第3話 本当、なんて調子のいい事で。
得てして、記憶というものは自分にとって都合の良いものではないでしょうか。
そりゃ生きていく上で、過去のことに後ろ髪を引かれていても仕方がないことであるので、気にしないという人も中にはいます。その逆に何も忘れることが出来ないなんていう、一種の才能をお持ちの方もいらっしゃるくらいなのです。
いやはや、こう考えるとなかなかに面白いものがありますね。もちろん、私は前者であります。
済んだことは気にしない、クヨクヨしないのです。
そしてここにも、私と同じようなお方がいらっしゃるわけで。
「よーし! じゃぁハルちゃんを探しますか!」
いやこの人の、エルフリーデの場合はただの楽観主義なのかもしれません。
『物語が始まる前にヒロインに会っておけば、ライバルになれる!』
そう考えてからの彼女の行動は素早かったことは言うまでもないでしょう。
おじいさまに学園に入学する前に様々な人と会って多くを学びたいと懇願し、侍女長を始め使用人たちに協力をお願いしたり、普段の彼女からは想像もできないものがありました。
そして本日念願叶って、まずは市井の暮らしを体感してみようということで、侯爵領の商業街にやってきたのです。
この商業街はおじいさまの更に先代の頃から整備されており、他の領地や国からの往来も多いですが、治安は非常に安定しているのです。貴族が一つ行動を起こそうとした時に色々と配慮が必要になってくる。やはり貴族が少し外出するのだけでも、すごく色々な方にご迷惑をおかけしてしまうのです。まぁ犬の私には治安とかってあまり関係ないのですが、侯爵令嬢であるエルフリーデが市井に出るとなれば慎重になるのは当然でありましょう。今日は侍女長がエルフリーデを引率し、少し離れたところから護衛の方々が警護に回るという手筈になったのです。
しかし奔走してくれている方たちの気持ちなどどこ吹く風というのでしょうか。
ほら、見てくださいよ。我がご主人様の胸を張り満足げに周囲を眺める表情。そんなエルフリーデを見て、前脚が手であれば頭を抱えたいような心境になってしまう私なのである。
周囲の大人たちの協力もあり、市井の暮らしを見て回る、もといヒロインを探すきっかけを作ることはできました。しかしフルネームすら思いだせないのに、人を探せるものなのでしょうか。
かくいう私も、こんな風に偉そうにしていますが『ときめき☆フィーリングハート』のヒロインの名前ってちゃんと覚えてないのです。確か……『ハルカ』と言う名前であったことは覚えているのですが、彼女が貴族だったのか、平民だったのかは正直うろ覚え。
ここはエルフリーデに何か秘策でもあるのでしょう。ここは我がご主人様に任せましょう。
「あー楽しかった! 本当―にたくさん歩いたねぇ」
そしてこの笑顔である。
理由は簡単。どうやらこの子、自分がヒロインの捜索のためにここに来たことをすっかり忘れてしまった様子なのです。
お屋敷の中では見ることの出来ない風景を目にし、触れられるくらい近い距離にあればそちらに夢中になってしまう事も無理はないでしょう。実際一緒に動き回った私も年甲斐もなくはしゃいでしまったのですから、エルフリーデに偉そうにすることなんて出来ません。
今は休憩で街の中心にある大きな噴水の前のベンチに腰掛けながら、年相応のキラキラとした表情を見せるエルフリーデ。額に少し汗を滲ませながらも、どこかスッキリとした表情をしています。
考えてみれば街に出てきてようやくの休憩。流石のエルフリーでも疲れてしまっているのではないでしょうか。
私がそんなことを考えていると、絶好のタイミングで背後から声がかかります。
「お嬢様、お疲れではございませんか?」
ベンチの後ろで周囲に目を配っていたはずの侍女長がそう声をかけてくれました。
これについてはさすが侍女長と言わざるをえません。エルフリーデのちょっとした変化も見逃さないというところは素直に尊敬の念を覚えます。
まぁ疲れた顔も可愛いですという呟きがなければもっと尊敬できるのですが……。
「あ…そう、ですね。少し疲れてしまった。喉も、乾いてしまったかなって」
少し萎縮した様子で呟くエルフリーデ。相変わらずおどおどしながら侍女長と視線を交わします。少しは言葉を交わすようになったことだけでも成長かもしれませんが、これでは全く主人然とはしていません。
今後こうゆう人見知りな部分をどうにかしなければいけないなぁとぼんやり考えていると、侍女長はエルフリーデの前に屈みながらこう呟きます。
「であればお飲み物を準備してまいります。しばしお時間をください」
うんうん、早く持ってきてあげてください。間がもたないということは言うまでもありませんが、少しでもエルフリーデの緊張を解いてあげなくてはいけません。
一礼し、足早にその場を去っていく侍女長の後ろ姿を見送りながらよしよしと考えていたのですが、完全にあることを失念していたのです。
「なんだか緊張するねー、こんなのって初めてじゃないかなぁ?」
足をパタパタと振りながら誰に語りかけるでもなく……いやきっと私に話しかけているのでしょうけど、ぼんやりと口にします。侍女長がいなくなってしまった途端、先ほどの人見知りの様子が嘘であるかのように饒舌になるのは本当に治した方がいいと思う。いや、矯正してあげなくては。
「街に出たもの初めてだけど、こんな風に一人でお外にいるもの初めてだよねぇ」
彼女の言う通りである。基本的にお屋敷から出ることはない私たちですから、こんな風に街中のベンチに腰掛けて過ごす事もなければ、側付きの人たちが誰もいなくなることなんて……。
ちょっと待って! 今誰も私たちのことを監視してなくない? これはマズいフラグなのではないか!
