step #3


 ページをめくると、そこはもう一つの喫茶『壱月亭』だった。


「わぁ————」


 我知らず吐息が漏れる。

 アルバムを見ているようだった。一ページ目の写真は、簡素で清潔な厨房の中、珈琲をドリップするマスターのごつごつした背中。その次はホールの写真——ウェイターの渡辺さんと楽しそうに談笑するお客さんが写っている。三ページ目からがメニューになっている。アンティークなカップから湯気を立てる珈琲、扇型のチーズケーキ、パイ生地のシュークリーム、色とりどりのマカロンが載ったティーセット——それらはホールのうっすらとした明かりの下に置かれて、まるで違う世界の食べ物のようだ。

 表紙をよく見直すと、ガス灯と珈琲カップは切り絵だった。


「——ご注文はお決まりですか?」


 渡辺さんが戻ってくる。

 ——そうでした。

 メニュー自体に夢中になっていて、肝心の食べたいものを考えるのを忘れていた。


「あたしはブレンドとパンケーキで」


 ちーちゃんはメニューも見ずに注文する。


「承りました。凛咲さんはどうしますか?」


「実はメニューに見入っちゃって。もうちょっと考えてもいいですか?」


「かしこまりました。メニュー、素敵ですよね。なんと、いちかさんが作ってくださったんですよ。写真も全部」


 向かいのちーちゃんは、はにかんだような笑顔で私を見ていた。

 それから、しずしずと頭を下げる。


「どれにいたしますか、お嬢様?」


「ふふ——、そうね」


 私はメニューの写真を指差して注文を告げる。


「ブレンドと、シュークリームにしようかな」


「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」


 渡辺さんを差し置いて、ちーちゃんが恭しくお辞儀をする。

 そのかしこまりすぎた口調があんまりにも似合わないものだから、つい吹き出してしまう。

 どうやら渡辺さんも一緒らしく、口の端が引きつっている。


「——だそうですよ、ワタナベさん」


 突然、方向転換するちーちゃん。口調も一転、元通りで——、


「あ——あははっ、もうダメ……っ」


 渡辺さんと私は同時にけらけらと笑い出した。




 ナイフで小さく切ったシュークリームをフォークで口に運ぶ。

 サクッとして香ばしいパイ生地に、たっぷりのカスタードクリーム。珈琲の苦味とも絶妙にマッチしていて、文句なしに美味しかった。最後に残る酸味が、クリームの甘味を打ち消すから、一口一口がさっぱりとした後味になる。


「そうだ。ホールの写真って、どうやって撮ったの?」


「どうって、普通にぱしゃっと」


 ちーちゃんはカメラを構える真似をする。


「じゃなくてね。あのお客さんたち、すごく自然に写ってたでしょ。私だったら撮られてると緊張しちゃうかなって」


「う〜ん。六時間かけたから、かなぁ」


「六時間——って、一枚にっ?」


「そうですよ。龍先生の言葉を借りるとですね、『居て見る』んだって」


 居て見る——カメラを構えたまま深く静かに時間をかけて、自分を風景の一部にする。そうして初めて、活きた人間の生活を撮ることができる。小さい頃から伯父さんがよく口にしていた言葉。彼の写真集にも同じ言葉が書かれている。

 ——ちーちゃんの中には、その言葉が息付いているんだ。

 そう思ったら、自然に口が動いた。


「今度、うちに来てみない? 伯父さんも会いたがってる」


「本当ですかっ!?」


「——あ、えっと——、うん」


 少女の距離感は、ことあるごとに私のパーソナルスペースを侵犯する。




   *




 ドアベルが高い音を響かせる。

 ちーちゃんと私は壱月亭を出て、春の夜風を胸いっぱいに吸い込む。目の前は微かに芽吹きだした銀杏並木だ。

 渡辺さんも見送りに出てきてくれた。


「しばらく見ないなと思ってたけど、いちかさんも今年から高校生なのねぇ。彼氏はできた?」


 店内に居たときとはうって変わって、軽い調子で聞いてきた彼女に対して、ちーちゃんは少しだけ声をひそめる。


「ワタナベさんはどーなんですかぁ? マスター、指輪してましたよ」


「うぐ……っ、ばれちゃったか。先に招待状送ってびっくりさせたかったのに。いちかさんには敵わないや」


 悔しそうに両手を挙げて降参のポーズだ。

 ——もしかして。


「ご結婚、されるんですか?」


 渡辺さんは首筋を掻きつつ、照れ笑いを浮かべる。


「先月入籍したんですよ。式は六月に」


「おめでとうございますっ」「——おめでとうございます」


 ちーちゃんと私の声が微妙にずれたハーモニーを奏でる。


「散々調理場では外しなさいって言ったのよ。あの人ってば」


「ちなみにマスターさんの苗字って……?」


 ふと、彼女は渡辺さんじゃなくなるのかな、と思った。


「やっぱり名乗ってなかったか。すみませんね、無愛想な人で。睦月っていいます」


「あ、壱月亭ってそういう——っ」


「もちろん私も睦月になりますよ。でないと、渡辺亭になっちゃいますからね」


 渡辺さんの冗談につられて、三人で声をあげて笑う。

 本当にお茶目な人だ。




 ひとしきり笑って落ち着いた後、渡辺さんは店内に戻っていった。


「素敵なお店ね。今日は誘ってくれてありがとう」


「せんぱいと来てみたくなったんです」


 ふわりと栗毛のお団子が舞う。「だって」と、ちーちゃんはくすくす笑って種明かしをする。


「しりとり。食べ物ばっかりでしたよ」


「う、うそ。そうだったっけ……?」


 ——それは、ちょっと、恥ずかしくて死にたい。

 思わずちーちゃんから目を離したその時、唐突に日向が咲いた。


「『睦月さん』」


「ん——?」


「やー、終わっちゃいましたね。負けちゃいました」


 私を置いてけぼりにした少女は、そう言って舌を出す。


「どういうこと?」 


 並木を背にした少女は、悪戯っ子みたいな表情でお土産の箱を持ち上げる。そこに答えがあると言わんばかりに。

 帰り際に詰めてもらったその中身は——、


「シュークリーム? ————あ!」


 かちりと——なにかがあるべき場所に嵌まるように、私の中で今日の放課後の出来事が、一つのストーリーを形作っていく。

 ——『シュークリーム』の『む』は、『睦月さん』の『む』。

 てっきりうやむやになったと思っていたしりとり。その終着点がここだったのだ。


 ふいに、なんだか壮大な物語を紡いだような気持ちになって、胸がいっぱいになる。

 最初はその場のノリと思いつき。『せんぱい』から始まった、ちょっとしたゲームが、こんなに素敵な喫茶店に出会わせてくれたのだ。


「やっぱりちーちゃんって、面白いねっ」


 少女はいつの間にか隣にいて、私を眩しそうに見上げていた。

 私は喫茶『壱月亭』の年季ある看板に向き直って、春の夜の優しい空気を目一杯吸い込む。それでも堪え切れなくて。お腹を抱えて笑ってしまう。こんなに爽快な気分になるのは久しぶりだった。


「せんぱい、笑ってばっかりです」


 少女はいつの間にか手にしていたカメラのシャッターを切った。




   ***続く***

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