film #6
先輩は「部に挨拶してくる」と言って、振り返りもせずに行ってしまった。
手元の腕時計を見ると十六時。先輩との約束の時間までずいぶん余裕がある。
体育館では、すでに二試合目が始まっている。熱気冷めやらぬうちに再び燃え上がる群衆の傍、薄暗い体育館の裏はひっそりと静まり返っている。
「せ〜んぱいっ」
学校指定の体操着であるジャージから制服に着替えたいちかちゃんが駆け寄ってくる。
あんなにへばっていたのに、体力は回復したのだろうか。けろっとしている。
「勧誘、抜け出してくるの大変だったんじゃない?」
「部長さんには引き止められましたけどねぇ」
「——バスケ部に入るの?」
少女はへらへらした微笑を崩さないまま、
「んーっ、決めかね中です!」
あれだけ魅せつけておいて、本命じゃなかったのかしら。
深くは追求せず、私は桜の園へと足を早める。
桜の園——去年、入学したばかりの頃に先輩によく連れてこられた場所だ。
地主は高校関係者とのことで学生の出入りは自由。学校の裏手に細い道があり、そこから入れるのだが、四方を年季の入った民家に囲まれているせいで、認知度は案外高くない。
ひっそりと守られた、知る人ぞ知る桜の名所になっている。
いちかちゃんは桜の園まで付いてきた。白いデジタル一眼を持って。
「あなたが初香先輩の妹だったなんてね」
目尻が誰かに似ている気がしたんだ。
あれこれ知った上で隠していた、とは思わないでおこう。主に私の精神衛生上の理由で。
少女は日向のような笑顔で告げる。
「ずっと昔から、せんぱいのファンなんですよ、あたし」
「ごめん。よく分からないんだけど」
「去年の夏のコンクールで見たんです。せんぱいの絵」
「あ、あー……」
——夏のコンクールの作品。
今の私にとって、それにあまりいい思い出は、ない。
「絵は、辞めたの」
「でも朝は描いてました」
——やっぱり見られてるよね……。
覗き込まれたスケッチブック。描きかけの絵は、しっかり目に映ってしまったようだ。
「あれは気まぐれ。結局完成しなかったし。——先輩にはこのこと黙っておいてね」
「辞めちゃうんですか?」
「そう言ってるじゃない——っ」
思わず語気が荒くなる。
しかし、彼女は表情を変えず、相変わらずの笑顔でこちらを見ている。
私はかぶりを振る。
「はぁ……、ごめん。別に怒ってるわけじゃないから」
こめかみを押さえて肩の力を抜く。
一見裏表なさそうな、それでいて腹の底ではなにか企んでいるような、掴みどころのなさ。どこかポーカーフェイスのような微笑。
ベクトルは違うけれど、初香先輩に通じるものを感じた。
風が桜の花弁を散らしていく。
その余韻を味わうように、少女はたっぷり呼吸を溜めて、訊ねてくる。
「せんぱい、あたしのこと覚えてないですか?」
私はそれに答えることができない。以前に会っているような気がしたけれど、未だに記憶の中から掘り起こせずにいる。
「二人でここで遊んでたんですよ」
「そうなの?」
いったいいつの話なんだろう。
確かに、幼い私は伯父さんに連れられて桜の園に遊びに来ていた。しかし、その頃の思い出を辿ってみても、いちかという名前の子には思い当たらない。しかも小学生の時分に都外へと引っ越してから、一昨年こっちに戻ってくるまで、この庭園に訪れたことすらなかった。どう考えても彼女と私が会っているはずはないのだけど。
思い出せないことが少しもどかしくなる。
「人を描くことは、傍にいるよ、もっと知りたいよ、って気持ちを届けること」
————その言葉。
「好きな人に好きと伝えること。せんぱいに、教えてもらったんです」
朝と同じとびっきりの笑顔は、今度こそ私の記憶の扉を叩く。
今とそっくり変わらない桜の園。枝垂れ桜の大きな幹の麓に腰を下ろす幼い私の隣に、泣きじゃくるあの子の姿が浮かび上がる。
「もしかして——、『ちか』——ちーちゃん……?」
記憶に重なるように、いちか——ちーちゃんが目前まで迫る。
春風にたちまち薫る日向のような匂い。
「うんっ、ようやく会えました。——りっちゃん、せんぱい」
*
先輩は約束通り十八時ぴったりに、桜の園にやってきた。
一本だけ立っている街灯が、ロングコートのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。
ちーちゃんは明るいうちに帰した。物足りなそうにしていた彼女を納得させるために、即席ででっちあげた理由を説明しているときは、拒絶しているようで気が引けた。
すっかり薄暗くなった空の下、ベンチに座っていた私の不意をつくように——、先輩は爪先が触れるほどのところまで近づいてくる。
私は思わず俯いてしまう。
「どうして今日、来たんですか?」
「りさちゃんに会いたかったから」
他の女の子より少し低音で、強引な、いつもの声。変わらない——臙脂色のネクタイピンをくれたときから。いや、初めて会った時からずっと。私の気持ちなんてお構いなしだ。
「私は会いたくなかったですけど」
「絵は、まだ描いてないのね」
「話を、逸らさないでください……っ」
「言ったじゃない。私が絶対もう一度描かせてみせるって」
先輩が私の短い髪を撫でる。コートの裾が揺れている。
「そんなことしたって、もう私は描きませんから」
「それなら描けるようになるまで、凛咲ちゃんのストーカーをするだけよ」
先輩は私と鼻先がぶつかるくらいの距離に顔を近づけてくる。切ないほど甘く鮮やかな柑橘の香り。
ダメだと思っているのに、私の胸は勝手に反応する。
かあっと頭の芯が熱くなる。
「先輩はいつもそう……。あんまり私を振り回さないでください」
「仕方ないじゃない、好きなんだもの」
「だからそれが——っ! 今さら迷惑なんです。先に振ったのは……っ、留学するからって言ったのは——そっちじゃないですかっ」
「そうね」
ふいに、先輩の手が私の頬に当てられる。
ひんやりとしているな——、そう認識した頃には、唇と唇が重なっている。
背筋がぞくっとして、たちまち脳が冷えていく。
「————っ」
私は慌てて身体を後ろに逸らした。
「ねえ、もしもだけど」
口元を中心として、耳から胸にかけて火が燃え広がるように熱い。逆に背中は冷水でも浴びたよう。
先輩の声がどこか違う世界のものに聞こえてくる。
「これからも会いたいって言ったら、また付き合ってくれる?」
一ヶ月ぶりに感じた唇の柔らかさが、私の心をまだらに染めた。
***続く***
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