第41話 スピカ

 カウントがゼロになったら言おうと思う。


 さん、に、いち。


「あ、見て見てあの星座。なんていうんだっけ? 北斗七星? すっごい綺麗」

「あれはスピカ。春の大三角形って授業で習ったよ」

「大三角形って夏だけじゃないんだ。へぇー、もうふたつはなんていうの?」

「確かデネボラと、アルク、アルク・・・・・・なんとか」

「結芽も忘れてるじゃん」

「星座なんてそこまで興味ないし」

「だよね」


 手を繋いだまま、透き通った夜空を見上げる。そこかしこに光があって、大きいものや小さいもの。中には肉眼で見ることが困難なほんの微かな光もある。


 もし私たちが星だったとしたら、きっと日菜はスピカで、私はあの小さく消えてしまいそうな名も知らない星だ。強く輝いて、星と星を繋ぐ大三角形。私はそこに入ることはできずに遠くで指を咥えて見ているだけ。


 というわけで、カウント再開。ゼロになったら日菜に伝えよう。


 さん、に、いち。


「あ! 犬だ! おーよしよし」

「ちょっ、日菜。人の家の犬をそんな勝手に・・・・・・」

「撫でるくらい大丈夫でしょ。あはは、舐めてきた。めっちゃかわいいー」

「か、噛まれない?」

「噛まないよ、ほら。あ、もしかして結芽って犬苦手だったりする?」

「昔お尻を噛まれた」

「そうなんだ、へー。・・・・・・がぶっ!」

「ぎゃあ!」


 突然お尻に走った痛みに濁点混じりの汚い悲鳴をあげてしまう。跳ねて、道路の真ん中まで逃げて振り返ると日菜が手をワキワキとさせて笑っている。


「ふふっ、結芽のお尻食べちゃうぞ」

「・・・・・・日菜」


 じっと睨みつける私に、ケタケタと笑う日菜に、状況が分かっておらずとりあえず尻尾を振っている犬。


 また、言いそびれてしまった。


 こんな調子のまま、私たちは電車に乗り込み、最寄りの駅に降りる。


 カウント制はやめて、そう、今度はあの電柱を過ぎたらにしよう。そしたら、言おう。


 2人で、歩き、今度はなにも起きずに、目印の電柱を過ぎる。


 よ、よし。


「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 ――言いそびれた!


 もうすでに3つも4つも先の電柱にまで来てしまいじゃあ次のにしようと思うも、きっと同じ結果だと見え透いていたのでその提案は却下した。


 なにしてるんだろう。私。


 日菜に話しかけるのって、こんなにも難しいことだっただろうか。


 言うと決めたのは自分なのに、自分で決心がつかない。不法投棄されたゴミのように私の言葉が風に乗ってどこかへ転がっていく。車の通る音とカエルの輪唱。夜道はいつもと変わらず賑やかで、一層私の焦りを煽った。


「ねぇ結芽」


 カエルの鳴き声が、鈴虫の綺麗なものに変わった時。それよりも綺麗な日菜の声が私の耳元で囁かれた。


「公園、寄ってかない?」

「え?」


 私の家はもうすぐそこだ。それなのに、どうして寄り道なんてするのだろう。


「いいけど」


 それでも断る理由なんてあるはずもなく、私は日菜に付いていく。


 電灯1つの、小さな公園。シーソーに滑り台、撤去されたブランコの残骸と地面に埋もれて顔を半分出したタイヤの遊具。どれも私たちが遊ぶには小さすぎて、近くのベンチに腰を下ろした。


「結芽ってコーヒー飲める?」

「うん、ブラック以外なら」

「だと思った。ちょっと待ってて」


 そう言うと日菜は近くの自動販売機に走って行き、ガコンという音がすると缶を2つ持って戻ってくる。


「はい、私の奢り」

「あ、ありがとう」


 1番甘いカフェオレを受け取り、日菜は微糖と書かれた缶コーヒーの蓋を開けて口を付けた、私も続いて喉に流す。糖分と温かさが染み渡り、冷徹に呑まれていた心を解凍していく。


「やっぱりコンポタにすればよかった」

「なんでコーヒーにしたの?」

「なんかかっこいいじゃん。コーヒーって。大人の女ってカンジで」

「そう、なのかな」


 大人って、そもそもなんなんだろうか。苦いものが飲めたら大人? それとも、苦いものが飲めなくても、見栄を張って自分を着飾れるのが大人? 苦手なものから逃げて、甘いものに縋るのは、子供? 分からない。


