第43話 飛んでった!

「と、隣って。えっ?」

「はよはよ」

「う、うん」


 暗闇の中、微かに見える日菜の輪郭を頼りにその隣を探した。腰をかけて、ギシ、とベッドが軋む。


 肩が触れ、体が跳ねた。全身の毛が逆立ったようで、背筋を張ったまま固まってしまう。


 視覚が当てにならないこの部屋で、自然と耳に神経が集中する。布が擦れる音。息づかい、時折聞こえる喉を鳴らす音。鼻をすすって、足を動かすだけでも聴覚は反応する。


「結芽」

「はひゃ」


 耳元で囁かれた声は骨を伝導して全身に重く響いた。鼓膜がぷるぷると震えている。


「じゃあ、その。キスしよっか」


 肩に手が添えられる。鼻先に日菜の髪が触れて、ようやくすぐそこに日菜がいるということを頭で理解する。


「だいじょぶ。二回目だしね」


 それは寝ぼけてた時の話でしょ、なんて冗談じみた返しができればよかったのだが、それほどの冷静さがあったらきっとこんなところで目を回してはいない。


「目、閉じて」


 日菜が喋ると、熱が顔に当たった。香る柑橘系の匂い。フレッシュで、爽やかな、だけどこの状況は甘く、甘く甘く。溶け出してしまいそうなほど甘ったるい。吐息が形を持っているかのように粘っこく感じる。


 体に疎外感を覚え、夢か現か分からなくなる。くらくらと現実から乖離する度に、日菜の囁く声に引き戻された。


「・・・・・・ん」


 日菜の唇が夜目でも見えるほど近くなる。


 鼓動を走らせながら私も覚悟を決めた。なんていうと聞こえはいいが、秘めているのは切望。求めていたものが手に入る幸福感とこれから行われる行為への期待感だった。


 唇が、隣接した。一定の距離で止まる。


 どちらかが少し顔を前に出せば接触する。


 日菜は動きを見せない。私を待っているのだろうか。でも、私からキスだなんて、そんな恥ずかしいことできるわけがない。


 日菜にはして欲しいのに、自分ではしない。なんて、姑息なんだろうか。


 一度目を開けると、日菜も私を見た。羞恥で逃げるよう再び目を瞑る。


 いや、だめだ。


 これは私からするべきだ。


 日菜はきっと待っているのだ、私が前に進むのを。この関係は、前に進まないときっと成り立たない。


 あぁいやでも私が日菜にキスだなんて。そんなの妄想限定のものだと思っていた。でも、え? していい、していいの?


 欲望と常識の取捨選択もうまく行かないまま、半分勢い任せで私は唇を近づけた。


「ぶふぉ」

「あいだっ!」


 ゴチン! と衝撃が走った。頭の中がチカチカして前歯の痛みに耐える。


「ぐおおおおお」

「ひ、日菜っ」


 ベッドの上で日菜が悶えていた。


「だ、大丈夫? あっ、血! 日菜、血が出てるっ!」

「ほ、ほんとだ。めっちゃ出てる! 止まんない!」

「なんとかしなきゃ・・・・・・あ、そ、そうだ。吸おう。私が吸うからっ」

「結芽、ちょっと落ち着いて!」


 そ、そうか。一度落ち着こう。落ち着いて。いや吸うって何言ってるんだ私! いや吸いたいけど今はそんなことよりも日菜の血を、でも止める手段なんて。止まるまで、やっぱり吸うしかないよ! 人の唾液には傷口の治癒を促す成分が含まれていて、だから。


