step #1


   ***凛咲***




「なんか楽しいこと、ないですかねー?」


 春の陽が優しく差し込む小さな部屋の中に、少女の鼻歌交じりの声が響く。台詞の割に十分楽しげで、歌うように軽快な口調が、私たちの周りに陽だまりのような暖かさを生み出す。

 声の主は白いブラウスの袖を捲り上げ、愛用のデジタル一眼のレンズを磨いている。彼女の奏でる微妙にテンポの速い鼻歌は、耳にくすぐったい。

 私は少女の後ろに立ち、ブラシで彼女の髪を梳いている。ふんわりと柔らかくて甘い香りのする栗毛。

 レースのカーテンがかかる窓際には、少女が座るL字のソファーと机。机の上には、丁寧に畳まれたブレザーが置いてある。すっかりお決まりの場所となった、図書室の奥にある資料室だ。

 私はブラシを動かしたまま、相槌を打った。


「楽しいことかぁ。しりとりでもしてみよっか」


「もー、真面目に考えてますか? ————『せんぱい』」


 ちーちゃんが口調に可愛らしい棘を交えて、抗議してくる。

 手元のふわりとした栗毛に夢中だったので、もちろんなにも考えていない。というか、「シャンプーなに使ってるの?」とか、見当違いの台詞が出なかっただけマシだった。

 日向の中に淡く薫る柑橘のような香り。

 ——先輩も同じシャンプーを使ってたり、するのかな。


「ごめんね。あんまり手触りいいからつい」


 後ろ姿で表情は見えないが、うっすら桜色の差した頬が少し膨らんでいる。悪いことしちゃったかな。


「『い』ですよ」


「え?」


「『え』じゃなくて『い』。せんぱいの番です」


 ——ああ、そういうこと。

 なんだかんだで、しりとりは採用されたらしい。

 最初のワードは、『先輩』。

 同じ高校の後輩である彼女は、私のことをそう呼ぶ。他の先輩を呼ぶときに困らないかと気になるが、彼女なりの明確なルールがあるらしい。

 曰く、——あたしにとって、せんぱいはせんぱいなんですよ——だそうだ。意味はよく分からなかった。

 鼻歌を続けて次の言葉を待っている後輩さんに向かって、


「それじゃあね……。『いちか』」


 いちか——彼女の名前でお返しだ。

 普段の呼び方につられて『ちゃん』を付けそうになったけど、なんとか飲み込む。危うく、一巡もせずに楽しいしりとりが終わるところだった。

 髪いじりを続けながら、ちーちゃんの番を待つ。

 ——ところが、今度は彼女から返事がこない。もう一度『い』で返す言葉でも考えてるのか。割とそういうところは抜け目なさそうだ。


「どうしたの?」


「…………」


 沈黙。壁の柱時計だけが、一定のリズムを刻んでいる。


「ちーちゃん。ほら、『か』だよー」


 くいくい——と、手元の柔らかい髪を揺らしてみても、反応なし。

 仕方なく背中越しに顔を近づけ、耳元に向かって呼びかける。


「ち〜い〜ちゃん?」


「——うっひゃ!?」


 ちーちゃんは変な叫び声を上げて、お腹を抱えるようにうずくまる。私の手の中にあった髪の房も一緒に逃げて、長い栗毛がばさっと広がってしまう。折角綺麗に梳いたのに、ちょっと切ない。

 まだ二週間ばかりの付き合いだが、天真爛漫を絵に描いたような後輩のこんな反応は初めて見た。でも、よくよく考えてみると、この資料室以外での彼女がどんな風なのか、私はほとんど知らないのだ。彼女について知っていることと言えば、素直で飾らない、友達の多そうな子であるというくらい。あと、いつも三毛猫の髪留めを愛用していることか。

 たまにはこうして黙っていたい気分になるのかもしれない。自分から振ってきたしりとりの最中にか、という疑問は置いといて。


「……大丈夫?」


 少女はすぐに上体を起こすと、右手を上げて高らかに三ワード目を口にした。


「ぷはっ、大丈夫です! 『カメラ』!」


 よく通る明るい声が響いて、図書室の壁に吸い込まれていく。

 さすがに『貝』とかじゃなかった。なるほど。写真家の卵である彼女にお似合いの単語だ。その本人は、顔全体が髪で隠れて、どこぞのホラー映画みたくなっているのだけど。


「『ラスク』。ほら、おいで。髪くしゃくしゃだよ」


 ちーちゃんは元の位置に座り直してから言う。


「『クロスフィルター』」


 確か、カメラのレンズに着けるんだったかな。伯父さんの話に出てきたくらいの知識しかないが、お互いに知っている単語だからセーフとする。

 ブラッシングを再開する。ついでに、ちーちゃんが中断した鼻歌を引き継ぐ。最近インディーズデビューした若手ガールズバンドの曲だ。


「『たい焼き』」


「『キツネ』」


 すかさずちーちゃんが切り返す。どうやら元の調子に戻ったらしい。


「『練り切り』」


「『リュック』」


「『クリームあんみつ』」


「『ツチノコ』!」


 リズムよく応酬していると、だんだん興が乗ってくる。少女の声にも熱がこもってきたような気がした。ただのしりとりなのに不思議だ。

 図書室の片隅で密かに白熱したしりとり大会は、こんな感じでしばらく続いた。




「——『シュークリーム』!」


 私の声に被って、七限の終了時間——十七時半のチャイムが鳴る。


「むー、また『む』ですかぁ……。むぅー……?」


 何巡目かはもう覚えていないが、これで五回続けての『む』返しだ。大人気ない自覚は、もちろんある。

 窓の外では夕陽が赤々と燃えている。いつの間にか結構時間が経っていたらしい。

 梳き直した栗色の髪を左右に分け、サイドと下の髪を残すようにして、二本の三つ編みを作る。最後に後ろで束ねて——完成、マーガレット編み。前髪を三毛猫の髪留めで押さえる。そうだ、たんぽぽ色のリボンもオマケしておこう。


「うん、かわいい」


 私がそう呟いた直後、むーむー唸っていたちーちゃんがくるりと振り向く。そして声と同じ日向色の笑顔で、私の鼻先まで迫ってくる。

 少女は十センチくらい身長差のある私を見上げて、楽しそうに言った。


「せんぱい、楽しいこと思いつきましたよ!」


 ——近い近い近い……っ!

 思わず跳び上がりそうになる。今に始まったことじゃないのだが、この子の間合いは時々すごく心臓に悪い。

 横目に見ると、鳶色の大きな瞳がなにかすごい発見でもしたように、キラキラ輝いていた。「早く続きを聞いて」オーラが全開で滲み出ている。そうしていると本当に子供みたいだ。


「な、なぁに?」


「これからお茶しに行きませんか?」


 少女の胸元で臙脂色のピンが付いたネクタイが揺れて、夕陽の色と重なった。




   ***続く***

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