第16話
※
しばしの間、僕の記憶は飛ぶことになった。ずっとラボで古川と対面していたはずなのに、どうして記憶の有無が判断できたのか。
理由は二つ。一つ目は、ラボにかけられていたデジタル時計の表示が、いつの間にか三時間も進んでいたこと。
もう一つは、これまたいつの間にか、自分の手に缶コーヒーが握られていたことだ。
それらの事象を認識した時、古川は僕の眼前にはいなかった。
「古川博士?」
僕は酷く掠れた声で呼びかける。腹をすかせた雛鳥が、餌を求めて親鳥を呼ぶように。
「博士、博士?」
返事はない。代わりに、カタタタタッ、というリズミカルな音がしている。
そちらに顔を向けて、ようやく僕は古川の背中を見つけた。業務用デスクに向かい、キーボードを叩いている。
しかし、その音は途切れがちだった。時折混じる、深いため息。その度に、古川は眉間に手を遣っている。
僕の手から、するりと缶コーヒーが落ちた。幸い未開封だったので、零れはしない。いや、零れてしまったとしても、僕はそんなことを気に留めなかっただろう。
それよりも、驚いたのは古川の方だった。ごろん、という缶が落ちた音が、意外なほど大きくラボに響き渡ったのだ。
「一翔くん、大丈夫?」
「僕は、一体……?」
立ち上がり、振り返ってこちらに向かってくる古川。その表情は、今度はすぐに読み取ることができた。
一言で言えば、酷くやつれている。凄まじい精神的負荷が、彼女を襲ったようだ。だが古川は、自分のことには頓着せずに、先ほどと同様に僕の前にやって来て腕を組んだ。
「さっきからずっとぼさっとしてるもんだから、悪いけど放っておいたの。その方がいいと思ったのよ。事実として認めるには、あまりにも……その、残酷な話だから」
残酷な話。
その一言で、僕は何が話題になっていたのかを思い出した。まるで、隔絶されていた僕の体感時間が歪み、記憶が三時間前に戻ったようだ。
一つ幸いだったのは、その三時間があったお陰で、僕がパニックに陥らなかったということだろう。
「残酷な話って、何です?」
「流果ちゃんが、サイボーグ化されたってことよ」
観念したのか、古川はずばりと単刀直入に踏み込んできた。
「流果は機械化されて生き残った、みたいな話でしたね」
「ええ。あなたたちがここに連行されてきた時のこと、覚えてるかしら? まあ、混乱の極致にあったでしょうから、無理に思い出せとは言わないけれど」
僕は、古川の言葉から逆算を試みた。
僕と流果がここに連れ込まれた時、僕は家にいた。いや、それは半分正解で半分誤りだ。流果が帰ってきたのを察して、僕は玄関に迎えに出た。そしてその時、流果は――血塗れだった。
今なら分かる。流果は背後から実弾による銃撃を受け、死に瀕していたのだ。
その後、特殊部隊と思しき連中に回収された僕たちは、気づけばここにいた。いや、僕の意識が戻るまでの間に、僕と流果は離れ離れにされていたかもしれない。
「もしかして、その時に……?」
古川は目を合わせたまま、深く頷いた。
「流果ちゃんの緊急手術と、身体各所の機械化処置を施したのは、私よ」
機械化処置?
「それは、流果が撃たれたことで欠損した臓器や骨格を治療する目的で?」
「もちろん、その通りよ。でも」
ここで古川は俯き、ふっと目を逸らした。視線の先が、所在なさげに揺れている。
「私に課せられた任務はもう一つ。被検体・伝上流果の、人型兵器としての強化処置よ」
「……へぇ?」
何だ? 一体何の話をしている? 流果が、人型兵器?