「わー! 垂れてきた! 結芽、ティッシュティッシュ!」

「あっ、そっか!」


 私は急いで床にあったティッシュを吸って、じゃなくて手に取って日菜に渡した。


「おおおう」

「大丈夫?」

「痛くはないからだいじょぶ。でも血が止まんない」

「ご、ごめん」


 意気消沈した私の隣で、日菜はそれから10分ほど唇を押さえて唸っていた。



 日菜がベッドに横たわる。


「キスは、また今度にしよ。よいしょ」


 仰向けになって、両手は頭の横。片足だけ曲げて、私を見た。


「いつでもいいよ」

「いつでもって、な、なにを」

「キスの先」

「ほへ」


 口から空気が抜ける。


「それとも逆がいい? 私が上になろっか?」

「い、いいっ。いや、いいやいいよぉえ」

「なんて?」


 手のひらに汗がじっとりと滲む。息が荒くなるのを自覚して、抑えようとすると息苦しくなってぼーっとする。


「日菜は、いいの? だって、こんな」

「へいへい結芽。わたしギャルよ? ギャルは軽いの。軽い女なの」


 そう言って日菜がおどける。だけど、小さく指が震えているように見えたのは気のせいだろうか。


「ど、どうすればいいか分からない」


 なんて、情けないことを言う私。


「結芽が触りたいところからでいいよ」


 日菜は開放的な姿勢のまま動こうとしない。全てを私に任せるとそう言うように。


「じゃ、じゃあ胸からっ!」


 自分でもびっくりするくらいの大きな声が出る。バッ! と入り口のほうを見るが当然誰もいない。いないけど、こんなところ親に見られたらどうなってしまうんだろう。想像するだけでも気が遠くなる。


「はは、うん、どうぞ」


 生唾を飲んで、日菜の胸に触れる。自分の意思で。日菜の許しを得て。偶然当たったとかではない、これはそういう行為。指先が振動する。ゾンビのようだった。


 触れるか、触れまいか、迷っているとあまりの緊張からか腕がビクン! と痙攣して日菜の胸に指が埋まるように接触した。


 弾力に押し返され、自分の指をじっと見つめる。


「おおおおおおお」

「結芽、前も言おうと思ったんだけどその声ほかの人に聞かれたら笑われるよ」


 そう言いつつも日菜も目を細めて肩を揺らしていた。


「ぬ、脱がしてもいい?」

「早いね!?」

「み、見たい。日菜の、あれ」

「あれって言わないで」

「ごめん」

「いいけどね」


 どうぞ、と日菜は上着をはだけさせる。


「わ、私が脱がせてもいい?」

「なんか結芽変態っぽい」

「うぐ」

「いいよ、脱がせて」


 日菜の了承を得て、ブラウスに手を掛ける。


 指先が寝起きの時みたいに力が入らない。上手く動いてくれない指を必死に制御する。ボタンを掴み、握りしめ、鷲掴みにして外そうとする。


「あ、あれ」


 外れない。ブラウスを脱ぐのなんて今まで何千回とこなしてきたことなのに、赤ん坊のように手元がおぼつかない。


「結芽、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」


 日菜に、そして自分に言い聞かせて、指先に力を込めた。


 ブチィッ!


「へ?」

「は?」


 すごい音がした。何かがちぎれるような、引き裂かれるような。明らかに場にそぐわないものに私も日菜も目を合わせて固まる。


 見ると、日菜のブラウスから2つの紐がびよよ~んと伸びていた。


「ボタンが飛んでった!」

「ウソでしょ!? どこどこ!」

「く、暗くてわからない」

「電気点けて電気! 予備のボタンもうないんだから!」


 急いで電気の紐を引っ張って辺りを探す。


 ベッドの下に潜り込んで、布団を引っぺがす。埃が舞ってくしゃみが出た。


「ど、どうしよう、見つからない!」

「ええいベッドシーツ全部めくって! 枕も!」

「う、うん。って、あ。日菜! 血! また血出てる!」

「え? うわほんとだ騒いだからまた切れたんだ! ティッシュティッシュ!」

「あわわわわわわ」


 ティッシュはどこ、ボタンはどこと右往左往。


「夕餉作ったけ食っていきなせ」


 スッと扉が開き、見るとお婆ちゃんがおぼんを持って立っていた。


 唇にティッシュを当てて、ボタンがひとつないブラウスを着た日菜が私を見る。その様子がシュールでおかしくて、目が合うと日菜はフガフガと老人みたいに笑ってみせた。

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