第10話 ちっこい取り巻き
トイレを洗ったあとのわたしは無敵だ。やる前は憂鬱で仕方がなかったはずなのに終わってしまえば活力に満ちあふれていて今ならなんでもできるという気さえしてくる。
原理は詳しくは分からないけど、多分、トイレ掃除という行為が生活するうえで最も気が進まないものだから、これをやってしまえば後に待ち構えているであろう苦難が霞んで見えるというか、まだマシとでもいうのか。おそらくそんな心理が働くんだと思う。
そんなわけで、ちょっと気合いを入れたいときは朝起きてすぐにトイレを掃除することにしている。当然そのことは長年一緒に暮らしている家族は承知していて、わたしがせっせと水垢をブラシで擦っていると後ろから茶化してくるのだ。
「あー! おねえちゃんがまたおといれそうじしてうー!」
「カレシだぜぜってー! びっちびっち! びちびちうんち!」
「こら陽太! どこでそんな言葉覚えたの!」
悩みなんて1つたりともなさそうな元気な声がいつものように狭い個室に響き渡る。どうしてわざわざ入ってくるのか。子供の好奇心? それともお姉ちゃんをからかうのが楽しいのだろうか。そんな子にはお仕置きが必要かな。
おまんじゅうみたいなほっぺたをぐにっとつねる。
「ぱわはら!」
「いいから戻ってなさい。お母さんのお手伝いはしたの?」
「もうだいじょうぶだからねーちゃんと遊んできなさいって言われたー」
「たー」
妹の栞も舌っ足らずな声で陽太の真似をする。普段は喧嘩ばかりしているくせにすこぶる仲はいいようで姉としては安心する。けど間近で見られながらトイレを掃除するというのはどうにも落ち着かない。
ブラシを洗い、ついでに便座と床を拭いた紙を一緒に流した。振り向くと栞が指を咥えて「もう終わり?」というような表情をしていた。そんなにわたしが便器を擦っているのが面白いのだろうか。陽太のほうは別の意味で面白がっているらしく「びっち」と連呼している。
思えば、わたしがあいつに告白した日の朝もこうしてトイレを掃除して、それを陽太と栞に説明したら今みたいに茶化されたっけ。今となってはいい思い出、ではない。
まぁ今日はそんな大それたことじゃなくって、ただ単に学校に行く前に結芽の家でも寄っていこうかなって思っただけ。学校で話すよりも周りの視線は気にならないし結芽もそうしてくれたほうがありがたい、と思う。
「はいはいもう終わったからさっさと出なさいちびっ子」
それに昨日送ってしまった、いや正確には莉音が勝手に送ったメッセージなんだけど、あれについての弁明もしなくちゃならない。距離の関係上なるべく早く家を出なければならないため陽太と栞の相手はいつまでもしていられない。
栞を両手で抱っこして、足下の陽太を足で押しやる。まるでペットショップの店員みたいだ。
「ねぇちゃん今度はどんなおとこと付き合うんだ? ほすとか?」
「だから違うって。あんまりお姉ちゃんをからかうともう一緒に寝てあげないよ」
陽太は小学生だけど、どうやら甘えん坊の気があるらしくいまだにわたしと同じ布団で寝ている。ちなみに栞はわたしよりもお母さんの隣が落ち着くみたい。
「ふん、おれもうオトナだからねぇちゃんとなんて寝ねーし」
そっぽを向いて強がる陽太。やれやれ、可愛い弟を持つと大変だ。でも、確かにここ最近は一緒に寝ない日が続いた。まさか本当にお姉ちゃん離れ? それはちょっと寂しいんだけど。
「へー、いいんだ。じゃあお化けが出てきても助けなくていいんだね?」
「うぐっ」
子供の背伸びと本質にある恐怖が天秤にかけられ、どうやら互いに拮抗しているようだった。
「で、でもなぁ。ねぇちゃんいっつも寝ぼけて口付けてくるからなぁ。あれ嫌なんだよなぁ」
「え? なに口付けって。キス? キスのことですか? このおませさん」
「すー?」
栞がきょとんとしている。わたしは陽太の口からそんな言葉が出てくることが妙に悲しくて、だけど成長も少し感じていて。それよりも寝ぼけて口付けという部分が気になる。
「きもちわるいからもうねぇちゃんとは寝ねぇ! ねぇちゃんきす魔だかんな!」
「なっ! キスは愛情表現なんだぞー!? それにわたしそんなことした覚えないんだけど!」