 ふぅ、と息を吐いて、日菜が再び空を見上げた。星を、見ているのだろうか。


 光が反射して、日菜の瞳が煌びやかに夜に浮かぶ。それはまるで流れ星のように、上から下へ。星空から私へと落ちていった。


「結芽、わたしになにか言いたいことあるんじゃない?」

「ぶっ」


 含んだコーヒーが口の中で破裂した。外に出るのを抑えてなんとか飲み込むも、急な異物に喉が受け付けず気管に入る。ゲホゲホとむせて、胸を撫でる。


「おっ、もしかして当たり?」

「ど、どうして分かったの」

「顔」


 私って、そんなに分かりやすいのだろうか。いつもいつも、顔で思考を読み取られてしまう。


「それって言いにくいこと?」

「えっと・・・・・・それは」


 今? 今じゃないんだろうか。言うんだとしたら。だけど、私はもしかしたら日菜を裏切ってしまうことになるかもしれない。私が悩みを抱えているのだと思い寄り添ったら、異常性の振りきった好意を向けられて、日菜はどう思うだろうか。


 口を開けども、あの、とか。えっと、だとか。言葉にならない雑音しか出てこない。そんな私を見て、日菜は、ぽつりと溢した。


「わたし、もう人と付き合うのが怖い」


 脈略のないセリフに、私は一度首を傾げ、しかし記憶と耳の感触で、それは既に聞いたセリフであることを理解した。


「あの日わたし、言ったよね。人と付き合うのが怖いって。あいつに振られて、誰も信用ができないって。わたしだけが好きになっても、わたしが相手の理想からかけ離れた女だってバレた瞬間に関係を断たれるのが怖い。誰にでも好かれるような人間じゃないからさ、もう一期一会の出会いなんて信用できなくて、もう誰かと付き合うなんて嫌だって。覚えてる?」

「うん」


 覚えてる。あの日、あの夜。私たちの距離が近づいて、それと同時に、ブレた日。


「あの時ね、わたし泣いてたんだよ? 悲しくて、寂しくて辛くて。気付いてた?」

「それは、ごめん。気付いてた」

「だよねー。ダサいなーわたし」


 あははと笑って、缶コーヒーを口につけるが中身は空のようで、開きっぱなしの口が代わりに言葉を紡ぐ。


「泣いてたわたしを、結芽は慰めてくれたよね。辛かったねって撫でてくれて、一緒に遊んで楽しかったって言ってもらえて、わたし嬉しかったんだよ。すごく。大げさかもしれないけど、わたしは確かにあの日、結芽に救われたんだ」

「日菜・・・・・・」

「だからさ、うーん。なんだろうね。お返し? お返しさせてよ。わたし結芽にもらってばっかりだから。あ、コーヒーはノーカンでいいよ」


 泣いていた日菜。机に突っ伏して、上げた顔は寂しげに、脆く、壊れそうなほど儚くて。縋るように人の温もりを求めて、それはまるで、私の映し鏡のようだった。


 一緒だ。私と日菜は、一緒なんだ。


 人も自分も信じることができなくて、足がすくんで動けない状況。真っ暗で足元すら見えない虚構の世界にひとつ、形を持った確かな救いが現れるのを待っていた。


「わたし、言ったでしょ。付き合うなら、結芽がいいって。結芽となら楽しそうって。わたしは結芽の隣をあの日、きっと選んだの。今日だって、クラスの子たちよりも、結芽と一緒にいたいって思ったんだよ? ここが、わたしの居場所なんだって思ったから。勝手だけどね」


 違う。日菜。私の隣は淀んでいる。純粋な空間などすでに朽ちていて、在るのは境界線の向こう側から放たれた偽物の温もり。私たちという星を破壊する宇宙線。


 私は1人。健全の対局に居座る異分子で、誰からも理解されず、この問題は孤独に、誰の手も借りず解決すべきもの。それなのに。


「だから、わたしの隣でさ。そんな辛そうな顔しないでよ」

「ひ、日菜・・・・・・」


 口を制御する筋肉が融解するように垂れていき、唇が震え、喉が震え、声が震える。


 子供が泣きじゃくるようだった。


 色濃くなった境界線の上を、私は跨ぐ。


 何度も何度も口にしかけて、だけど止まった。何度も悩んで。何度も苦しんで。これで合っているのか、間違っているのではないのだろうか。自分の思考と他人の言葉に揺れ動かされ。逃げ、背け、だけど粕みたいに残った微塵の勇気に背中を押され、1番大好きな人が手を差し伸べてくれた。


「言って、いいの?」

「いいよ、聞かせて」


 輝く星は、いつだって平等に誰かを照らす。暗闇を彷徨う迷い人に、道を示してくれる。


 だから私も例外じゃなく、その光に導かれるように迷路の出口を求める。


「私」


 それはとめどなく、とめどなく。


 罪人が許しを乞うように夜の公園に響き渡った。


「日菜が、好きなの」

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