「妙だと思わなかったの、一翔くん? あなたがヘッドギアで彼女を操縦している時、あまりにも挙動が洗練されていたでしょう? 普通、この歳の女の子に拳銃なんか持たせたら、まともに扱えやしないわよ」
反動で腕を脱臼するのが関の山よ、と古川は続ける。
僕はありったけの冷静さを掻き集め、ゆっくりと言葉を選んで発音した。
「流果が、兵器?」
口に出してみたはいい。しかし、それはあまりにも現実感が欠如している事象に思われた。
が、次の瞬間には、再びコントローラーを操作した時の掌の感覚が蘇ってきた。
この手が、流果をコントロールして戦闘行為に駆り立てたのだ。
部屋の空調設備の、澄んだ唸りが聞こえてくる。それによって、ようやく僕は、自分も古川も黙り込んでいるのだということに気づかされた。
「伝上一翔。あなたには、私を罰する権利がある。唯一そばにいてくれた肉親が、勝手に実験台としてサイボーグ化され、超法規的措置の範疇とはいえ、実戦に駆り出されたんだからね。殴るも蹴るも、好きにしなさいな」
確かに、怒りに身を任せて古川に暴力を振るうことはできただろう。だが、僕の胸中にあったのは、古川に対する怒りや憤りではなかった。
恐怖だ。それも、古川から感じるものではない。まさか、という嫌な予感が、僕の脳裏を横切った。
「古川博士」
「何?」
無防備に手を後ろで組んだまま、古川が応答する。
「あなたが流果を戦闘用サイボーグに改造したとして、それは結果に過ぎませんよね。理由は何です? どうして流果だったんです? 誰かの命令に従わされたんじゃありませんか?」
僕が殴り掛からなかったことが意外だったのか、古川は目を丸くした。が、すぐに答えるべきだと判断したらしく、小さく鼻を鳴らして語り出した。
「私は医者じゃない。生物学者よ。本当は、クローンで培養した成人男性の身体を部分的に機械化し、それをアバターとして操縦するシステムを完成させようとしていた」
聞いたことがある。生身の人間と区別がつかないほどの性能を持った人工生物――それこそが、危険な事故現場や戦場における、状況打開のための最も理想的な存在になると。ある意味、捨て駒と言ってもいいのかもしれない。
それをある程度機械化し、遠隔操縦できるようにすれば、人間が行う危険行為のほとんどにおいて代替要員となり得る。
「しかしね、クローンの開発には莫大な費用がかかってね。割に合わない。そこで考案されたのが、既に存在している負傷者を機械化する、という案なの。それが議題に上がったまさにその日、偶然にも、あなたたちの身柄が確保され、ここに運び込まれてきた」
一部の臓器を機械に置き換えざるを得なかった流果。その手術には、大変な苦労があったのだろう。逆に言えば、ついでに強化処置を施す、ということに対する抵抗感が、医師や学者たちの間で薄れたのかもしれない。
責任者であった古川は、後悔しきりだが。
しかし、僕はもう一つの疑問を提示している。『だれの命令によって、流果の強化手術が行われたのか』。
僕は古川の答えを促すべく、じっと彼女の目を覗き込んだ。
すると彼女は、半ばやけっぱちになったのを隠すように、肩を竦めてみせた。
「伝上昇竜大佐の勅命よ」
「な……」
半ば予期していた答えではあった。だが、父親が我が子を実験台にし、さらには戦場に送り込んだなんて。まともな人間の思考回路では、及びつかないところだ。
「幸いにも、政府が人体改造を黙認しているのは、『ディジネス』殲滅任務に投入する場合のみ。彼らを叩きのめせば、第二、第三のサイボーグは造られずに済むわ」
「でも、流果はどうなるんです?」
「どうにもならない」
古川はぴしゃりと言い放つ。
「ど、どうにも……?」
「ええ。あれほど全身を機械化してしまったんだから、今更生身の臓器や身体部位を提供し、交換することは不可能よ」
「そうですか」
流果は、不治の病に侵されたようなものではないか。僕はそう思った。
「大佐の欲しているのは、戦闘用サイボーグとしての流果ちゃんと、それをコントロールしきれる一翔くんの技術力。自分の子供を、よくもまあ易々と扱えるものね」
『自分の子供を』。その一言に、一抹の後悔の念が混ざっている。少なくとも、僕にはそう感じられた。
「古川博士は、この計画には反対みたいですね」
古川は再び無言。過去に何かあったのだろうか? しかし今、この場でそれを尋ねるほど、僕は野暮にはなれない。
「流果はまた戦わされるんですね。友人を殺すために。この、僕の手を通して」
「お生憎様、私には否定材料はないわね」
やや軽口じみた言葉だが、そこにはどこか、息苦しい感覚が込められているように思われる。
「私もあなたも流果ちゃんも、もう戻る場所がないのよ。もしかしたら伝上昇竜大佐、あなたたちのお父様にもね」
訥々と語られたその言葉を最後に、ラボを辞した。夢遊病者にでもなったかのように、ふらふらと。
帰る場所がない、って、どういう意味だ? そんな疑問が、古いハードディスクのように、頭の中でざらざらと回転を続けていた。
最強ゲーマーの電脳シスター 岩井喬 @i1g37310
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