第29話 両手に袋

 食欲をそそるスパイシーな香りが鼻をつく排気ガスの香りに変わる。空はもう茜色で、風も少し冷たい。


 信号はすでに青になっていて、立ち止まっている人はいなかった。見失ったと危惧するも、遠くに見えた凛とした背中に杞憂だったと思い直す。


 揺れる栗色を追いかける。距離はいかほどかあったように思えたが意外にも早く追いつくことができ、その背中に声をかける。


莉音りおん

「あら? 日菜じゃない。どうしたの?」


 わたしの呼びかけに足を止め、今日の天気と同じくらいに晴れやかな表情をした莉音が振り返る。両手には大きなビニール袋をいくつも抱えていて歩くのも億劫そうだったが当然莉音はそんな素振りは見せなかった。


「そこのお店でご飯食べてたら莉音が見えて、声をかけてみたんだけど、莉音の家ってこの辺じゃないよね?」

「ええ」

「どしたの? しかもそんな大荷物抱えて」

「あら、そんなの決まっているじゃない。これからいちかの家へ行くのよ」


 そういえばいちかは駅の近くに住んでると前にちょろっと聞いたっけ。利便性はあるけど、夜は車と酔っ払いで騒がしいと嘆いていたいちかを思い出す。


 莉音がわたしに見せるように袋を掲げて見せる。見たことのある薬局のビニール袋だ。あぁなるほど、これからお見舞いに行くってことなのかな。それにしても大荷物すぎる。


 わたしの怪訝な視線に気付いたのか、莉音が応える。


「風邪っていってもウイルス性なのか、ただ単に体調が悪いのか分からないでしょう? 前者ならきちんとした薬を処方して安静にする必要があるし、後者なら薬よりも栄養剤のほうが効果的じゃない。対処は早ければ早いほどいいの。行って戻る時間が惜しいのよ」

「だから一度に色んなものを買ってきた、と」


 当然よ! と髪をかきあげ莉音が言う。それにしても多過ぎでは? 薬だけじゃなく熱冷まシートとかゆたんぽなんかもある。ネギなんかもあるみたいだし、首に巻くのだろうか。袋の底に埋まっているにんにくは考えても用途が思い浮かばなかった。吸血鬼でも退治するのかな?


「わたしも持とっか?」

「あら。助かるわ」


 莉音から2つの袋を受け取る。思っていた何倍も重くて肩が地面に落ちそうになる。ずっしりと重力に引っ張られながら眉間にしわを寄せると莉音が笑った。


 よくこんなものを軽々持ってたなと感心しながらも、莉音の首筋にも微かに汗が浮かんでいるのが見えた。


「これ1人で持つのは無謀だよぜったい」

「そう? 確かに相応の力は必要でしょうけど、頑張れば持てないこともないわ」

「頑張れば・・・・・・」


 頑張りどころがちょっとズレている気もしないではない。お見舞いに行くにしろ飲み物とゼリー1つ小脇に抱えて持っていけば十分な気もするけど、莉音はそういう妥協が好きじゃないのだろう。


「全部でいくらしたの?」

「7千円よ」

「うへえ」


 わたしの樋口一葉では太刀打ちできない額だ。


 優雅な立ち振る舞いと上品な言葉遣い。そしてお金持ちの風格を冠した名字。そんな莉音だけど家は特別裕福というわけではなかったはず。よくそんなお金払えたなと不思議に思っていると莉音が財布を見せびらかしてくる。


「すっからかんよ」

「ですよねー」

「あたしの家は小遣い制だから、来月まで散財はもう無理ね」

「一ヶ月いくらなの?」

「2千円ね」

「わー庶民的だぁ」


 軽口を叩きながら、そういえば莉音とこうして2人っきりになるのは初めてだなぁと考える。 莉音は変わらず、わたしに話を振ってきてくれる。そうなればわたしだって受け答えくらいはできるので会話が弾んでいるように演じることもできる。


 別に一緒にいて居心地の悪さを感じることもない。かといって、どこぞの誰かみたいに尻尾を振るようにご機嫌になったりもしない。友人として、非常に適切な距離感であるようにも思えた。