「うっせ! 妖怪寝ぼけきす魔!」
「まー」
妖怪なのに魔とは、この歳にして和洋の文化を入り混ぜる陽太の将来は大統領に違いない。姉バカだろうか。ともかく、わたしは陽太と寝ている間、寝ぼけてキスをしてしまうということが幾度かあったようだ。記憶にないから事実確認は陽太の証言に頼るしかないけど、事実だったとしてそれを嫌などと言われてしまってはわたしもいささかショックである。
「ほらしおり、いこうぜ。ねぇちゃんに近づくとまたへんなことされるかんな」
「なー?」
陽太は栞の手を引いてリビングへと戻っていく。その背中はとても頼もしく、成長したなと感慨にひたる。のと同時に、反抗期に入りつつある我が弟の口の悪さに躾を誤ったかもしれないと若干の後悔を覚えた。
「さてと」
一度振り返り、綺麗になったトイレを見て満足する。綺麗好きとまではいかないけど、それでもこうして汚れていた床が嬉しそうに輝いているのを見るのは気分がいい。なんだかありがとうと言われているようだ。
「どういたしまして」
ふふんと鼻を鳴らすと、リビングのドアから陽太が怪訝な表情でこちらを見ていた。目が合い、陽太が引っ込む。そしてなにやら話し声が聞こえてくるあたりどうせ「ねぇちゃんが1人で喋ってた」とでも報告しにいったのだろう。
追いかけるようわたしもドアを開けリビングに入り、一際賑やかなキッチンへと足を運んだ。
「おはよう、日菜」
エプロン姿のお母さんが栞に箸と皿を渡していたところだった。落とさないよう、おっかなびっくり受け取っている。
「ほんとうに朝ご飯いらないの?」
「うん。ちょっと用事があって。あー、用事ってほど用事じゃないんだけど、友達とね」
「ねえちゃんふりょうだかんなー」
陽太が野次を入れてくる。うるさいやつめ。
足下で茶々を入れてくる陽太を一瞥して、わたしは鞄から茶封筒を取り出してお母さんに渡した。
「本当にいいのに」
「ううん。むしろこれぐらいしかできなくてごめんね」
茶封筒の中身はお金。諭吉さんが2枚ほど入っている。
我が家は母子家庭だから、高校生のわたしと小学生の陽太。それにもうすぐで保育園に入る栞をお母さんが1人で養っている。それはきっとわたしが想像する以上に大変なことだろうからせめて金銭面だけでも助けになれたら、ということで1ヶ月に2万ずつ。微々たるものではあるだろうけどこれを去年、わたしがバイトを始めた当初から続けている。
「おかあさん、それなぁに?」
栞が興味深そうに見上げてくる。
「やみきんだ!」
「はいはい。準備できたなら大人しくテーブルに座ってなさい」
わちゃわちゃと盛り上がってきたので陽太と栞を猟犬のごとく追いやった。牧場の羊みたいにとっとこ歩く様は見ていて面白い。結芽もたまに、わたしと歩いているとこんな風な挙動になるときがある。思い出してちょっとおかしかった。
「ありがとうね、日菜」
「うん。じゃあいってくるね」
「いってらっしゃい」
リビングを出て、玄関に置いてある鏡で自分の髪を触る。根元が黒くなっていてプリンみたいな色。先生には「地毛です」で通していたけどこれではバレバレだ。先ほど陽太に言われた不良という言葉を思い出し、染め直そうか、それとも黒に戻してしまおうか悩む。
結芽に聞いてみようかな。
そういえばと思い出し髪を後ろに結んでみる。この髪型にする意味はもうないはずなんだけど結芽はこれを可愛いと言ってくれたし、多分わたしは調子に乗っているんだと思う。それでも可愛いと言われるのは同性からでも嬉しい。今度わたしも結芽に可愛いよと言ってあげようか。どんな反応をするだろう。クールに「ありがと」とでも言うだろうか。でもここ最近の様子を見ると、また変な反応しそうだ。
勝手に考察を進めて、今朝のプランを立てていく。するとリビングのドアがバゴンと変な音を鳴らして開いた。
「おねえちゃんいってぁっしゃぁい」
「いってら」
「・・・・・・いってきます」
挨拶だけはきちんとする可愛らしい弟妹に見送られ、わたしは再び結芽の家へ出向くのだった。
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