第39話 遠くで光る
――前に進んだ者がいた。
駆けるその姿は美しく、頼もしく。力強くて輝いて見えた。
歓声があがる。
「日菜すごくない!? めっちゃ速いんだけど! 練習のときあんなんだったっけ!?」
「わー! もう抜いたよ! いっけー! 日菜ー!」
誰もが席を立ち、日菜を応援する。
私は、呆気にとられて椅子に座ったまま声を出すこともできなかった。
『本気で走れないんだよね』
日菜は言った。だから授業も練習も、体育祭も適当にやる。自分のトラウマとわざわざ向き合う必要なんてなくて、致命傷を負わない程度の生き方をすればそれでいいと眠たそうな目で語っていた。
それは私も同意する。別に、今のままでいいじゃないか。本気で走れなくたって日常に支障はでやしない。特殊な状況下以外ではそれ相応の、満足のいく生活が送れるはずだ。
だから前に進む必要なんてない、その場で足踏みしていればそれでいい。
そのはずなのに、必死に地面を蹴り続ける日菜は、ずっと前だけを見ていた。
眠そうだった目も、苦痛を踏みにじるように、自分を嫌悪し、破壊するように。見開いて、前へ進んだ。
あんな日菜の表情初めてみた。私じゃ決して引き出すことのできなかったそれに、行き場のない妬みが漂い始める。
「日菜」
ようやく、私の口が空気を揺らした。音になったそれは、私の思考そのもの。困惑と、戸惑い。
ゴールして、東光寺さんにバトンが渡ると日菜が震える足を押さえながらこちらへ戻ってくる。地面を汗で塗らす日菜に、クラスメイトが駆け寄る。
すごい! 日菜! かっこよかった! 誰もが賞賛を声にし、日菜も囲まれて暑苦しそうな顔をしながらも、まんざらでもない声色で笑っていた。
眩しかった。あれだけ走らないと言っていた日菜の本気が、私の瞳と心を焦がしいく。
「結芽、たすけて」
もみくちゃにされた人の塊から日菜の手が伸びてくる。
それを掴むと、日菜はニッと笑って、私を引きずり込んだ。四方が笑顔と興奮で包まれ怒濤となって私を襲う。
前に進む必要なんてない。現状維持がきっと最善手のはずで、自分から破滅の道を歩むことはない。
そのはずなのに。
「結芽、あははっ。勝っちゃったよ、わたしたち」
日菜の嬉しそうな笑顔を見て心が揺らいでしまう。
ねぇ、その顔を見るにはわたしはどうすればいいの? どうすればその、太陽みたいな笑顔で私を見てくれるの?
私が前に進んだら、日菜は笑ってくれるの?
日菜は答えてくれない。
私だけが取り残されて、日菜だけが前に進んでしまった。そんな寂しさを覚えて、体育祭は終わった。
打ち上げは行かないつもりだったが、日菜が一緒に行こうと誘ってくれたのでしぶしぶ行くことにした。いや、嘘である。日菜と一緒なら、私はどこへ行くにも尻尾を振って付いていく。
カラオケに来て、いつかの日を思い出す。日菜が彼氏に振られて、元気を出すためにここへ来た。あの時の私は、どういう心持ちで日菜と接していただろうか。
おそらく、なにも思っていなかった。
ただ日菜に元気を出して欲しくて、悲しげな表情を変えてあげたくて。自然体に、純粋な心で夕暮れを共に歩いた。
今の私は、どうだろう。沼のように淀んだ心で、様々な言い訳を探しながら、自分のことばかり考えている。こんなだっただろうか。私が望む日菜の隣は、こんなにも苦しいものだっただろうか。
考えると息が詰まり、喉が渇いた。日菜に一言かけて、ドリンクを取りに行く。
強い炭酸でも飲んで頭をスッキリさせたいのに、ドリンクバーのコーラは何倍にも薄められていて、今の私には砂糖水となんら変わりはなかった。
グラスを持って赴くと、ふたつの影を見る。唇が重なり合い、腰に手を回す。カップル。カップル。えっ!?
とんでもないものを見てしまったと私は急いで自動販売機の裏に隠れた。隠れる必要、あった? 分からない、だって、キス。えぇ?
何度も何度も復唱して、やっぱり今のはキスだったよねと自己解決する。そうするとあとは体が熱くなって羞恥に包まれるだけ。
すごい、濃厚な交わりだった。あれが、恋人。あれが本当の、好き。
頭の中がぐるぐるして、自分という存在とキスという概念を並べて考えてみる。そうするとやはり顔を出すのは日菜という存在で、自然な流れで私と日菜がキスをするという妄想に発展する。
求めたい。日菜の唇を求めたい。もう一度、キスをして欲しい。あの夜にした子供みたいなものじゃなくて、私の好きを体で感じて欲しい。
自動販売機の裏で考えるようなことではない。赤面する私。
でも、それはあくまで妄想でしかないことをすぐに理解する。
そんな現実、未来は決して訪れない。
だって私と日菜が恋人同士になるなんてこと、あるわけがないのだから。
そう思った瞬間、胸に大穴が空き、空気が漏れ出すような感覚に陥る。寂しさと恐怖が入り交じったこれを、切なさと人は呼ぶ。
切ない。
私の求めた熱情が叶うことのない夢物語であることが、苦しい。
「日菜・・・・・・」
すると、視界が影で覆われ、私を追いやるように狭い隙間へと入っていく。
「結芽? なにしてるの」
なんの悪戯か、先ほどまで私の脳内を埋め尽くしていた日菜が肩が触れ合う距離にいた。本物? ついに私の頭がおかしくなって幻を生んだのでは逡巡するも、微かな温もりが私に安心を与える。
日菜もどうやらカップルのキスを目撃してしまったらしく、頬を朱に染めて手で顔を仰いでいた。
そんな日菜の血色の良い唇を見ていると「わたしが結芽にしたのもあんな感じだった?」と尋られたので思い出しつつ、私の意識は別の所にあった。
日菜に、触れている。日菜が温かい。私は光に誘われる虫のように、日菜にもたれかかった。全身の力が抜けて、つま先がむず痒くなるのを感じる。太ももの付け根がくすぐったくて、腰を浮かせてなんとか耐える。
ここで私が、日菜に口づけをしたらどうなるだろうか。引っぱたかれるだろうか。驚かれるのは必至だと思う。もし私と日菜が恋人同士だったとしたら、受け入れてもらえるのだろうか。ここでのキスが不自然なものではなくなって、至極当然の行為になり得てしまうのだろうか。
ここでもし、私が前に進んだとしたら、私が望んだ未来は訪れるのだろうか。
「日菜は、どうして走ったの?」
気付くと私は日菜に問いを投げていた。だけど本質は違うもので、私が聞きたかったのはどうして日菜は前に進もうとしたのか、そして、怖くはなかったのか。
日菜は考えるように視線を上にあげる。しかし頭上には自動販売機の乱雑に絡まったコードと埃っぽいファンだけ。再び私に視線を戻し、日菜は。
「内緒」
と、答えを教えてくれなかった。
だけど、日菜の表情はとても晴れやかなもので、逸らすことなく。私を見つめ続けた。
その瞳に答えがある気がして、必死に探す。
今までのような冷めたものではない、上がりきった瞼と揺れることのない瞳。その中に、見いだしたのは・・・・・。
勇気に似た、青臭いなにかだった。
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