#24

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 それは神だって、光に始まり、やがては人間を作り出したくなるな、とロエルは共感の情を抱いた。

「文化を作り変えるにはさ、千年や二千年なんてものの数じゃないって、よく言ったもんだな。俺がこうして夜空の下で、究極に遅滞した時間の流れに身を任せている無窮の上に立って、ようやく揺籃の国はその揺れ方を変えるんだ」

『いつになく詩的だな。そんなんで……トラーネに会って平気なのか?』

「彼女なら……ずっとそばにいるだろ」

 ロエルが言ったその時……、ようやく夜空に煌くデグマが口を閉じ切った。

「懲役終了だ」

 終わってみれば、意外とあっという間に感じてしまう。それは光子に親しい身体の持つ特殊な感覚なのかもしれなかった。

 ロエルはその場に悠然と佇み、ひっくり返し続けていた感覚を、元に戻す。

 その瞬間、時間が殺到してきた。

 莫大な音の嵐、生命の奔流、あまりにも鮮烈に動く人、人、人。

 その光景を見て、ロエルは心中で喜びを噛み締める。それは神だって――世界を作りたくなるだろう。時の流れ、その営みの中へと、自分もこうして参加できるなど、これほど嬉しいことはない。

 ホメロとトラーネが、ロエルの方を見た。ロエルは一目散に、彼女たちの元へと駆けていく。

 火が、灯が、町に再び灯された。

「……父帝の意志、なのだろうか」

 呆然としたような、現帝の声が広場に木霊する。一流の役者だった。

「この町は蜃体の加護がある。明日付けで、この町に自治権を与えよう」

 新たな法文の朗読が聞こえる。第一条 、この法は、地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立する――。

 それは勝利の呼び声だった。全ての人に対する。


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「ご苦労だったな」

 現帝は厳かに言い渡し、椅子に腰を下ろした。ロエルはかしこまって頭を下げる。

「いえ。自分はこれといって何も……」

 群青の町はこのまま夜通し祝祭に明け暮れることだろう。そして明日から、新しい日々が始まる。町民の不満感情はここに浄化され、歪だった蜃体師の雇用体制も正される、そして現帝の野望実現に向けた、戦の日々が始まる。

 現帝は、群青の町の自治を認める旨を記す、宣旨をしたためていた。

「それで、ご用件は何でしょうか」

 ロエルは一人、現帝の詰める司令室に招集されている。何かの辞令かと思いきや、現帝は事務作業の最中で、話が見えずに困惑していた。

「そんな大層な話ではない」

 現帝は顔も上げずに、独り言のように言った。

「ぬしは、余の政策に反対だろう」

「……正直に申し上げれば、そうなります」

 ロエルは偽らずに答える。

 現帝のしようといていることは、端的に言って世界征服である。究極の大蜃体を見つけるという目的地があるとはいえ、揺籃の国を侵略国家に仕立て上げるのは性急だと思う。

 そこまで態度に出した覚えはないのだが、現帝はさも当然という風にロエルの返事を受け取ると、続けて、

「故に、この国を離れようと思っている」

「それは……」

 言って良いものかと、ロエルは口ごもった。

 ホメロにはもう、告げてある。アルガにもミュロにも。

 ロエルはトラーネと共に、異教の国に赴くつもりだった。そして、敵国の内部から、現帝とは違うやり方で、一日も早い平和の樹立を画策する。しかし、それは揺籃の国にとっては、多くの情報を敵国に手渡すことになる。ロエルは現帝の目論みについて多くを聞きすぎた。

「クク……良い。だから、賭けをしようではないか」

 言い淀むロエルに現帝はそう告げて、机上に印璽と二つの朱肉を並べた。朱肉は、どちらも印璽にフィットするサイズの特注品だ。現帝は薄い笑みを浮かべて、印璽をロエルに手渡してくる。受け取ったそれは、まるで剣のようにずっしりと重い。

 それから、宣旨の用紙を机に広げて、現帝は言った。

「ほれ……ぬしらの造り上げた新たな法だ。然るべき色を選んで、自分で判を押すが良い」

「現帝、自分は色の判別が……」

「言っただろう。これは戯れに行う賭けだ。何、間違えてももう一度書き直せば良い……」

 ロエルは改めて、この王の凄絶さに戦慄した。

 当然、現帝はロエルの目のことを知っている。故に、亡命に目を瞑るか否かを、この二分の一に託そうというのだ。

 それどころか、色を間違えたところで、この王が素直に書き直すかどうかも怪しい気がしてきた。この王なら、あれだけの演出を行った上でも、平然とこの法を反故にしてしまいそうな、危険な臭いがある。

 それくらい、現帝の発言、視線、表情は裏が読めず、こちらの思考は攪乱する。

 とにかく選択しなくてはならない……と、ロエルは二つの朱肉を見比べた。どちらの朱肉もただの朱肉であり、色の付け入る余地はないように見える。ないようにしか見えない。そして、然るべき色、とは、何だ。ただでさえ俺には色がない、というのに、相応しいも何もないではないか。緊張が俄然高まり、意識に膜が張ったようにぼんやりとしてくる。

 ――その時、妙な感覚を左の朱肉に覚えた。故郷の家の匂いのような懐かしさ、安らかさが、そちらの方から漂ってくる。もう片方を見やっても、そういう感覚は起こらない。左の朱肉特有のものだった。

