第40話 宿るもの
日菜と打ち上げを抜け出すことになった。
日菜が先に幹事の人に話をつけていたのでグラスを片付けようと席を立つ。と、その拍子にある人物と目が合った。
佐藤いちか。以前私に説教じみたことを聞かせてきたよく分からない人物。あれから彼女には苦手意識のようなものを持ち、なるべく関わらないようにしていた。しかし目が合ってしまった手前、何も言わずに帰るというのも不躾な気がして私は先に帰るという趣旨だけ伝えることにした。
「そうですか」
佐藤さんは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに子供みたいに破顔して言った。
「日菜ちゃんも一緒に」
「うん」
会話はそれだけ。出口で日菜がこちらを見ていたので私もそちらへ向かう。
「日菜ちゃんを、信じてあげてくださいね」
背後から聞こえたその声は、誰かの歌声に遮られながらも、しっかりと耳に届いた。
店を出て、他愛もない話をしながら2人並んで歩く。
なんだろう。二人っきりで帰るのがすごく久しぶりな気がした。実際にはそこまで久しぶりというわけではないのだろうけど、多分私の心の中で日菜と距離が空いた気がしてそういった感覚に陥ったのだと思う。
屈託のない笑みで、私の脇腹を突く日菜。スタイルについて言及すると、日菜は喉になにか詰まったかのようにぎこちなく言った。
「うん、頑張るよ。頑張るぞー」
頑張る。今まで日菜の口からは出なかった単語だ。出なかったというよりは、日菜が意図的に避けていた、そんな単語。だけど、今日だけで日菜は何度も頑張るという言葉を使った。
それは、前に進んだ証拠でもあり、日菜という人間が変わった裏付けでもあった。
現状維持を望んだ私とは真逆の方へと進んでいった日菜。だけど、日菜は笑っている。今までよりもすごく、晴れやかに。
私もあんな風に幸せに満ちた表情を浮かべることができるだろうか。
あのカップルのように、好きを伝えられるだろうか。
『気付いたときにはもう手遅れで、きっと、きっと後悔します!』
以前言われた佐藤さんの言葉を思い出す。
日菜はきっと、この先どんどん前へ進んでいく。不安や恐怖に立ち向かい、自分の世界を広げていく。
男なんてもう知らないと嘆いていた日菜も、いつかその過去も克服して誰か好きな男を見つけるかもしれない。
そうしたら、日菜の隣に、私はいられない。もう私の隣に日菜はいないし、日菜も私を必要としなくなる。
ゾワ、と背筋が冷えた。
まるで自分が死んでしまうような感覚に苛まれ、孤独と焦燥感に押しつぶされそうになる。
やだ、そんなのやだ。いかないでと手を伸ばしても、私よりも先に進んだ日菜にはきっと届かない。
怖い。
怖い。
やだ、だめ。そんなのダメ!
いやだいやだいやだ!
日菜が誰かと付き合って、手を繋いで、愛し合って、体を重ねて。
吐きそうになった。あまりにも恐ろしくて意識が奈落の底に墜ちていきそうになる。
気付いた時には、もう、手遅れ。
不透明だった言葉に、色がついて、現実味を帯び始めた頃。私の手は震えて、歯がガチガチと打ち合って音を鳴らした。
「私の家、来ない?」
努めて冷静に、悟られないように日菜に提案する。
言わなきゃ。
私は別に、前に進もうとか成長しようとかそんな前向きな思想欠片もないが、現状維持などという考えが甘えだったということに気付き日菜を視界に捉える。
私が先に進もうが、その場に踏みとどまろうが、そんなの関係ない。日菜はどんどん私の知らない世界へと消えていってしまう。
ここで別れてしまったら、もう二度と会えない気がして。私は必死に日菜を説得した。
「別にいいよ?」
気の抜けたような日菜の声に一度は安堵するもそれじゃダメだと言い聞かせる。
伝えなくちゃ。日菜に。
だけど、怖い。
日菜みたいな勇気は私にはない。
「あ、手繋ぐ?」
冷えきった思考の世界に光りが射す。孤独な私の手に確かな温もりが触れて、驚きと安心が混じって変な声を出してしまう。
日菜と喋る度、日菜に触れる度、もう離れたくないという想いが強くなり、私の中の決心を形づけていく。
これが、勇気というやつなのだろうか。
もしそうなのだとしたら、私は大好きな日菜からそれを分け与えられているということになり、好きというのはどうしてこんなにも強い感情を生み出せるのか一種の感心のようなものを抱いた。
日菜が走り出した。
私の手を引いて、前へ進む。
日菜の背中を見ているばかりで、私はなにもできない。だけど距離は空かず、時々日菜が振り向いてくれる。日菜は1人でどこかへ行こうとはしなかった。
『日菜ちゃんを、信じてあげてくださいね』
佐藤さんの言葉が、風に乗って私の耳を撫でた気がした。
・・・・・・なんだかんだで、私は佐藤さんの言葉に助けられている。人の繋がりなんて自分の望むもの以外は不要だと思っていたが、案外、そうでもないのかもしれない。
一番日菜を信じてなかったのは、きっと私だ。
本当の気持ちを伝えたら嫌われてしまう。拒絶されてしまう。そんなことばかり考えていた。
しかし、私の好きな人は果たしてそんな人だっただろうか。人を平気で引き離すような心ない人だっただろうか。人の言葉に向き合おうとせずに逃げる弱い人であっただろうか。
「結芽、ほら! 速く!」
「わっ! ちょっと、日菜が本気で走ったら私がついていけるわけないでしょ!」
「ほらほら、頑張って頑張って! あはは!」
そうして、私は追いつけるはずもない日菜の背中を追いかけた。
絶対に日菜を見失わないように。この手を離さないように。
「が、頑張るぞ」
先ほどの日菜のように、ぶっきらぼうなかけ声。だけど不思議と自信と、勇気が宿る。
言おう。日菜に。
好きを伝えよう。
繁華街を過ぎて、路地を駆ける。
私は前のめりに、転びそうになりながらも、震えた足を前に踏み出した。
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