interlude:宮古初香について
入学《であい》
(一年前)四月十日 午前六時五十八分。
その子は朝の美術室のテラスで見かけた。
ネクタイが揺れて青藍のネクタイピンが目に入る。新入生がこんな時間に何をしているんだろう。気になって「おはよう」と挨拶したら目を逸らされた。
それがあんまりにも露骨だから印象に残った。
——もう少し踏み込んで言うと、かなりむっとした。
お昼前には放課になって——なんと今度は、桜の園で彼女に会った。
今頃校内では部活動が精力的に動き出している頃だ。しかし、仕事は朝のうちに全員に割り振ってしまったし、見回りも一通り終わってしまった。戻っても面倒な書類作業が残っているばかりだし、気晴らしは必要だ。
新入生の彼女はベンチに腰かけ、熱心に色鉛筆で桜を描いている。肩の辺りまでざっくりと伸びた伽羅色の癖毛が筆に合わせて揺れている。
「こんにちは」
なるべく驚かせないように穏やかに、話しかけてみる。
「——こんにちは」
「隣いいかしら」
「はい、どうぞ」
目を上げずに鉛筆を走らせ続ける彼女。真剣そうで、だけど張り詰めてはいない、伸びやかな筆遣いが心地よい。
「朝も絵を描いてたよね、美術室で」
「はい」
「絵が好きなの?」
「そうですね。昔からずっと描いてますから」
彼女は淡々と告げる。あまり感情の起伏を感じられないのは、警戒されているからだろうか。
そりゃ入学初日の新入生にとってみれば、先輩なんてちょっと怖いものかもしれないけど。
でも、その割にはリラックスした手際だ。
「ふーん——」
スケッチブックに描かれているのは、この公園の中央に立っている大きな枝垂れ桜の古木。はらはらと落ちる花弁の儚さまでも柔らかいタッチで捉えている。
「綺麗な桜ね」
「——そうなんです。本当に、こんなに大きくて古い桜の木そうそうないですよ! しかも、たくさんのソメイヨシノに囲まれて。さっきここに入る道を見つけたんですけど、びっくりしちゃって」
彼女は興奮したように立ち上がって枝垂れ桜を指す。さっきまでの素っ気ない態度が嘘のようだ。
「そうじゃなくて。貴方の絵のことよ」
「えっ? ————ああ! ありがとうございます」
自分の勘違いに気づいた彼女は、再びベンチに腰掛ける。
「——なんか照れますね」
頬を桜の花びらと同じ色に染めて微笑む。端正な口許がすぼめられる。
「この庭園はね、桜の園って呼ばれてるの」
「へぇ……」
「その大きな枝垂れ桜は、ウチの高校ができた時に植えられたんですって。昔はこの辺りも校庭の一部だったのだけど、戦後の大火事で校舎を建て替えた時に色々あって、学校の敷地から外れてしまったらしいの」
彼女はしばし手を止め、私の目を覗き込んで、真剣に聞いている。
「けれどね、当時の校長先生がこの場所だけは守りたいって言って手放さなかった。周りにはたくさんの家が建っていったけど、ここだけは庭師の人に整備させて、誰でも入れるようにして。今じゃすっかり、知る人ぞ知るって感じになってるけどね」
彼女は感心するように溜め息をついた。
「————素敵です」
「——なんて。全部園芸部の先生に聞いた話。たまに園芸部の子も世話しに来るのよ」
すぐに種明かしをしてしまう。
なんだか急に恥ずかしくなったのだ。
「先輩、園芸部なんですか?」
「やっぱ覚えてなかったかぁ。入学式と部活動紹介の時に喋ったんだけどな」
「すみません。人の顔と名前覚えるの苦手で——」
「いいわよ。私は三年の宮古初香。生徒会長やってるわ」
「生徒会長——。あ、歓迎の言葉の!」
「そうよ。貴方の名前は?」
彼女は一瞬目を伏せ、躊躇いがちに答える。
「ええと、——河内、凛咲です」
「りさちゃんね。よろしく」
「は、はい。よろしくお願いします」
——なんだ、普通に話せるじゃない。
「朝も挨拶したんだけど、なんで無視したの?」
「朝ですか——? 朝……、あっ!」
彼女は急にスケッチブックをめくり始める。
そして目の前に現れたのは——両翼を広げて青空へと羽ばたくツバメの絵。
「これ————?」
「宮古先輩のおかげで描けたんです。先輩が来て、あの子が飛んで行ったから。夢中になっちゃって——、気がつかなくてごめんなさい」
——そういうこと。なんだか勝手に腹を立てた自分が馬鹿みたいだ。
けれどそれよりも。私はすっかりこのツバメの絵に魅せられていた。
*
*
*
あの日以来、度々美術室を覗くようになった。
彼女は当然のように美術部に入部した。図書委員の活動にも熱心だ。好きなことにとことん打ち込むタイプ。あれこれ手を回して、なし崩し的に生徒会の臨時役員という形でコネクションを作った。
言葉遣いはとても丁寧だ。声を出して笑うこともあるけど、あんまり素直に感情を出さない子という印象が勝った。どこか抑え目に振る舞っているように感じた。でも、絵の話題になると無邪気な子供のように話しだす。もしかしたら、そちらの方が飾らない表情なのかもしれない。
だって、彼女の絵には強い情念のようなものが宿っているから。
それは、写真の話をする妹——いちかに似てる気がした。
ふいに、この子の新しい一面を引き出してみたくなって————、その思いつきを口にする。
「今度、私のこと描いてみない?」
彼女は眩しそうに目を細めて、控えめに頷いた。
***続く***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます