第44話 ありがとう

 夕食の松茸ご飯を日菜は犬みたいにガツガツ食べていた。咀嚼する度にうまいうまいと言って目を輝かせた。


 満たされた腹を小休憩させて、風呂に入る。先に私、後に日菜という順番。日菜曰く「わたしお風呂長いからさ」らしい。それが今の私には丁度よく、たっぷりと時間を使って考える。


さっきの、なんだったんだろう」


 まるで嵐のような出来事。暗闇の中、日菜は私とキスをしようとした。失敗したけど。


 日菜は私に体を預けて、好きにしていいと言った。失敗したけど。


 私の失態がなかったら、今頃私たちは風呂に入ることも忘れて、まだベッドの上にいたのだろうか。ベッドの上で、私たちはどんな顔をして、どんな声を上げていただろうか。


「おおおお」


 枕に顔を埋めて悶える。人に聞かれたら絶対笑われるとお墨付きをもらった奇声をあげて足をバタつかせる。


 しかし冷静に考えてみると、どうして日菜はあんなことをしたんだろう。


 私の好意を受け止めてくれた? それなら嬉しい。だってそれは私の願いが叶ったということで、だけどどうしてか私の心は満たされない。それはきっと、日菜の気持ちを聞いていないからだ。


 そもそも、私は何がしたいの? 日菜に気持ちを伝えるところまでは来た。私のしたかったキスだって、おそらく頼めばまたしてくれるんだと思う。だけど、それだけ?


 私はキスがしたくて、日菜に告白をしたのだろうか。


 違うと言い切るには自信が足りないが、肯定するにも納得がいかなかった。


 私の好きという気持ちに、日菜は言及をしなかった。無言で、ただ体を許した。それがいやに不気味で、不安になる。


 何もかもが上手くいくことなんて、この人生という土俵では決してあり得ない。必ずどこかで妥協というものが必要となり最低限、自分が頷ける事柄だけかっさらって望み通りにいかなかったものは仕方がないと切り捨てるのも肝心だ。


 私は日菜に気持ちを伝えることができた。それによって日菜が私から離れていくことはなく、こうしていつもと変わらず近くにいれている。それが私の1番の望みであったはず。


 だから、相思相愛、両思い。そんな円満な関係を望むのは欲張りというもの。


 きっと、日菜は無理をしている。私に気を遣って、必死に取り繕うとしている。


「やーいいお湯でした」


 タオルを頭に巻いた日菜が戻ってくる。ベッドの上でうつ伏せになっていた私はいそいそと体勢を整えた。


「ドライヤー借りるね」

「うん」


 私の家にくるのは二度目だからか、日菜は慣れた様子で化粧椅子に腰掛けた。


「ねぇ、日菜」

「なに?」


 日菜と目が合う。その瞳の奥には、なにを宿しているのだろうか。


 あまりにも普段通りの日菜の振る舞いに頭が混乱する。もしかして先ほどまでの体験は全て夢だったのではないだろうか。そう思ってしまう。


 だけど、赤くなった日菜の唇が、私を現実へと叩き落とす。逃げるな、全部事実だと。言うように。


「なんでもない」


 結局私は、聞くことができなかった。


 もしかしてこの先ずっと、このままなのだろうか。前に進んだと思っていたけど、実のところ私はコンベアの上を歩いていただけで、進んでいると錯覚しているだけなのではないだろうか。


 その後も、他愛もない話をして、時計が12時を回ったので電気を消して布団に入った。


 今回は日菜の分の布団は用意しなかった。というのも日菜が何も言わずに私の方に潜り込んできたからだ。


 2人で隣合わせ、肩が触れる距離で仰向けになる。1つの布団を共有しているため左手が外に出て寒い。


 眠るのだろうか。確かに、体育祭で疲れているから、目を瞑り続ければ意識が沈むのにさほど時間は要さないだろう。だけど、眠りたくなかった。


 ここで寝てしまったら、ずっと日菜の気持ちが分からないままで。あぁ、そうかと私は初めてそこで気付く。


 私は、日菜に好きになってもらいたいんだ。私だけの一方的なものではなく、日菜からも求められるような、そんな関係に、なりたかったんだ。それがどれだけ難しいことかは自分でもよく分かる、だからこそ、私が気持ちを伝えたのは時期尚早だったのではなかろうかと不安になる。


 何度も同じことを思って、勇気を出して、後悔する。堂々巡りの自分の思考に食傷気味になってくる。多分、これこそが停滞なんだと思う。私は前に、進めていない。


「ねぇ結芽」


 静かだった日菜の口から、私の名前が紡がれる。


 驚いて体を硬直させながら、応える。


「なに?」

「キスはもういいの?」

「・・・・・・・・・・・・」

「もうムードもへったくりもないもんね。唇まだヒリヒリするし」


 振動が伝わってきて、日菜が笑っていることが分かった。


「うーん。ね、結芽はわたしのこと好きって言ったよね?」


 来た、そう思った。ドクンドクンと心臓が不快な跳ね方をしはじめる。


「じゃあさ、付き合いたいって思う?」


 天井を見たまま、私は答えた。


「う、うん」

「恋人同士ってことだよ?」

「ん」


 仰向けだから頷くことができず、小さく声を途切る。


「それが結芽の望みってことで、おっけー?」

「そう、だと思う」

「そっか」


 もぞ、と布の擦れる音。日菜が体勢を変えて横向きになる。


「じゃあさ、私の望みも聞いて貰っていい?」

「え、日菜の、望み?」

「そう。わたしの望み。お願い」


 なんだろうと脳内をかき混ぜてみる。ガラクタを漁るように、かき混ぜる。だけどやっぱり、ガラクタみたいな考えしか浮かんでこない。当然だ。日菜の一挙手一投足。口にする全ての発言に怯えて、体を竦ませているようじゃ有益な思案は浮かばない。そんな私に日菜は。


