#23

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 陣営で合流したロエル達が、軍用車に乗って群青の町に入った時、群衆の興奮は大いに高まっていた。既に心臓クールは攻め入られ、陥落していたのだ。もはや、あの建築物の最期を決める権利は群衆に移っている。夜の帳に沈む行政区に集った人々は、諸手に火を翳し、決定的なその瞬間を心待ちにしていた。ホメロの死か、心臓クールの崩壊。いずれにせよ、彼ら彼女らは滅亡を志向していた。

 だから、現帝の乗り込んだ車を筆頭に、直属の兵士が群青の町で一番大きな広場に入ってきても、大衆は怯むことなく王を迎えた。

 ホメロの身柄を求めるシュプレヒコールが、喧々と押し寄せる。地下エルデの演出した借り物の憎悪。人情の本質はこの感情の貸し借りにある。

「では段取り通りに。気高き理性フィクションというものを見せてやろうではないか」

 現帝はそう告げて、車を降りた。それに合わせて、直近の親衛隊たちも周囲の車からわらわらと降りていく。夜の広場に、群衆と王の隊列が向き合う形になった。

 アルガはぼろぼろの外套を身にまとって、

「……じゃあ俺達は、群衆の方に回っておく」

「しっかりね……」

 ミュロは張り詰めた声で言ってアルガと共に降車して、火の光を避けるようにして、闇夜に消えていく。

 ロエルはその経過を見つめながら、頭の中で思い描いていた。質感イメージ陰陽イメージ存在イメージ

 ふと、ホメロの視線が、じっとこちらを向いているのに気が付いた。

「どうしました」

「……この騒動の片がついたら、どうするつもりですか」

 その問いがなされたのは、現帝との接触で変化したロエルの心の動きを、見抜いたからだろう。

「現帝は戦争をするつもりです。異教国と。経済を回すための燃料としての戦争ではなく、力関係をはっきりとさせるための、本当の戦争を」

 ふいに、外が静かになった。民衆の喧騒が鳴りを潜め、この場に集まる全ての耳がある一点に殺到しているのだ。

 現帝の御言葉。

 いかな熱狂した人間であっても、その言葉に耳を澄まさずにはいられない。何故か、揺籃の国民は、それがこの国そのものの意志であるように感じてしまう。

 今、現帝は何かを説得の言葉を語りかけている。だが、それはあまりにも高圧的過ぎて、やがて民の怒りは加速していくだろう。

 ロエルは形だけ穏やかになった空気の中、話を続けた。

「その際、現帝が使おうと目論んでいるのが蜃体兵器です。ミュロのような塑性体を扱う蜃体師の需要が上がっているのはそのためです」

「そんな……。王法の改正がここで成功させることで、蜃体についての条項の改正もやりやすくなる、ということですか」

「その通りです。将来的に蜃体の取り扱いは国民の標準となる。当然、父帝の危惧したように、濫用なされることでしょう。戦争で用いられることによって、一層酸鼻な結果をもたらすことにも。けれども現帝は修羅を望む。……群青の町に眠っている大蜃体達、あの中で全てを丸く収める究極の大蜃体が眠っていると、王は信じているからです」

「ふーん、そういうことだったんだ……」

 大衆の掲げる火の灯りで、ずっと本を読んでいたトラーネがそこで顔を上げる。

「そんな最後の審判的な蜃体があるとして、これまで誰も見てこなかったってことはさ、揺籃の国にはそんな人材がいないってことだよね。これから来るかも知れないけど、人の一生は短いし、死んだ後も気長に待つよりは外国に求めた方が早い」

 彼女が読んでいたその本は、現帝の読んでいた戎狄の国の詩集だった。国力として、揺籃の国は異教国よりも巨大だから良いが、異教国と逆側の国境を接する戎狄の国は少し弱い。故に執拗な侵略を受け、貧困に仰いでいると聞く。

 揺籃の国の国土はあまりに狭く、世界はあまりに広い。

 ロエルはトラーネの台詞に深く頷いて、

「戦争を通じて、蜃体を世界に膾炙する。それが現帝の大目標です」

「それを知って……あなたはどうしようと?」

「――俺は……」

 ロエルが告げようとした次の瞬間、どよめきが起こった。見ると、民衆のうちの一人が王に襲い掛かり、脇に控えていた兵士に取り押さえられたようだった。それを切欠に、広場には一触即発のヒリヒリとした雰囲気が漂い始める。