「……これは……」

 ロエルは印璽を持たない方の手で、恐る恐る、左の朱肉へと手を伸ばした。指で軽く押すと、インクが滲んで付着する。

 その触り心地には覚えがあった。インクではない、色の触り心地にだ。

 それは、ずっと触れていたい温かな感触がした。絹のような感触をしていて、指先をすっと流れていく。それだけで心が浄化されていくようだった。

 この色は――、彼女の色だ。

「蔚藍の……トラーネ……」

 藍色。

 それは、ロエルが初めて感じた〈色〉だった。

 導かれるよう、ロエルは印璽を藍色の朱肉に押し付け、迷うことなく宣旨へ判を押した。

 乾いた拍手の音がした。見ると、現帝は満足げに口の端を吊り上げていた。

「正解だ。揺籃の国の〈籃〉は〈藍〉に通じることから、インクの色は藍と決められている」

「……初めて知りました」

 ロエルが素直に言うと、現帝は大きく笑った。

「はははは……まさか、初の法の改正を蜃体師と取り行うことになろうとは。この世の中、無窮に深化していく余地など、まだいくらでもあるだろうではないか!」


  Epirogue


 結局、ロエルとトラーネは一か月間、群青の町に留まった。新しく出発した町の様子を、少しでも見ていきたかったからだ。

 新町長選挙ではアルガが見事当選し、新制度の整備で多忙な日々を送っている。

 ミュロは王都の蜃体兵器開発部へ配属され、設計に奮闘している。機密情報をぎっしり書いた日常の光景を手紙にして送ってくる度胸は、現帝への反骨心の表れなのか。

 地下エルデのその後は知らない。相変わらず、町に燻る利害を調整し続けているのだろう。

 その日、長く親しんだ訓練室で、机を挟んでロエルはホメロと向き合っていた。

「師匠、復職おめでとうございます」

「ありがとうございます。といっても、私自身は休暇でのんびりしてただけで、ほとんどアルガさんの力添えのお陰なのですが……」

 国の管轄から離れるということで、全ての役人は一度その職を解雇され、再び町から正式に雇用されるという形になった。蜃体師も例外ではないが、前町長クラムの粗雑な管理の体制のせいで、蜃体師の人事は白紙から練り直す方が早いということになった。また、ホメロの持つ莫大な力についての議論も並行して行われ、結局のところ、これだけの時間がかかってしまったというわけだ。

「これで心おきなく、俺も出発できます」

「……ついに、行ってしまうのですね」

 ホメロは寂しげに目を伏せて言った。

「はい……父帝の築いた秩序は内破し、現帝の治世は戦の時代になります」

「世の作り直し……ですね」

「何ができるというわけではないんです。ただ……俺は現帝の立場に与することはできない。だから、別のやり方で、戦争を潰えさせたい。ただ、それだけです。どうか、出奔の方、お許しください」

「許すも何も……私は、あなたを誇りに思いますよ」

 ふわり、と、ロエルの前髪が風に吹かれたように揺れた。空気の流れが大きな掌のように包み込んでくる。それは、ホメロなりの愛情の表現だった。

 ホメロはまろく微笑み、

「子どもができたら、便りを下さいね。お祝いしますから」

 その言葉の意味を、ロエルは受け取り損ねた。一瞬、ぽかんとしてから、訊き返す。

「……えっと、子どもっていうのは?」

「あら。あなたとトラーネとの子に決まっているでしょう? もう一年間も同棲していたんだから、そろそろそういう時期なのではなくって?」

「…………ええ」

 突然の浮ついた話に、言葉が出てこなくなる。

 ホメロはニコニコと笑みを浮かべながら、

「照れる必要はありませんよ、むしろ、二人の睦まじさにはこちらが照れるくらいでしたし、二人で出ていくと聞いて、いよいよかと胸が熱くなってしまいました」

「ほ、保護者じゃないんですから……」

「保護者ですよ。私はあなたの師匠ですから」

 ホメロはそう言って胸を張る。確かに、とロエルは苦笑するしかなかった。

 それから、ホメロは居住まいを正して、ロエルを真っすぐに見つめる。

「私には私と揺籃の国のことで手一杯です――次に会う時も、今回の時みたいに対立する立場になるかも知れません」

「そうですね。……でも、俺達は共に闘う仲間ですから」

 ロエルの言葉にホメロは嬉しそうに頷くと、不随の右腕をぎこちなく動かし、差し出してきた。

 それ以上、何を言う必要もなかった。師弟は一生、ぶれることのない握手を交わす。


 ――生きるのよ。

 幼きロエルを抱きすくめ、かつて宣教師がそう言った場所に、ロエルとトラーネは立っていた。

 干戈地域の前線は押しつ押されつで、はっきりとここ、と言うことができず、地図上での国境線は、お互いの国の主張に過ぎない。貧困のあまり、西から締め出されてきた人々は、できるだけ戦火に巻き込まれない場所を見極めて、集落を築く。

 ロエルの故郷は、その賭けに敗れた。たったそれだけの話だ。

 トラーネはロエルのかつての住処を見て、静かに涙を流していた。思えば、彼女がロエルと行動を共にするようになったのは、ロエルの身の上話に深く共感してのことだった。気持ちは気持ちでしかない、と、かつてのロエルは思っていたけれど、その気持ちの動きが連なり紡ぎだした振幅が、心に沁み入ることもある。

「また、ここから始まるんだな」

 燃え尽きえた瓦礫の山を前に、ロエルは呟く。

うん、とトラーネが頷き、ロエルの手を取った。熱い、トラーネの体温が伝わってくる。まるで、天――即ち新たなる自然を生み出すに相応しいたなごころのよう……。

「何度でも、始まるんだ」

 トラーネが力強く言った。


 風の吹く頃には、蔚藍の髪を持つ少女と蔚藍の外套を羽織った青年の姿は、もうそこにはない。

 漂う光の残り香だけが彼と彼女の徴候を残して、その場に凝っていた。


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ミラージュ・サブスタンス 城井映 @WeisseFly

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