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***萌黄***
——仮に金曜日に告白が成功したら、土日はさぞかし楽しいんだろうな。
もう完全に葉桜になった枝垂れ桜の巨樹の下で、そんなことを考えた。
「悪いけど、ごめん」
見下ろす先にいるのは、隣のクラスの新堂さん。俺のために振り絞ってくれたであろう勇気を握りしめた手が震えている。
「み——、宮古さんがいるから?」
「ん?」
「萌黄くん、誰とも付き合わないって聞いた。それって、宮古さんと付き合ってるからじゃないかって、みんな噂してるよっ」
新堂さんは勢い良くまくしたてた。『みんな』って一体全体どの範囲だろう。従姉妹で幼馴染で、今でも仲良くしている宮古——ちーが引き合いに出されるのは意外じゃないけれど、付き合っているというのは飛躍しすぎだ。
「ちーは関係ないよ。俺がそうしてるだけ」
「そっか——」
消え入るような語尾。
彼女は納得してくれたのだろうか。握り締めた手を力なく下ろして、俯く。
俺はそんな彼女のカチューシャをした頭を軽く撫でて、深く吐き出すように心から、お約束の言葉を紡ぐ。
「ありがとう。告白してくれて」
「————っ」
再び握りしめられる拳。今度その中にあるのは、勇気じゃないだろう。
俺の言葉に弾かれるように、彼女は踵を返して、頭に置いた手をすり抜ける。そのまま校舎へと走り去ってしまった。
一陣の風が、桜の園から伸びる二つの細い道を通り抜けた。葉擦れの音がさざ波のように耳を撫でる。
「罪作りね。ありがとうなんて」
「凛咲さん。覗いてたんですか?」
「たまたまだよ。クラスの子に聞いたらここだって言うから」
青藍のネクタイピンをなびかせて、凛咲さんが桜の園に足を踏み入れる。肩の上まで伸びた伽羅色の髪。理知的な光を湛えた伏し目がちの双眸が、薄い笑顔とともにこちらに向けられる。
「——ありがとうっていい言葉ですよね。どんなことでも感謝の気持ちで上書いてしまえる」
この庭園につながる道は実は二つある。片方は橘高校の校舎裏に繋がっていて、もう一方は民家の間を通って団地へと続いている。凛咲さんは後者の道から現れた。つまり、わざわざ一度校門を出てから入ってきたことになる。新堂さんと鉢合わせないようにと配慮をしてくれたんだろう。
彼女は庭園の中央にそびえる枝垂れ桜の麓に歩いてくると、労わるように幹に手を当てる。
「この桜の樹には、ちょっとした言い伝えがあるのよ」
「この樹の下では——っていう、よくある感じのやつですか?」
「うん。この樹の下で告白をした二人は、絶対に『結ばれない』って」
答える彼女は真剣な表情だ。切実と言ってもいいかもしれない。その眼は桜の樹を透かしてどこか遠いところを見ているようだった。
「へぇ——」
「東さんは中学の頃もモテてたでしょ?」
「まぁ、いやらしくない程度には自覚してるつもりですよ。小学生の頃から」
昔から女の子受けはいい方だった。顔立ちははっきりしていたし、背が伸びるのだって早かったから。俺という一人称も拍車をかけているんだろう。
その代わり、男の子とはよく喧嘩した。半分は姉ちゃんが原因みたいなものだけど。親にも未だに「可愛げがない」と言われてばかりだ。小さくて愛嬌のあるちーのように振る舞うことができたら、なんて思ったことも一度や二度じゃない。
——ふと思い至る。
「ああ、その噂って俺のせいかもですね。告白断るときは、いつも桜の園に連れてきてましたっけ……」
——ありがとう。
決まってそう締めくくった。言葉に罪はない。でも、その文脈に傷つく人がいるという事実は、よく理解しているつもりだ。実際、最後の一言が相手の涙を誘った苦い思い出もたくさんある。
「今日の出来事はあの子の中で悲しい思い出になって、でも、いつか忘れられてくんですよ。俺はそれを忘れることができないから。——ああ、超記憶症候群って言うんです。この樹が一緒に覚えててくれると、少し救われます」
ついでに今日はもう一人目撃者がいる。
「凛咲さんも記憶力がいいって聞きましたよ?」
彼女は整った眉根を寄せて、肩を竦める。
『せんぱい』の話は散々ちーから聞かされていたから、すっかり詳しくなってしまった。ちーが幼い頃仲良くなった人。この桜の園で黄昏ているか図書室の奥の資料室にこもっている。記憶力がよくて、まだ四月の半ばだというのに一年生を含めた全生徒の顔と名前を覚えているらしい、と。
——それから、初香——姉ちゃんとも知り合いであること。
ちーも俺も、姉ちゃんに連れられて一度だけ絵を見たことがある。あれは去年の秋に開かれた都の絵画コンクールだった。
「私は東さんと違うよ。一生懸命暗記してるだけ」
「萌黄でいいですよ。みんな名前で呼ぶんで。ついでに『さん』呼びも苦手なんで、変えてくれると嬉しいです」
「じゃあ、——萌黄くん。私もあなたに告白してもいいかな」
その瞬間の凛咲さんは、悪戯を思いついたような笑みを浮かべていた。なんとなく、ろくでもないことになる勘だけは働いた。
「——返事は決まってますよ?」
彼女と俺のプリーツスカートが風にはためいている。
差し出されたのは、白地に赤と青の破線で縁取りがしてあるシワ一つない便箋だった。
「これをあの子に。それと、できれば見届けてほしいの」
便箋には筆ペンで書かれた綺麗な文字で『招待状:ちーちゃんへ』と記されていた。
***続く***
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