cut #3
卒業式の後に残ったものはたった一つ。臙脂色のネクタイピンだけだった。
『ちょっとだけ離れてみましょっか』
本当に、他のものは全部失くしてしまったのよ。
筆に込めた高揚感も、部活に打ち込む充実感も、あの人と過ごす幸福感も。
『また付き合ってくれる?』
一年間もそばにいて、何度も恋人らしいことをして、それなのにお互い一度も口にしなかった告白を、ずっと待っていた一言をもらった、はずだった。
それなのに——。
逃げてしまった。まさしく、脱兎のように。
先輩はがっかりしただろうか。私のことなんて、もう好きじゃなくなってしまっただろうか。
違うんです。本当は私だって先輩のことが————。
*
*
*
土曜日の早朝からメッセージがきた。
『デートしましょうよ。今すぐ車で迎えに行くから』
微睡が一瞬で吹き飛んだ。
返事を打つ前に、窓の向こうでクラクションが鳴る。まさかと思って窓を開けて身を乗り出すと、ミニバンの窓から先輩が顔を出して、コンコンと車体をたたく。
「うそぉ——っ!?」
——やだ、部屋着。髪、メイクも。服は……、ああ、部屋着だどうしよう。
パジャマ姿だった私は慌てて窓を閉め、混乱したままなんとか着替えを試みる。クローゼットを開けて真っ先に出てきたペールブルーのチュニックの上に、カーディガンを羽織る。服を選んでいる余裕もなかった。
大急ぎで髪を整え、下駄箱の外に一足だけ出ていたスニーカーを潰し履きして、表に出る。
側から見てもわかるくらい、よほど取り乱していたのだろう。伯父さんの微苦笑が目の端に映った。
車内は上品なお香のような素朴な香りが漂っていた。
助手席でむくれる私に、先輩は温かいコーヒーの缶を差し出してくれた。小さくお辞儀をしてそれを受け取り、できるだけ素っ気なく聞こえるように問いかける。
「私が不在だったらどうする気だったんですか?」
「そのときは出先まで迎えに行くわよ」
——どこまで本気なんだろう。
「先輩はめちゃくちゃです」
言っていることも、やっていることも。まるっきり私をからかっているかのようだ。
照れたように微笑む先輩。褒めているわけじゃないんだけど。
車内は暖房が効いていて暖かい。先輩はエスニック柄の刺繍が入ったコートを脱いで、ノースリーブのワンピース姿になる。ハンドルに伸びる腕はしなやかで健康的だ。艶やかな黒髪をターバンのような布でまとめている。
「それでもこうして来てくれるんだから、りさちゃんらしいというか」
「馬鹿にしてるんですか……?」
信号が赤になって、景色の流れがストップする。
「ちがうわ」
「————っ!」
先輩が私のざっくりした——中途半端に伸びかけた——短髪をそろっと撫でる。
「かわいいって思っちゃうのよ」
普段は強引なくせに、こういうときだけは、壊れものを扱うように優しくなる。そんな小さなギャップにも、私の心はかき乱されてしまうんだ。
ずるい。ひどい。そうされたら、もう俯くしかないじゃないか。
髪を撫でる手が離れて、車がゆっくりと発進する。意外にも、と言っては失礼だが、本人の強引さを微塵も感じさせない安全運転だ。
「さぁ、今日は遊ぶわよー」
*
車から出るとそこは、キャンプ場だった。渓流沿いにいくつかテントの頭が見える。
「キャンプ——って、泊まりですか……?」
「そうよ」
——困る。一晩先輩と一緒だなんて……。
困るのだけど。じゃあどうする? と聞かれたら……。
「嫌?」
先輩のなんでもお見通しと言わんばかりの瞳が、私の目を覗き込んでくる。
「……そういうことじゃ、ないです」
「やったっ」
先輩が小さくガッツポーズをする。
——本当にこの人は……。
断られることなんて最初から考えてもいなかったくせに。
もうこうなれば腹を括るしかない。何を言ったところで、最終的にはこの人の思った通りになってしまうのだと、経験が物語っている。
