cut #1


   ***凛咲***




 色が、絡みついてくる。


 筆が鉛のように重かった。

 描いても描いても、あの鮮烈な桜色には及ばない。

 沖まで自分の足で泳いできたはずなのに、突然泳ぎ方を忘れてしまったらどうなる? もがきながら沈んで呼吸を失って——、それでもまだ、胸を押しつぶして色を吐き出すように——、どうしようもなく筆を走らせてしまう。


 昔から言葉で気持ちを伝えるのは苦手な方だった。だから、あなたと一緒にいるときは絵を描いた。

 あなたに褒めてもらえた嬉しさも、初めて手を繋いだ日の戸惑いも、触れた場所から溶けて一つになってしまうような温もりも——、


『ちょっとだけ離れてみましょっか』


 ——さよならの痛みも。


 そして、今日もまた思い知る。

 満開だった桜はとうの昔に散ってしまった。絢爛たる花弁を広げる木々の下で一人、それを嘆く。これからどれだけの時間をかけて、あなたを描いたキャンバスを塗り潰していくのだろう。


 あの瞬間まで——本当にそう思っていたのよ。


『凛咲ちゃんが好きなの』


 どうして今になってそんなことを言うんだろう。ようやく諦めようと思えたのに。だから、久しぶりに筆を取ったのに。

 指先で、まだ先輩の余韻が残っている唇を撫でる。少しひんやりしているけど柔らかい、私の知っている先輩の感触そのままだった。私の肩を抱いた手は、少しだけ心細げに震えていた。




   *

   *

   *




「りさー? ねぇ——」


「あ、ごめん。なになに?」


 詩織の話は途中から耳をすり抜けていた。

 彼女はお弁当箱を持って席を立つ。


「食堂いきましょうよ。席埋まっちゃう」


「うん」


 さっさと踵を返してしまう詩織を、私もリュックからお弁当を持ち出して早足で追いかける。

 すれ違った風間純の視線は、相も変わらず冷ややかだった。




「やー、空いてなかったねぇ」


 吉谷さんが笑いながら言う。

 食堂は満員だった。空席もあるにはあったけれど、四人で座れるボックス席は埋まっていた。

 今年のお昼は四人グループになった。詩織と吉谷さんと、テニス部の大江さんも一緒である。


「ごめん! 私が遅かったせいだね」


「そんなことないっしょー。どっちかってゆーと、坂本のせい? チャイム鳴ってんのにだらだら喋ってるし」


 大江さんがげんなりとした顔で言う。居眠りをしていたせいだろう、頬に制服のシワでできた跡がうっすらと残っていた。

 ちなみに坂本先生は古文の担当教師だ。


「そーそー、去年もだよ。四限目のお坊さん」


「えー、お坊さんって、それあだ名?」


「だよー。うちのクラスでそう呼んでた。ね、河内さん」


 吉谷さんが苦笑してこっちを見た。私は曖昧に頷いておく。


「あー、確かに。お経みたいだもんねぇ」


「それもそうなんだけど。実はね——、チャイム鳴ってる時は黙んのよ。で、チャイムが止んだら喋るのだ」


「マジか。確信犯じゃん」


「大江ちゃんも次は聞いててみ。結構面白いよ」


 吉谷さんのすごいところは、坂本先生本人にも『お坊さん』と話しかけることだと思う。その潔さはなかなか真似できない。

 前を歩いていた詩織が、私たちを振り向いてにこりと微笑む。


「今日は天気もいいし、中庭で食べましょっか」


「オッケー。購買寄って行っていい?」


「もち」


 生徒会書記様の前で教師の噂話をするのは、少しばかりバツが悪いと気付いたらしい。吉谷さんと大江さんは食堂の隣にある購買へと一目散に、お昼ご飯を物色しに行った。




 中庭は木漏れ日がきついくらいの晴天だ。

 中庭のシンボルであるオリーブの大樹を中心に、私たちは円形に並んだベンチに腰掛ける。入学式の日ほどではないけれど、まだ少しだけ風は冷たい。


「河内さんお弁当なんだぁー」


 少し間延びした感じのある声。

 大江さんは、私の広げたお弁当をまじまじ見ている。


「もしかして自分で作ってるの?」


「うん、そうだけど。大江さんは?」


「うちはいつも学食か購買だよー。すごいなぁ。うちのママよりえらーい」

 

