cut #4


 焚き火の前に座って、星を数えていた。

 先輩が眠ってしまうと、静かすぎて少し心細い。

 心まで飲み込まれてしまいそうな水面。暗闇にとって食われそうな林の奥。手元のランタンで見渡せる範囲は狭くて、静まりかえった真っ黒な川辺は手招きをしているようだ。


 初めて入った寝袋の寝心地は悪くなかったけれど、気持ちが濁流のように騒いで眠れない。

 山から下りてくる風が冷たかった。私はブランケットにくるまって、熱い紅茶を飲む。先輩に頼らなくても、火の起こし方とお湯の沸かし方を教えてもらったので、一人で準備できるようになった。


 薄明かりの中、膝の上にスクラップブックを広げる。胸にこみ上げてくる温かさは、紅茶だけのおかげではないと思う。


『私、本気だもの』


 最後の、白紙のページを開いて、自分の荷物に忍ばせていた水彩色鉛筆をぎっしり詰めたペンケースを手に取る。先輩と出会ってから、ビビッドカラーの本数が増えた。彼女のイメージに合う色を自然と選んでしまっていたから。

 焚き火が照らすテント——内側ではあの人がぐっすりと眠っている。

 ほとんど無意識的に、鉛筆で構図を決めてアタリを取る。色鉛筆を寝かせて、手早く色を載せていく。

 昔は、赤なんてすぐに補充しないと無くなってしまう色だった。それがここ数ヶ月、一本も使い切っていない。


『絵は好き?』


 筆が、止まる。

 描き上げなきゃと思う。そうしたら、先輩は絶対に喜んでくれる。


 筆先が、震える。

 絵をなくしたら私には何もなくて。何もない私は先輩に相応しくないから。


「————すき、なんです……」


 紙の上にぽたりと、雨が降ったのかと思った。


「私のそばにいるのに、一人で泣くなんて寂しすぎるじゃない」


 声とともに正面から抱きしめられる。むせかえるような柑橘の香りが私を優しく包み込む。スケッチブックの赤い線が滲んでいた。気付いてしまったら止めどなく溢れてくる、涙。


「先輩、私は——、私は……っ」


 お腹の底がずきずきと痛んでくる。

 顔を覗き込んできた先輩。鳶色の瞳はランタンと焚き火の灯りを受けて、紅く艶めかしい。


 私は————その緋色の唇を求める。

 そこから先はどうしようもなかった。先輩が躊躇うように息を漏らす。それでも踏み留まれなくて、彼女の前歯をこじ開けた奥の柔らかい舌に、自分の緊張した舌を絡ませる。

 やがて、ひんやりとした手が頬に添えられ、応じるように舌の裏をなぞられる。それがまたお腹の底にあるものを刺激してきて、飢えにも似た感情に突き動かされる。呼吸を重ねるように鼻先を擦り合わせ、先輩の腰に手を回して引き寄せた。接する面積に比例して身体が溶け合わさっていくよう。

 この繋がりを離したくなかった。


 私は絵が好き。先輩が好き。


 だから——、怖い。


『金賞がどうした。値段のつかない絵に価値はないと言っただろう』


 先輩に作品を見せるのが——未だにあの一枚を超えられない自分を知られるのが、怖いんだ。


 ——好きな人に好きと伝えること。

 どうしても絵じゃなきゃいけないの?

 本当は「絵なんか描かなくたっていい」と、そう言って欲しかった。


 だって——、


 こうして繋がっているときだけは、あなたに好きと伝えられる。




   *

   *

   *




 いつもの桜の園に行くと、ちーちゃんが地べたに座って絵を描いていた。

 すっかり緑色が目立つ枝垂の葉桜を鉛筆でデッサンしている。


「制服、汚れちゃうよ」


「あ、せんぱい。遅かったですねー」


「今日は写真じゃないの?」


「絵を描くのも楽しいですよ」


 ちーちゃんは手を動かしながら答える。今は何やら難しい顔をしているけど、それすらも楽しんでいるような口ぶりだ。

 私はベンチに腰掛けた。


「ちーちゃんって、楽しいと思ったらなんでもやっちゃいそう」


「そうですねぇ。大体は」


「じゃあ、バスケ部は? あんなに楽しそうだったのに」


 入学式の日の活躍は未だに目に焼き付いている。あれだけ影響力のある選手はそうそう見つからない——と、吉谷さんも絶賛していた。素人の私ですら、その言葉に心底納得できる。

 ふいに鉛筆の芯がぱきっと折れた。すぐさま、少女はナイフで鉛筆を削り始める。

 ——ずいぶん本格的だ。


「絵が描きたいなら美術部だってあるし……」


 橘高校美術部——水彩、油彩、日本画まで、予備校並みに幅広い設備が揃っている、文化部の中で随一に大きい部活だ。何と言っても、画材を使い放題という贅沢っぷりである。定期的に絵画展も開いており、中には本気で美大を目指す生徒もいる。

 ちーちゃんならいい線行くんじゃないかと、デッサンを眺めて思う。

 できることが多いのは素直に羨ましい。うまくできると、それだけ楽しめるのだろうし。


「うーん……。バスケも絵も好きなんですけどね。写真はこれだーっていうか、とにかく特別なんです。たとえるなら、そうですねぇ——」


 ぱっと立ち上がったちーちゃんが走り寄ってくる。


「ラブですよ、せんぱい」


 濃厚な日向の香りに、顔がみるみる火照っていく。

 ——そんな唇が触れそうな距離で、突然何を言い出すんだ、この子は。

 私の動揺なんて露知らず、ちーちゃんは至近距離で話を続ける。


「でも、コンテストに出したいとかでもなくて————うまく言えないけど、写真を続けてたら、これからもっと楽しくなる気がするの。だから、今は『楽しい』を探してるんです」


「探す……って、もういっぱい見つけてるのに?」


「もっともーっと、特別に楽しい、なんですよ。多分、きっと、ぜったいっ」


「そんな見当もつかないのに、見つかるのかな?」


「分からなくっても、それでも特別なんだから、ぶつかってみたいじゃないですか」


 ——この子は眩しい。あの夜に数えた星よりも、ずっと。

 もっと、きっと——そんな曖昧な言葉だらけにも関わらず、いつか実現するんだろうという不思議な説得力がある。それは、彼女自身が『楽しい』を見つけられると疑いなく信じているからだ。

 それに比べて。私はいつからこうなったんだろう。


「ちーちゃんはすごいな」


「ううん。誰だって、自分だけの特別な何かを持ってるんです」


「それを信じられるのは特別な人だけよ」


「————せんぱいも、分からなくなっちゃったんだ」


 そう、かもしれない。自分がなんのために絵を描いていたのかなんて、思い出せなくなっていた。

 ——絵は好き?

 簡単なはずの質問にとっさに答えられないくらい。


「ひらめき、来ました!」


「え?」


 少女は飛び跳ねるように、その『ひらめき』を口にする。




 ——部活に入ってないなら、作っちゃいましょうよ! 二人で。




   ***続く***

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