 その時だった。

「待て!」

 一人の男が、王と民の間に割って入っていった。その男は、紙の束を抱えて叫ぶ。

「私は空翠のアルガ、蜃体師争議のリーダーです! 現帝……我々は最早、かような傲岸ぶりには耐えられない!」

 その名乗りへの反応は、二つに分れていた。かつてのリーダーの再登場に顔を輝かせる者と、知らない名前に首をかしげる者――しかし、そのうちに、後者が前者の反応を見て信頼に足る人物なのだと確信し、アルガを応援するムードが群衆に染み渡っていく。

 アルガは大衆が味方についたと判断するや、紙の束を取り出し、現帝に突きつけて言った。

「こちらは……我々の最後通牒です。この町を我々の、我々による、我々のための、安全に健やかに住まえる場所として公認して頂くための、地方自治法の草案でございます。こちらを認めて頂き、群青の町の独立宣言を取り行いたい!」

 群青の町の独立……その響きは、熱狂によって絆されていた群衆の心を、続々と伝播していった。この町を国から取り戻す。ここは俺達私達の町なのだから!

 現帝はアルガから草稿を受け取り、じっとその内容を読み進めていく。この時間こそが、真に静かな時なのだとロエルは思った。居住区も繁華街も周縁区も工業区も、全てが物音を取りやめて現帝に肩を並べ、その時を待った。

「……なるほど、よくできている、が」

 やがて、現帝は、穏やかに言った。静かな語り口なのに、気味が悪いほどにその声は広場に、群青の町に明朗に通り渡る。

 そして、王は告げる。法文を掲げ、人を鼓舞する、堅強な声音で、確かな威圧を持って。

「本当にこれが総意だというのなら――民ら自身、全力で勝ち取ってみよ!」

 それは、紛れもなく宣戦布告だった。

 真っ先に剣を抜いたのは、現帝に最も近い位置にいたアルガだった。すぐさま王に切迫すると、その凶刃を躊躇いもなく突き出す。しかし、猛烈な勢いで飛び出してきた兵士が、その切っ先を弾いて王を庇った。そのまま、アルガと剣戟を交わし始める。

 アルガの勢いに浮いた民衆は、怒号を上げて王の兵団に突撃していった。

 戦いが始まったのだ。

「……来たか」

 ロエルは呟く。

 その、戦闘に剥き出しになった人々の身体からは、既に政治的な物語や仕組まれた好悪の感情も削ぎ落されていた。そこにあるのは、人々のどよもす純然なる抗いの轟きだ。この争議の始まりには各々の個人の立場があった、それが扇動によって一つに統合し、ここに於いてまた個別の死闘に変格した。

 本当に群衆が求めているのは、蜃体師の待遇改善でも、搾取層たるホメロの排斥でも、自治法の成立でもない。

 彼ら彼女らの求めていたのは、延々と流転し、緩やかに死に向かって沈殿していくような日常への、高らかな勝利に他ならない。

 その勝利というものが、全てお膳立てされた虚構フィクションでしかないのだとしても。

「……やります」

 次はロエルが動く番だった。これまで息を詰めて座視していたが、ようやく自分の手番が回ってきて、歓喜すら覚える。

「ロエル……」

 トラーネの憂愁に満ちた呼びかけに、ロエルは足を止めて振り返った。

「大丈夫。ちょっと間だけだから」

「――」

「……?」

 ホメロは話が見えずに、窺うように二人の顔を見比べる。

 それは、ロエルとトラーネだけが知っている、代償についてのやり取りだった。

「やるぞ、デグマ……」

 ロエルは車を出ると、感覚を裏返し、親光子の状態へと移行した。

 光子の鼓動に限りなく近づいた世界で、ロエルは凍り付いているようにしか見えないほど、ゆっくりと動く群衆の姿を見る。ここに於いては、王の軍も一般大衆の区別はなかった。物理の法則は万人に平等に降り注ぎ、ロエルだけがそこからはみ出ている。

 ロエルは人々の掲げる火の光を、次々と消していった。視界に入る限り、光源となる光子を押し止め消滅させていく。これによって、激しい酸化、つまり燃焼は続いているが、発光はしないという特殊な状態になる。