「こんな時に知らない人なんて来たらびっくりして声出ないよねぇ〜なんて」
いや、そう言うフラグになるような事を言わないで欲しいんですけど!
そう思いエルフリーデの方を見つめますが視線が交わされることはありません。彼女の視線は少し上を、怯えに潤んだ色を浮かべて見つめていたのです。
「一体何してるんだい? ご家族の方はどうしたのですか?」
思わず私は威嚇することすら忘れ、アングリと口を開けて茫然としてしまいました。
エルフリーデの視線の先には、身の丈はゆうに2mを越すであろう大男の姿。鍛えられた腕からは隆々とした筋肉が見て取れますが、表情は非常に温和。言葉遣いも丁寧です。これは間違いなく“アレ”でしょう。そう思って私はことの経緯を見守ることにしました。
「あ、わたしは」
言葉に詰まるエルフリーデ。普段から引っ込み思案の彼女が、初めて会う大人の前でまともに話す事が出来ようはずもありません。
表情は百面相のようにコロコロと変わり、アワアワと慌てふためくその様子はきっと他人として見ていればきっと楽しいでしょう、可愛らしいでしょうね。しかし目の前にいる少女は我がご主人様なので、そのままにしておくわけにもいかないでしょう。
溜息一つ、私は大男の前まで歩み寄り、威嚇まじりに声を上げます。
その声に少し驚いたのでしょう、大男は眼を大きく見開きながらこちらを見据えてきます。しかしすぐに表情は先ほどまでの温和なものに戻っていました。
さながらあなたはナイトですねなんて言いながら、男は私を抱き上げます。いやね、かなり体格がゴツいと言っても、なかなかに整った顔立ちに少しポッとしてしまいましたが、私の頭の中を締めていたのは全く別のものでした。
みなさま、ご存知でしょうか? 高度が急激に上がると体調に変調をきたすと言う事を。まぁ急激でなくとも、登山などをすると頭痛に悩まされる方もいらっしゃるのではないかと思います。
今の私、そんな感じなのです。
突然自分が普段過ごしている高さから2m近く上空に持ち上げられるわけです、子犬の私のスケールで考えれば頭痛は必至!
もう、誰か助けてくださいよ。
と、そんな事を考えた刹那、やはり救世主というものは現れるわけなのです。
「そんな風に人に声をかけては怯えさせてしまうだけでしょう?」
その声を聞いた瞬間、私にはありきたりな言葉しか思い浮かびませんでした。
まるで鈴が響くような、細やかなだけではない、芯のある響きが耳に届きます。
「いえ、そんなつもりでは……」
「今目の前にいる彼女の表樹が全てでしょう」
「おっしゃる通りです。申し訳ないことです」
「その台詞は私ではなく、彼女に仰いなさいな」
「重ね重ね申し訳ございません。お嬢様」
声に惹かれてぼんやりとする視界のまま、そちらに視線を向けます。
先程の男の比ではないほどに私は言葉を失って、目を見開いて食い入るように声の主を見つめてしまいました。
声に違わぬ切れ長の眼。白磁の肌を更に映させるのは、光を湛える黒絹の髪。この世界では今まで目のすることはなかったそれを目にすると懐かしさを感じた。
しかし年はエルフリーデと同じくらいでしょうか。それでも彼女よりもどこか大人びているように感じる。
本当にチープになってしまう。本当に、美しいのだと、私はそう思えた。
「私の連れが申し訳ございません」
「いえ、わたしが……わたしが悪いんです」
「貴女はお連れの方と逸れてしまわれたんですか? であればお探しするのをお手伝いいたしますが」
「いえ、そんな必要は……」
「なるほど、そのようですね」
この短いやり取りの中でも、黒髪の君がエルフリーデよりも随分大人びていると実感できた。
慌てるだけのエルフリーデと引き換えに、こちらに駆け寄ってくる侍女長を見とめ、状況を察する事ができるのはさすがとしか言いようがない。
この時、私は確信していたのです。
少し幼い顔立ちにはなってしまっていますが、彼女が私たちの探していた人物なのだと。
「わたしがきちんとご説明できていればよかったんです。すいませんでした」
「……なんなの、これ」
「え? 何か?」
あれ? なぜか黒髪の君の頬が赤くなっているような気がする。
「なるほど、カロリング侯爵の御息女であらせられたのですね。申し遅れました。私はハルカ。『ハルカ・グライナー』でございます」
ご都合主義とはこうゆう事を言うのではないでしょうか。
まさか目的の人物にあっさり遭遇する事ができるなんて。しかしなんだかハルカさんの雰囲気がおかしいような気がするのは私のきのせいなのでしょうか。
気のせいと、信じたい……。
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