「笑っててほしい」


 自身も笑いながら、そう言った。


「結芽には、笑っててほしい」

「そ、それって、どういう」

「んー、っていうのもね、結芽がわたしのこと好きで、恋人同士になりたいていうんならそれでもいいかなって思うんだよね。わたしも結芽のことは好きだし、そういうことしたいって言われてもきっとわたしは拒まない。でもね、そのせいで結芽が笑ってくれないなら、わたしは結芽の気持ちを受け止めることはできないし、したくないかな」


 冷徹に放たれた言葉は私の指先からゆっくりと内部を凍らせていく。


「気持ちを伝えてくれたのは嬉しいけどさ。さっきから結芽、一回も笑ってないよ」


 自分の顔を触る。凹凸のない、平面。指を掴むしわなどありはせず、生気を感じられない。まるでお面のようだ。


「ゆっくりでいいんじゃない?」


 日菜が言う。


「わたし、どこにもいかないよ?」


 あ。


 心の中で、何かが弾けた気がした。


 追いかけるように、縋るように伸ばした手。前へ前へとつんのめり、悪夢の中のように上手く歩けずもつれる足。それは、日菜が私から離れていってしまうという恐怖からくるものだった。


 でも。


「なんてね、ちょっとカッコつけちゃったかな」


 日菜がずっとそばにいてくれるなら。




「一応わたしもさ、その。女の子同士っていうのはよくわからないけど、頑張るからさ。お互い、ゆっくりやろうよ。わたしたちはわたしたちらしく」


 私の望みは日菜との恋人関係。そして日菜の望みは、私に笑顔でいて欲しいというもの。


 どちらも根底にあるのは、一緒に居たいという気持ち。それは姉妹のようで、家族のようで、犬と、飼い主のようでもある。


「いいの?」

「うん?」

「私と一緒に居てくれるの? 私、日菜のことそういう目で見てるんだよ? 普通に遊んでる時も、学校で授業を受けている時も、ずっと、ずっと!」

「いいよ」


 当然とでも言うように、日菜が間髪入れずに答える。


「その代わり、結芽は笑っててね。ずっと、わたしの隣で」

「ひ、日菜」

「はい笑って」


 頬をぐにっとつねられる。外側に引っ張られて「ほふぁふぁ」と声にならない。


「おー伸びる伸びる」

「ひふぁ」

「あはは、ごめんごめん」


 日菜は私から手を離して、ベッドの上に正座をしていた。


「お餅みたいだった」

「もう」


 だけど、表情筋がなんとなく、凝りがとれたように軽く感じた。それは今、日菜の手によって解されたからか。それとも、目の前で笑う日菜自身によるものか。きっと、後者だと思う。


 ずっと忘れていた感覚が蘇る。


 私は確かに日菜をずっと好きで、そういう目で見てきた。だけど、それだけだっただろうか。


 私が日菜と居て、最初に感じたもの。1番多く思ったこと。それは確か、楽しいという感情ではなかっただろうか。


 日菜を家に泊めて、一緒に電車に乗って、走る練習をして、靴を買いに行って、日菜の家に遊びに行って、栞ちゃんと陽太くんとも仲良くなって、体育祭でお弁当を食べて、日菜と勝利を分かち合って、私は。


 楽しかったんだ。


「さてと、どうする?」


 改めて、日菜が聞く。


「さっきの続き、する?」


 それは、とてもいい提案だった。甘美な空気が鼻の先に触れ、先ほどの記憶を呼び起こす。風呂に入ったからか、日菜から一層いい香りがする。まだ水分の残った艶やかな髪と潤った肌。なにもかもが官能的で、だけど私は。


「ううん」


 首を振った。


 それはまだ、いいかなと思った。いつかはしたい。だけど、今は日菜の隣にいられることの幸せを感じたい。日菜といる時の、楽しさを思い出したい。


 私の返答を受けて日菜は。


「じゃあ」


 立ち上がった。


「マリパしよっか!」


 ふんすと鼻を鳴らす。本当にそれこそ、ムードもへったくりもなくて、私はつい笑ってしまう。


 あ、笑った。そう、日菜が言った気がした。自分の顔を撫でてみると、凸凹だらけで指がしわに捕まってしまう。ひどく生気に溢れた、懐かしい感覚だった。 


「やろうか」

「よしきた、またぼこぼこにしてあげる!」


 日菜が先にベッドから降りて、私を手招く。


 不敵に笑い、リングでライバルを待つプロレスラーのようだった。この例えを日菜に聞かせたら、怒るだろうか。それを想像しただけでも頬が緩んでしまう。


 前に進むことは、まだ出来なかったけど。日菜に前に進む方法を教えて貰った、そんな気がした。


 日菜の隣を、今は精一杯楽しもう。そうして、いつか、日菜に好きになってもらえるように私も頑張る。それまでは、日菜の言う通り笑っていよう。


 ようやく見つけた私の気持ちの行き先。ずっと悩んで、悩み続けて出来上がった氷塊が日菜の温もりによって溶けていく。


「ねぇ、日菜」

「ん? どしたの?」


 暗闇で、スピカのように輝く瞳を見る。確か、そうだ。思い出した。春の大三角形、最後のひとつは、アルクトゥールス。


 私もきっと、いつかあのアルクトゥールスのように大きく、強く。日菜というスピカの隣で輝いていけたらなと思う。


 だから私はこれまでと、これからの思いを乗せて、日菜に伝えよう。


 ベッドから体を起こし、電気の紐に手を掛ける。


「あのね」


 そうして私は。


 明かりを点けて、ありがとうと言った。

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