step #2
高校を出てから十分ほど歩いた。
ここ十年くらいの間に、シャッター街から若者向けの商店街へと生まれ変わった駅前通りを抜けて、ローカル線が一本走る駅の反対側——整然とした住宅街が広がるその一画——にひっそりと、喫茶『壱月亭』はあった。
ロッジみたいな木造の建物に木製の看板が掛かった、味のある喫茶店だ。店を囲うように小さな堀があり、入り口に向かって短い橋が渡されている。
ちーちゃんの後ろについて店内に入る。
年季の入った木製の扉は少し重たくて、ドアベルが高い音を響かせた。
「——いらっしゃい」
私たちを迎え入れてくれたのは、優しいクラシックの音色と渋味のあるバリトンの声だ。
珈琲の香りが漂う店内を、ガス灯の明かりと沈みかけた夕陽が薄く照らす。
入ってすぐ左手のカウンターに声の主——長身でつるんとした坊主頭の男性が一人立っている。ぱっと見年齢不詳。なんだか怖そうな雰囲気の人だ。ドアベルの音に気づいて一度顔を上げたけれど、すぐに目を伏せて手元のグラス拭きに戻る。
——店員さん、なのかな……? 黒いエプロンもしているし。
「マスター、おひさでーす」
その強面の男性に、ちーちゃんが屈託のない声で話しかける。あまりに慣れ親しんだ様子だったので、ちょっとびっくりする。
マスター——もとい店長らしき人はグラスを棚にしまってから、無言で手を上げる。やっぱり無愛想だった。しかし、ちーちゃんはなにか受け取ったらしく「りょーかい」と短く返事をする。
「こっちですよ、せんぱい」
少女が私の手を引いて歩き出す。店内をきょろきょろ見回している私に配慮してか、のんびりとした歩調だった。ローファーの底と木の床が生み出すリズムは重厚な響きを伴っていて、耳に心地よい。
定員二十人くらいの空間に、カウンター席とテーブル席、ボックス席がいくつかあるが、今は私たち以外の客はいない。内装もほとんど木製だ。古びているけど清潔感があって素朴な、どことなく味のある雰囲気だった。
私たちは西向きの窓際にある丸テーブルを選ぶ。椅子の下に置かれた籠に、リュックを入れた。
「ここ、よく来るの?」
「そーですね。お姉ちゃんともたまに来ますよ」
どきりと心臓が跳ねる。お姉ちゃん——当然、初香先輩のことだ。
内心の動揺を悟られないように、努めて明るい調子を保つ。
「へぇ。素敵な雰囲気のお店ね」
「でしょでしょ! お気に入りなんですよ〜」
ちーちゃんはまるで、自分のことを褒められたように嬉しそうだ。それだけこの店が好きなんだろう。
それはそれとして、早速気になることがあるんだった。少しだけ声を低くして聞いてみる。
「——あの人が店長さん?」
「うん」
「なんていうか……、静かな人だね」
——というかちょっと怖い。
「あはは。あんまり喋らないけど。マスターの珈琲、すっごく美味しいですよ」
「ちーちゃんがそう言うなら楽しみ」
話していると、和装の上に黒いエプロンを着けた女性が歩いてくる。下駄が奏でるカランコロンという足音に交じって、鈴の音色も聞こえてくる。まるで百年くらい前に飛ばされてきたかのような風情だ。こういうのを大正浪漫と言うのかも。そう考えると、さっき飛び跳ねた気持ちが別の意味で弾んでくる。
「いらっしゃいませー」
和装の女性は、グラスが二つ載っている丸いトレイを片手に、にこやかに応対してくれる。店長とはえらい違いだ。ちなみに、彼女が出てきてから、マスターはカウンターの奧に引っ込んでしまっている。
「ワタナベさん、おひさです!」
「お久しぶり。今日はお友達連れかぁ。しかも初めての方ですね」
もしかして、友達以外の人とも一緒に来るんだろうか。そういえば、先輩と一緒に来るとも言ってたっけ。
————彼氏とか、連れて来たりするのかな。
ふと思う。ちーちゃんが付き合いたいと思うような人——。それはちょっと見てみたいと思った。
考えている間に、目の前に冷水のグラスが置かれる。
「せんぱいは先輩なんです。高校の」
微妙に違和感のある表現で、私のことが紹介される。
ワタナベさんも可笑しそうに口許を押さえていた。うっすらチークの乗った頬に可愛いえくぼができる。
「先輩さんは『壱月亭』は初めてですよね。ようこそお越しくださいました。ウェイターの渡辺です」
「河内凛咲です。よろしくお願いします」
頭を深々と下げる。
「こちらこそ。凛咲さん——、綺麗なお名前ですね」
渡辺さんもにこりと愛嬌のある笑顔で頭を下げてくれた。ボブカットの黒髪に白いクチナシのかんざしを挿している。彼女が頭を揺らす度に、かんざしから垂れた鈴が澄んだ音色を立てる。
その立ち振る舞いに思わず見惚れてしまう。渡辺さんの方がよっぽど綺麗だと思った。
「メニューはこちらです。ご注文が決まりましたらお申しつけください」
紐で綴じられたメニューとお決まりの文句、そして営業用と言ってしまうのが失礼なほどの、淑やかで温かみのあるスマイルを残して、渡辺さんはカウンターの方に歩いて行った。
向かいに座る少女は私の方をじーっと見ている。果てさて、なにを待っているのか。
私は「——これ?」と、渡辺さんが置いていったメニューを指差す。ちーちゃんが我が意を得たりとばかりに、にっこり頷く。
私は少しドキドキしながらメニューを開いた。
***続く***
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