「ええ——、そんな大したことないよ。夕飯の残りとか詰め込むだけだし」


「それがすごいんだってばーっ」


 彼女はパンを頬張りつつ、私のお弁当に興味津々なようだ。


「唐揚げ……、食べる?」


「ほんとぉ? 食べたい食べたい!」


「ずるい! アタシも混ぜろ!」


「はいはい、順番にね」


 大江さん、吉谷さんが大人しく列を作る。よしよし、いい子だ。


「——っふふ。凛咲、お母さんみたいよ」


 詩織が堪えきれないといった風に笑い出す。

 大江さんが顎に手を当てて口にする。


「じゃあ、川島さんがお父さん、かなぁ」


「嫌よ。苦労しそうだもの」


 詩織の返答はにべもない。

 ——それってどういう意味でしょうか?


 すまし顔の詩織に問い詰めてやろうと思った矢先、


「わお、せんぱい見っけ!」


 春の木漏れ日に負けじとばかりに、日向のように明るい声が響いた。

 そこには栗毛の小柄な少女。


「ちーちゃん?」


「ちょっと隠れさせてっ!」


 言う頃にはこちらへ駆け出してきている。

 彼女はベンチの裏の植え込みには足を踏み入れないようにして、私の陰に入った。ちょうど中庭に繋がる渡り廊下からは死角になる位置だ。まるで猫のような身のこなし。

 ふわりとした栗毛が私の腰あたりを擽る。


「え——、え?」


 状況が掴めず混乱している私に向かって、ちーちゃんは口許に人差し指を立てて応じる。

 ——逃走中、なのかな?

 それだけはなんとなく理解する。

 まもなく、彼女にかかった追っ手がやってきた。


「こらぁ、いちか! どこいったぁ!?」


「ゆ、ゆっちゃん。みんなびっくりしてるよ」


 ウェーブのかかった琥珀色の髪の子と、ショートの黒髪の子。たしか、バスケ部の模擬試合にも応援に来てた子たちだ。

 彼女たちが、ちーちゃんを探しているのか。はてさて、何をやったのだろう。

 そんなもの思いを打ち破ったのは、ちーちゃんの耳打ち。


「こないだの写真、現像終わってますよ。せんぱいに見てほしいんですけど、どうですかー?」


「うん、見たい」


 現状はさておいて、本心を告げる。

 ——自分が写ってる写真だけはちょっと恥ずかしいけど。


「あは、よかった。じゃあ今日の放課後、図書室に行くね」


「それは構わないんだけど」


 中庭をぐるりと巡回してくるあの子たちからは、ちーちゃんの姿が丸見えだよねぇ。


「あ」


「みーつーけーたぁ」


 ——言わんこっちゃない。

 早速ちーちゃんは琥珀色の髪の子に見つかってしまう。目を尖らせていて、いかにも怒ってますという風体だ。小さく整っている顔は、すらっとした身体と相まってモデルのようだと思う。


「あんた、また、こそこそ私の写真撮ったでしょ」


「ゆっちゃんがすごくいい顔するからぁ」


 琥珀色の髪の子——ゆっちゃんがちーちゃんの首根っこを掴む。割と容赦なく。ベンチから引きずり下ろされたちーちゃんは、両手をぶらぶら——じたばた?——させて抵抗する。


 あまりの手際に、詩織をはじめとして、三人とも唖然としている。

 ちーちゃんならやりかねないと思っていた私は、少し余裕があったので、離れたところでおろおろしている黒髪の子と目を合わせた。控えめな会釈に、私も目で応える。目の下にそばかすの浮いた、人当たりのよさそうな子だ。


「ふたりとも、先輩たちが困ってる」


「む——。言い訳はあとで聞いてあげるから、ちゃっちゃと戻るわよ」


 抵抗むなしく、ちーちゃんは渡り廊下をずるずると運搬されていく。


「約束ですよ、せんぱーい!」


「ほら、自分で歩け!」


「あ——宮古ー! バスケ部、考えといてくれよなぁ!」


 我にかえった吉谷さんのラブコールは届いただろうか。

 結局、踵を引きずられるちーちゃんの足が見えなくなるまで、見送ってしまった。


「一年生?」「元気だねぇ」


 吉谷さんと大江さんが、口々に可愛いを連呼する。

 悪目立ってるなぁ。目撃した生徒たちも噂をしている。何故か私の頬まで火照ってきた。


 入学して間もない時期に、何やってるんだか。

 ——というか、さ、


 ちゃんといるじゃない、可愛いモデルさん。




   ***続く***

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