 それからロエルは、目につく街灯の光も全て落とし、完全な闇になったことを確認して、一旦、親光子状態を解いた。

 そこにいる人間にとって、その暗闇は理不尽にやってきたように感じられただろう。

 戦いのどよめきが、動揺の蠢きに変り果てた。突然の漆黒に慄き、何が起こったのかと不安に口走り、怯え切った誰かの悲鳴さえも上がる。

 ロエルですら、恐怖がないわけではなかった。文字通りの混沌の渦巻く巷を目前にして、手の震えを感じる。

 が、ふいに、温もりが、その震えごと包み込んだ。

「……トラーネか?」

「うん……」

「君が不安がってどうするんだよ」

「不安じゃない。怖いんだよ。どうしても、考えちゃうと……」

「言っただろ……心配してくれてるだけ、待つ甲斐があるさ」

 言葉を交わすだけで、怯懦に押しつぶされそうだった気分が、穏やかに解けていく。

 最早――闇など、恐れるに足らない。自分は光を操る蜃体師なのだから。

「ロエル……お願いします」

 ホメロの声は落ち着いていた。

「それじゃあ、デグマ……いや、教義ドグマ、やるぜ」

『あー、畜生、やったるよ! あと、その呼び方はやめろ!』

 再び世界は、蜃体を経由して反転する。

 ロエルは描写イメージする。


 ――始めに言葉ありき、言葉は神と共にあり、言葉は神であり、神は言葉であった。


 異教の国の神は、初めにこう言ったとされる。

「光あれ」

 すべての目に見える事物は光を返すことで自らの存在を訴えかけ、すべての目に見えない事物は光を透すことで自らの存在を影へと隠蔽する。異教国の教義では後者の代表は神と呼ばれ、揺籃の国では蜃体そのものである。揺籃の国の王法に於いて、蜃体とは神の賜わり物だ。この点を巡って、異教国との宗教的な軋轢が生まれ、争いが長い間続いているのである。

 だが、異教国との言い争いの本質は、あまり知られていない。

 王法は語る――蜃体とは神の身体の一部を賜ったものだ、と。そして、蜃体とは訓練を施せば誰でも見ることができる。

 異教国の沸点はここにある。

 神を見るとは、何事か。神とは無限の存在であり、人間風情がその不完全な眼で捉えることなどできない存在なのだ。神は言葉だ。確かに、我々は言葉を見ることなどできない。

 だから、蜃体は異教国の言うような神とは何の関わりもないと言える。父帝の施した狂言に過ぎない。ただ、それは蜃体を見、扱い、利用している、国と蜃体師の側からの意見だ。

 蜃体を見る訓練を受けていない民にとって、蜃体とはそれ自体が神秘的な存在だ。市井の人々は、目に見えないが確かにそこにいるらしいもの……という、ある意味「信仰」によって、その生活を築いている。また、世にいる蜃体師の大半は、蜃体を始めて見た時のことは細大漏らさず話せるという。

 蜃体を見るというのは、特殊な経験であるのだ。正しく、神を見たのと、同じような類の。

 ロエルはイメージした。

 無数の光子を集めて、並べて、構築して――群青の夜空に大蜃体デグマの身体を出現させた。

 父帝が初めて蜃体を見た時の驚きは、訝りは、慄きは、如何ほどのものだったのだろう。それを人に信じさせ、見させ、扱わせようとした時の、苦難はどれほどのものだったのだろう。

 かの偉大な開祖の驚愕を、この場にいるすべての民が体験する。

 人々は、夜空に浮かぶ大蜃体を見る。最初は何のことやらわからない。突如として訪れた暗黒に、煌々と光を放つ、謎の生物――短い前足と太い後ろ脚、平らな顔面に塗り潰したような眼球、尻まで届く細く長い耳。

『何で俺がモデルなんだよ、マジで』

「俺が蜃体をお前しか知らないからだよ」

 ロエルはそれを、デグマだと知っている。しかし、民衆にとっては未知の視覚だ。ただその視線を釘付けにすることしかできない。

 そこで群衆に紛れ込んだミュロが叫ぶ。

 ――し、蜃体だ! 蜃体だよ!

 ミュロは蜃体学校から卒業したばかりで、新品の蜃体師の制服を着ていた。驚いて彼の方を見た人は、彼の身分を知ったのち、その発言を信じるだろう。そして、燎原の炎の如く伝播していく。この場にいる全員が認めるのに、そう時間はかかるまい。

 あれが、蜃体なのか! と。

 やがて、夜空を彩る蜃体の姿をした光子は喋りだす。もちろん、ただの光が喋るわけがない。ホメロが風圧、空気圧を操り、町全体の地形を利用して声を作り、腹話術のように語らせるのだ。かつての孤独を慰めた、あの声で。