そういえば、泊まるって伯父さんにも連絡しておかないといけない。
「あ、家のことは心配しなくていいわよ。龍さんからオーケーもらってるから」
「んー……?」
先輩は慣れた様子でチェックインを済ませ、車に戻っていく。
さらりと「場所選んどいて」と言われた私は、初めてのキャンプ場をあてもなく彷徨う。丸い石の上は硬くてでこぼこしていた。スニーカーで来てよかった。パンプスとかを選んでいたら足の裏が痛くなりそうだ。
川辺付近にはキャンプファイヤーの跡がちらちらと残っていた。その中で、比較的きれいなひと区画を見つける。近くの木の枝に『サイトD』と書かれた看板がぶら下がっている。
先輩に『サイトDにいる』とメッセージを送る。
少し待っていると、先輩がミニバンを乗り付けてきた。
「どうしてキャンプなんですか?」
協力してテントを張り、ビニールシートに座って落ち着いたタイミングで聞いてみる。設営に関しては、私はほとんど教わるばかりで、先輩が一人でやったようなものだけれど。
テントに潜ってすぐに出てきた先輩は何かを持っていた。
鉛筆とB5サイズのスケッチブック。——二人分の。
きっと不満顔に映っているだろう私に対して、彼女は優しげに目を細める。
「まぁ、いいじゃない。開くだけ開いてみてよ」
「これって————」
「いちかにプリントしてもらってね、作ったの」
画用紙をいっぱいに埋めるのは桜と先輩と、私。ページをめくると、薔薇、藤、向日葵、金木犀、水仙——どれも色鮮やかな花々をあしらった折り紙とマスキングテープに、去年二人で撮った写真が彩られている。それはただのスケッチブックじゃなかった。先輩と一緒に過ごした思い出を切り取った、スクラップブックだ。
先輩はマグカップにコーヒーを注ぐ。
「りさちゃん、絵は好き?」
私はスクラップブックを抱き、湯気の立つカップに口を付けた。
「————もちろん、好きですよ」
舌を火傷しそうになる。
先輩は何かにつけて、私と絵を結びつけたがる。そもそも出会ったきっかけからして絵が関わっているのだから、仕方ないけれど——。
彼女はこの瞬間を逃すまいとするような手早い筆致で、渓流の風景を写生し始めた。川辺に添えるように、綺麗な薄紫色の花が描かれる。
「絵っていいわね」と、出会った頃の先輩が言った。それから何度か、彼女が絵を描いている姿を目にしたことがあった。
昔から——、その後ろ姿を見ていると、わけもないのに切なくなってくるんだ。
*
焚き火の前に並んで座って、二人で星を数えていた。春の夜空は薄くもやがかかっていて、光の粒を滲ませる。
先輩が黙ってしまうと、静かすぎて落ち着かない。
整った横顔のシルエットが、赤く揺れる灯りに浮かび上がる。
「——返事はまだ、もらえない?」
「ごめんなさい」
「いいよ、じっくり考えて頂戴」
彼女は素っ気なく告げる。
「先輩は嫌じゃないんですか? こんな中途半端な状態——私だったら……」
「ちょっとぉ。それ、りさちゃんが言っちゃう?」
「そう、ですね。忘れてください」
ぎゅっと、肩を強く抱き寄せられる。
「辛いわよ。当たり前じゃない。辛いけど、——嫌なんかじゃないわ。私、本気だもの。だから、りさちゃんが納得できるようになってから返事が欲しい」
先輩は見たことのないような苦笑を滲ませる。
「待つのってあんまり得意じゃないけど、まぁ、できるだけ待ってるから」
「————はい」
最近、思いがけないことばかり起こる。
生徒会長を務めていた頃の先輩は、いつも決断が早かった。だから他人に対して見切りをつけるのも、もっと早いと思っていた。
——もう一度想っても、いいのかな……。
まぶたを閉じれば思い出す、先輩がくれたスクラップブック。
——最後のページは白紙だった。
***続く***
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