某ツインタワーもいいところだろうに。
「ああ、そうそう。忘れるところだった」
爽子さんはくるりとこちらを向く。
彼女がちーを見つめる瞳はとても優しかった。きっと、すごく面倒見のいい人なんだろうな。
「河内さんから伝言だよ。次は————」
*
「動いちゃダメだよ、萌くん」
油の匂いがたち込める部屋。
ちーが鉛筆を立てて俺の方に差し出して、片目を瞑っている。その行為の意味は気にしたことがないので不明だけど、何やら真剣な面持ちだ。彼女の前にはイーゼルに立てたキャンバス。
爽子さんから伝え聞いたのは「美術室へ行け」——それだけ。俺たちは凛咲さんの伝言ゲームに従って美術室にやってきて、こうして美術部の体験入部をしているのだけれど——、
「なんで俺はモデルなわけ……?」
「助かるよー。絵になる子、探してたんだよねぇ」
クロッキー帳片手にさらさらと鉛筆を走らせながら言うのは、美術部二年生の
俺は教壇の上の椅子に、足を組んで座っている。視線を集めるのには慣れているつもりだったが、デッサンのモデルとなるとちょっと勝手が違う。相手の直接的な感情が向かってくるのではなくて、自分の感情や思考を覗かれているような、決まりの悪さを感じる。
窓から時折吹く風が、緊張で火照った身体を冷ましてくれる。
デッサンの持ち時間は三十分————そうは思えないほど時間が長く感じる。
「ちー、目的忘れるなよー」
「そうでした。マコさんは、せんぱいからなにか聞いてないですか?」
「せんぱい——って、河内のこと? 悪いね。何も聞いてない」
「そうですかぁ……」
ちょっと考え込むようなちーの声。
それを受けてか、純さんも鉛筆の頭を口許に当てて動きを止めた。
「ん——宮古さん、デッサンが終わったら連れて行きたいところがあるんだ」
二人は俺と自分の絵を交互に見て、手を動かしながら話を進める。お互いのことは一切見てなかった。その黙々とした姿勢は画家っぽいと形容するのがぴったりな気がする。
「経験あるの? 絵」
「昔ちょっと。あとはスクラップブッキングとかしてるからですかねぇ」
「——自由だね。わたしはそういう子が好きだよ」
純さんは自嘲するように口元を歪めた。
「昔ね、すごく自由に絵を描く子がいたんだ。構図に色使い、技術も感性もどれ一つとして及ばないほどの才能を、見せつけられた」
三十分のタイマーが鳴り響く。
純さんは古いデジタル式のキッチンタイマーを止めると、席を立ち、ちーに向き合って手招きをする。俺もようやく解放だ。
純さんに案内されたのは、隣り合う美術準備室とは逆の扉だ。
「美術展示室——?」
すたすたと入っていく純さんに遅れないようについて行く。
果たして部屋の中を埋め尽くすのは、水彩、油彩、アクリル、日本画——画材もテーマも違う絵が何十枚と飾られていた。
「やっぱり——、ここにいたんだ」
ちーの視線は一枚の大きなキャンバスに注がれている。
絵の中心に大きく描かれているのは見事に咲き誇る桜の樹だ。その懐には少女が一人。桜の幹に背中を預け、舞い上がる黒髪を押さえて立っている。彼女とその周囲の景色を包み込むように舞い踊る花弁が幻想的なまでに綺麗だった。
——この絵はすごい。絵を知らない俺ですらそう思った。
桜の花びらの芯は、紅色なんだとこの絵に教えられたのだ。
かつて同じ絵を見たことがあった。姉ちゃんと、ちーと、俺とで。
*
*
*
『どう? いい絵でしょ。一年の子が描いてくれたのよ』
姉ちゃんはいつも通り自信たっぷりに、まるで自分の絵を褒めるかのように言った。かたや、ちーは心ここにあらずといった調子で答える。
『うん、すごい。すごく——素敵』
彼女は何を感じたんだろうか。感動——という言葉で表すのが躊躇われる表情だった。それを見ていると、なぜだか少し胸が苦しくなった。
『本物の姉ちゃんより綺麗なんじゃないの? なぁ、ちー?』
俺がちーの肩をつついて耳打ちしたけど、反応は薄かった。
『——うん。そうだね』
『モエ、あとで覚えてな』
『やべ……。違うって誤解だよ、姉ちゃんっ!』
ちーの視線は正面に釘付けになったまま、それっきり声も上げなくなった。
タイトルは——『先輩』。たったの二文字に込められた意味を、一枚の絵が余すことなく表現していた。
*
*
*
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—————波多野英知プレゼンツ—————
——東京都全国高校生水彩画コンクール——
——————風景画部門 金賞——————
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————————『先輩』————————
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————————河内凛咲————————
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プレートに刻まれた文字が、この絵の評価を雄弁に物語る。
「そっか。そーですよね。やっぱり間違って、なかったんだ」
「知ってたか。いやでも目につくよね。うちの部始まって以来の大記録を打ち立てた絵……」
それは、都主催の絵画コンクールの中でもトップクラス——有名画家である
ちーは『先輩』を見つめている。手元には便箋——じゃなくて、一枚の写真を大事そうに持って。
「そこ、プレートの下になんか貼ってある」
無造作に貼られた付箋紙には、お馴染みとなった筆ペンの文字。
——旧校舎の美術室へ行け。
このゲームも、いよいよ大詰め。そんな予感がした。
***続く***
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