「あ、むり。やっぱ重い!」


 思考する脳に意識を持っていきすぎて袋を持つ手がぷるぷると震えだした。いたいけな女子高生にこれはいささかキツイものがある。


「だらしないわね」


 差し伸べられた手に袋を渡す。3分も持ったのだから褒めて欲しい。


 木の枝みたいな腕がぶらりと垂れて、指先がヒリヒリと痺れる。ネイルしてこなくてよかった。


 結局わたしは雄々しく歩き続ける莉音の背中を見るばかりで、ペンギンの群れのようにぺたぺたと付いて歩いた。


 風景からビルが消え、代わりに古びた老舗が顔を出したあたりで莉音がこちらを向く。


「そこに居酒屋があるでしょう? その向かいがいちかの家よ」


 白い外装。正方形の、家。特に目立つ要素はなくいちからしいなと1人で納得する。


「へー。確かに夜はうるさそうだね」


 でも、窓を開ければ焼き鳥の匂いを嗅げるのはいいなぁ。お腹が空いて大変そうだけど。


 と、佐藤宅が見えたところで、莉音がこちらに振り返る。


「で?」

「えっ?」


 猛禽類のように鋭い瞳が、わたしを見据えていた。 


「えっ、じゃないわ。わざわざ走って追いかけてきたのだから、なにか大事な用事があったんじゃないの?」

「あー」


 そこ、突っ込まれちゃうか。話してる間にやっぱり言わなくてもいいかなと思って黙っていたのだけど。


 言いにくいことは、どうにも先送りにしてしまう癖がある。結局言わなきゃいけないってわかってるんだけど、これはもうこびりついたわたしの悪いところだからそう簡単には治らない。


 とはいえ、莉音から話を振ってくれたのは非常にありがたく「じゃあ」と付け加えてから、話すことにした。


「体育祭のリレーなんだけどさ、わたしの順番変えてくれない?」

「順番? 日菜は確かあたしの前よねなにか不満があるの?」

「いやーわたしって足遅いじゃん? たぶん結構差が開いちゃうと思うからアンカーの1個前って戦略的にもよくないと思うし。だから、なるべく真ん中あたりに配置してくれないかなって」


 体育の授業で、陸上部も真っ青の足の速さを見せた莉音は当然アンカーに抜擢された。そのまま流れでリレーの指揮を取ることとなり、知識も熱意も人一倍ある莉音なら適任だなと傍観していたら、なぜかわたしが最後から二番目というそこそこ重要な走者に指名されてしまった。


 そんな大役わたしに務まるはずもない。その時はつい頷いちゃったけどやっぱり訂正してもらおう。と、今日思い立ったのだ。。


 わたしの説明に、莉音は考えるように手を口に当てる。袋を下げたまま。なんて腕力だ。


「それは、本当に戦略的に考えてということ?」

「そりゃもう。リレーって基本的に後半に戦力を割いたほうが勝ちやすいじゃん? 背中を追う状況って本人のトップスピードも引き出しやすいし」

「随分と詳しいのね」


 気づくと、莉音が距離を詰めすぐそこにいた。


「ネットで調べたから」

「なるほどね、関心だわ」


 莉音は顔を綻ばせる。どうやらわたしのウソを熱意だと勘違いしたらしい。これはいけるのでは?


「でも、だめよ」

「だめですか」

「ええ。日菜、あなたをあたしの前に配置したのは、それこそ戦略的に考えた結果だもの。あたしは勝ちたい。勝ちたいから必勝の方法で臨みたいのよ」


 不適に笑う莉音にブレは一切見られず、悪意は微塵も含まれていない。彼女はただ、勝利を信じている。やっぱりわたしとは違う人種なんだなと理解する。


「半周分くらい離れちゃうかもよ?」

「逆境、いいじゃない」

「莉音が責められちゃうかもよ? わたしを抜擢した張本人なんだから」

「かまわないわ。だってその通りだもの。責任はあたしにある」

「・・・・・・お腹壊しちゃって棄権するかもよ」

「これ、整腸剤と胃薬。あとヨーグルトよ」


 袋の中から取り出して、たんまりと渡される。


「他に言うことは?」

「バナナも欲しい」

「しょうがないわね」


 1房貰ってカバンに詰めた。朝バナナは健康にいいらしい。しかもヨーグルトと合わせると効果抜群。砂糖をかけるとさらにおいしい。


 まぁなんやかんやで、簡潔にいうとわたしの意見は秒で却下された。せっかく追いかけたのに。でも、無駄足というわけではない。バナナとヨーグルトもらったし。


 それに、莉音ならわたしが大量リードを許してしまってもなんとかしてくれそうな気がしてきた。こういう時は本当に頼もしい。


 あきらめ半分に最善の妥協案だと納得し、踵を返す。


「日菜、どこへ行くのかしら。いちかに会っていかないの?」

「いいや。わたし今日は早く帰らなきゃだから」

「そうなの? 悪かったわね、連れ回しちゃう形になってしまって」

「ぜんぜん。いちかによろしく。じゃね」


 莉音といちかの仲は、はたから見ても非常に良好だ。たぶん親友と呼んでも差し支えのないほどの。そんな2人の間に介入するほどわたしは空気の読めない女ではない。


 ここは退散するのがベターである。


 キザに手を振って、背中で「また明日」と語る。うん。今のわたしちょっとかっこいいかも。


「日菜」


 ふいに呼び止められる。せっかくかっこつけてたのに。


 振り返るのと同時に、小瓶が眼前で浮いていて急いでキャッチした。


 わたしが無事受け取ったのを確認すると、今度は莉音が手を振って、かっこよく背中で語って見せた。


『頑張るあなたにこれ一本!』


 そう書かれたラベルを見て、ため息をつく。


 栄養ドリンクに頼るには、まだ若いのではないだろうか。  

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