cut #2
「なんか怒ってる?」
「別にそんなことないよ」
ちーちゃんの問いかけに対して、私は文庫本から顔を上げずに答える。ちょうど短編を一つ読み終えたところだ。
ノンストップで次のページをめくる。
その時、ぱしゃっと軽快な音がした。
「やっぱり、お口とんがってますよ」
「ん——っ!?」
——だから、近いってば!
またもや無断で私の写真を撮影した後輩は、机越しに私の顔を覗き込んで、唇を無遠慮につついてくる。
鳶色の星を散らしたような、輝きに満ちた瞳に、私の慌てふためく顔が映る。
「それより。早く見せてよ、写真」
「はー——痛っ」
私はちーちゃんの額を指で弾いて、本をたたむ。読み始めたばかりの文章が全部吹き飛んでしまった。
私から離れた彼女は、橘高校指定の黒いリュックを漁っている。
私はその間にリップクリームを塗り直す。
「そーいえば、せんぱいっていつもこの部屋にいるね」
レースのカーテンがかかる窓際には、ちーちゃんと私が座るL字のソファーと机。そこから出入口の扉までの間には、オーク材の古めかしい書架が三列、壁と並行に並んでいる。この部屋は、そんな十畳くらいの空間である。
ここは東京都調布市と府中市の間——大和市にある私立橘高校。その図書室のさらに奥、七十年以上の歴史を持つ資料室だ。図書室に置けなくなった資料を保管するために設けられたその小部屋に、立ち入る生徒は殆どいない。元生徒会役員で元図書委員という微妙すぎる立場をフル活用して手に入れた、私の小さな隠れ家だ。
普段は一人で籠っているが、今この部屋にいるのは二人。
図書室の一角ではあるが、図書室とは渡り廊下を挟んで旧校舎側に位置している。加えて壁も扉も防音がしっかりしているため、普通の声量で話しても差し支えない。
「いい部屋でしょう? あとは詩織にしか教えてないんだから」
「部活、入ってないんですか?」
「……」
さらっと流せない質問が投げかけられた。
今は放課後で、ほとんどの生徒は部活動に出ている時間だ。
橘高校は何らかの部活動への所属が義務付けられている。にもかかわらず、私は何の活動もしていない。いつか聞かれるだろうとは思っていたけど。
とりあえず引きつった笑顔を浮かべてみる。
「——はい」
「んぇ——?」
「写真です、写真。ぼーっとしてると仕舞っちゃうよ」
——ああ、流してくれるんだ。
物分かりが良すぎやしないか。良かったような、肩透かしを食らったような、微妙な気分。
そんなもやが、
次の瞬間にはさぁっと吹き飛ぶ。
広がっていたのは、風に舞い上がる、淡いながらも際立つ桜色。
その中心にいる私たちは——、子供のように笑っていた。
驚く。入学式の日の桜の園に舞い戻ったような気さえする鮮明な景色よりも、自分がこんな笑顔をしていたことに。
「せんぱいにあげます。入学祝いに」
「ありがとう。ちーちゃん、写真撮るの上手になったね。本当よ」
——まぁ、私は在校生なんですけど。
それはさておき、興奮交じりで称賛する私に、ちーちゃんは満更でもなさそうに頷く。
「ずっと憧れてる人がいるんですよ。あたしはその人みたいに写真を撮りたいんだ」
「その人みたいに、って?」
「うん。撮られた人が幸せになっちゃうような、そんな感じのです」
ちーちゃんはそう言って、資料室の書架の片隅から持ち出した一冊の本を掲げる。
書名は『フォト・エスノグラフィック・リポート』——、
「伯父さんの、本……」
私の伯父——文化写真家・
彼女はそれを大事そうに抱える。あの頃の思い出ごと抱擁するように。
ふいに爪先まで緊張が走った。
まただ。この、掻き立てられるような鼓動の高鳴り。
心臓がぐわんぐわんと回転し始める。目玉が熱を帯びてきて、五感がしばらく視覚だけになる。
「明日も来ていいですか?」
はっと我に返る。
やけにクリアだった視界が、いつもの褪せた色合いを取り戻していく。
「あ——、ごめん。明日は、用事があるんだ」
「はいっ。じゃあ、来週ですね」
さっきの感覚はもうどこにもなくて、ちーちゃんの弾んだ声が耳によく通った。
「そうだね。また来週」
そうだった。
明日は、金曜日だ。
*
「ねぇ、伯父さん。いちかちゃんって覚えてる?」
食器を洗いながら、リビングに向かって聞いてみる。
少し間を置いて、艶のある声が返ってくる。
「どうだったかなぁー……」
「ほら、十年くらい前だったかな、私を迎えに来てくれた時に何度か会った子。今年入学してきたんだけど」
「橘だったら——大和市の……——、ああ!」
記憶の糸をたぐるように天井を見上げていた伯父さんが、滑らかな曲線を描く喉を鳴らした。
「あのいい写真撮る子かっ! 丁度九年前だよ。どうだった?」
「うん、まだ続けてた。伯父さんの大ファンだって」
「——そう。なんか嬉しいな。あのときは凛咲もあの子も小さかったけど」
伯父さんは遠い目をして煙の輪を吹かしている。
煙草の匂いは苦手だけれど、彼に染み付いた匂いは嫌いじゃない。
「ふふ。びっくりしたんだよ、いきなり撮ってもいいですかって言うんだもん。けど、すごく優しい写真だった。ちょっとだけ、伯父さんみたいだなーって思っちゃうくらい」
「へぇ」
「あ、でも背はちっちゃいままだったな。このくらい、かわいいんだよ」
リビングに戻った私は、自分の顎のあたりを指して言う。ちーちゃんの仰向く瞳と——、先輩のほんのちょっとだけ伏せた瞳が、同時に浮かんできて、ふいに戸惑う。
椅子に座ったまま私を見上げる伯父さんは、唐突に手を出してきた。
「見せてよ」
「何を?」
「写真。撮ってもらったんだろ?」
「あ、あぁー……」
言葉に詰まり、伯父さんから目を逸らす。すると、袖がくいくいと引かれた。
「おいおい、照れることないじゃない。昔から何度も撮ってるんだし」
確かに、普通の人よりは撮られ慣れている方だと思うけど——、
「伯父さんと他の人じゃ違うの! ——あ!」
「へぇ、どれどれ」
置きっぱなしだった私のリュックを勝手に漁られる。
思春期の姪に対して、あんまりな仕打ちというもの。相手が私じゃなかったら、家出案件だ。恨みを込めて伯父さんを眺める。
彼は写真の束を何枚かめくって、目を見開く。
「驚いた。こんな素敵な子に育ってたんだねぇ……」
「わかるの? そんな——、私が写った写真だけで」
途中で照れが入って、声がすぼんでいく。
「絵と一緒だよ。人を撮るってのは、そういうことさ」
——好きな人に好きと伝えること。
伯父さんからもらって、ちーちゃんにあげた言葉だ。ちーちゃんの中で、それは確かに息づいている。
少しくすぐったい気持ちになる。
「伯父さんにまた会いたいって」
「大歓迎だよ。今度連れてくるといい」
伯父さんは大きく手を打った。
教えたらきっと——、
ちーちゃんの喜ぶ顔が見えるようだった。
***続く***
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