 その台詞はトラーネがホメロの耳元で囁く。その内容はこうだ。

「我はこの町そのものである蜃体である。この町は民と共に在り、国はそれを侵す権利を持たず、寧ろこれを輔弼せよ」

 現帝は顔の色を変え、側近にその一文字一句を間違えないように書き取らせ、この言葉こそが群青の町自治法成立の根拠となる。

 それがロエル達の仕組んだ、演出の全容――光と、音と、言葉の、モンタージュだった。

「こうして争議は解決を迎えて、輝く朝を迎える……と」

 ロエルは満足げに言い、デグマは皮肉めいた笑いを上げる。

『で、ここにいる一般大衆の方々が空を見上げるまで何年かかるかな』

 ロエルもつられて、似たような笑みを浮かべて、

「さぁね。十年くらいじゃないか?」

 光子に照らされた人々は未だ、闇の中で震えていた。光子に近づいたロエルの早すぎる体感時間では、鍾乳石が長く伸びていく過程のように、遥かに長い年月をかけてロエル達のデザインした大団円へと向かっていくのだろう。

「腹も減らないし、老化もしない。これは一種のユートピアなのかもな」

 ロエルは陶然と呟く。


 ロエルだけに課されたこの代償に、トラーネはいみじくも目敏く気付いた。

 一連の予行練習が現帝の軍の陣営で済んだ後、出発まで少し時間が余っていた時に、ロエルはトラーネに呼び出された。

「ねぇ……さっき、最後のだけうまくいったけど……もしかして、ずっと光子の状態でいたんじゃないの?」

 ロエルは何故だか、背徳感を抱いてしまったが、そんな必要もないのだとすぐに思い至る。

「あぁ。何だかんだで、そうするのが一番だった」

 親光子の状態を解くと、ロエルは光子にタッチできなくなる。その場合、光子たちは解除される寸前の運動を保存し、霧散していく。

 光で作ったデグマの形は、例えば、口の動きなどと言った動作がなければ、一瞬ならともかく少しの間の演出すら堪えなかった。紛い物のようにしか見えないのだ。リアリティを出すために、ロエルは親光子を解除する一瞬間で、その後の動作を仕込んでみたりもしたのだが、これの制御が非常に難しくて、ホメロの作る声とうまく同期しない。

 何度も失敗を重ねた。で、結局のところ、ロエルが演出が終わるまで、親光子の状態でいるしかないのだいう、結論に達した。

 極端に時間の流れが遅ければ、例えばホメロの身体の力の入り具合などを具に見て、適当にデグマの口の形を変化させるだけで、普通の時間感覚で見れば完全に同期していると評価されるのだった。

 折角、動き出した作戦を止めたくなくて、ロエルはこの事実を黙っていようと思っていたが、トラーネはそのことに気が付いたのだ。彼女だけが、光子などといった素粒子の世界では、時間も空間も実は伸び縮みするのだということを知っていたから。

「じゃあ、さっきの練習は、ロエルにとってとてつもなく長い時間に感じたってこと……」

「そうだな。めちゃくちゃ久しぶりに君と話してる」

 どれくらいの時間がロエルの中で流れたのか、時計がないからわからなかった。

 トラーネは泣きそうな顔になって、

「それまで、ずっと一人で……?」

「デグマもいたさ。本当は超速く走れば、時間感覚は普通の人に追いつくんだろうけどさ、こいつが疲れちゃうから待つしかないんだ」

「どうして……どうして、そんなに平気そうでいられるの!」

 上ずった声で叫ぶと、トラーネはロエルの肩を掴んだ。

「下手したら何千年も孤独だったかも知れないんだよ! それなのに、どうして!」

「……今、君と話せていて、嬉しくてたまらないからだ」

 言ってから、ロエルは自分が気丈に振る舞っていただけなのだと知る。

 はっとしたように、トラーネはロエルの目を見た。その瞳には涙が溜まっている。ロエルはその雫の輝きを美しいと思った。

「これ以上の嬉しさを感じられるなら、もう一セットやっても、全然良い気がしてきたところだ。それも、次は……涙じゃなくて、笑顔でいてくれると思ったらさ」

「……!」

 トラーネはばっとロエルから身を離すと、背中を向けて涙を拭った。

 それから、勢いよく振り向くと、何かを徹底して誤魔化すような圧力で、言い放つ。

「わかった! この劇が終わったら、いっぱい話そうよ! それで、いっぱい本読んで、いっぱい勉強して、いっぱいいろんなもの食べて、いっぱいいろんなところに行こう! 何でもしよう! だから……頑張って……待ってて……ね……」

 ロエルは思わず、トラーネの身を抱き寄せた。

 愛おしい温もりを、艶やかな髪の柔らかさを、ふわりと漂う香りを、抱き返してくる心地よさを、身体全てで感じきる。

 そして、その唇も。初めて出会った時と、少しも変わらない味がした。

「ああ……何万年だって待つさ……」

 自分の震える声を聞いて、自分の裡に激情が溢れていることに気が付く。

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