第0話 プロローグ2


 子犬を抱きしめたまま、わたしは立ち尽くしてしまう。


 ようやく分かった。

 今まで違和感を覚え続けていた理由が。

 わたしを取り囲む状況がわたしにとって不相応だと思い続けていた理由が。


 だって、わたしド庶民だもの!こんなに広いお屋敷、こんな豪華な服、ビビっちゃうに決まってるじゃない。


きっと物語でよく見る状況なのかもしれないけれど、わたしは物語に出てくる彼ら彼女らみたいに剛胆ではない。いきなり『貴女は今日から貴族になりました!』なんて言われても、簡単に受け入れることが出来るほどわたしは物わかりが良くないのだ。

12年間エスフリーデとして過ごして来たってなれることはなかったのだ。きっと今後も……慣れないんだろうなぁ。

 わたしはとりあえず抱き上げていた子犬をそっと地面に座らせ、膝を抱えるように蹲りました。


「これ、エルフリーデ! 淑女としてそのような行為は優雅ではないよ」


その声にわたしはハッとしておじいさまの方を見つめます。

そうだ、よく考えてみろ。大人しいと評されているエルフリーデ。そんな彼女が突然大声を上げたのだ。

大人たちは驚いてしまうのも無理はない。実際には顔を上げて周囲を見回した時、侍女長を始め側に控える家令のみんなは驚いた顔をしていた。

唯一、おじいさまだけが冷静に、わたしを見つめながら声を発して下さったのだ。


「でも、おじいさま! でもね!」

「少し落ち着きなさい。一体どうしたのかね?」

「それは……でもわたしは! ……っ」!


 そうだ、なんて言ったらいいんだ。


 「わたし前世があるんです! それを思い出してしまったんです、わたしはただの庶民なんです!」


 こんなこと言ってしまったら最後、さすがに優しいおじいさまであってもお怒りになってしまうだろう。そう思ってしまうと言葉に詰まってしまう。それでも全く落ち着かないソワソワと体が震えてしまうのだ。


 じっとわたしを見つめるおじいさまがため息一つ、カップに満たされていた紅茶に口をつけ、少し厳しい表情を浮かべます。


「エルフリーデ、少し疲れてしまったみたいだね。今日はもう部屋でお休みなさい」

 向けられた表情に、わたしは言葉をなくしてしまう。ここまできてようやく、わたしは自分で考えている以上に混乱していると言うことを実感した。

 周囲を見回すと侍女長や家令たちも心配した様子でわたしを見つめている。そうだ、わたしはなんだかんだと侯爵の娘。周囲の状況に気を配らないといけないのだ。


 自責の念を抱えながら、わたしはおじいさまに深く頭を下げる。

「……はい、分かりました。取り乱して、申し訳ございません」

 正直正気を取り戻したとは言い難いです。

 それでも厳しい言葉ながらも助け舟を出してくださったおじいさまの気持ちを無駄にすることなんてできません。わたしはおじいさまや側に控えていた家令や侍女長に一礼し、その場を立ち去ることにします。


 お庭を歩いていく際に、侍女長が心配そうな声を出していましたが、振り返るのはおじいさまがいらっしゃる手前バツが悪い。彼女に悪いなと思いながらも、無視するほかありません。

 本当、ここにくるまではすごくウキウキしていたはずなのに、今はドンより曇り空。

少しの時間でわたしの心はまるで天国と地獄のよう。……うん、まだなんか余裕はあるみたいだ。


 モタモタしているとさらに気落ちしてしまって、蹲ってしまいかねないんだもの。無理に足を動かしながら、自室へと足早に進んでいきます。


 そうすると案の定と言っていいのか、考えたくもない前世のことが少しずつ目の前にありありと思い出されてくるではありませんか。


 どこにでもいるよう大学生、それがわたしだった。

 あぁ、念のために断っておきますが、物語の中に出てくる『なんの変哲もない』はとんでもなく特別ってことですからね。わたしはそんな人間ではなかったと言うことをこの場で断っておきましょう。


 実はと言うと、前世だなんて言っていますが、わたしには自分が死んでしまった記憶がありません。寝て起きたらエルフリーデだったという感覚なのです。

だからずっと自分がエルフリーデであると言う実感が持てないままでいた理由がこれだったのかと、ようやく得心がいきました。


「でも……どうしようもないですよね」


 言葉ではついつい諦めを口にしてしまいます。それと同時にわたしの中で、2つの感情が芽生え始めていたのです。


「わたし、こんなのでも侯爵令嬢? なんだよね……」

そう、前世はド庶民であったわたしも今は侯爵の一人娘。ある意味人生大逆転だ! 

前世のお父さん、お母さん本当にごめんなさい。別に不満のある生活ではなかったけど、これまでエルフリーデとして過ごしてきた生活とはあまりに違いすぎるのです。


 こうなったらエルフリーデとしての、侯爵令嬢としての生活を謳歌してやる!

 目指すは、健全なるハッピーライフなのです。


 なんてことを考えていると、あっという間に自室の前に戻ってきていました。

 きっと今のわたしの表情は本当にいやらしいものになっているでしょう。


「あら」


 ふと足下に視線を移すと、そこには先ほどおじいさまからいただいた子犬の姿。

そこかその表情は気怠そうに見えたけど気のせいだろうか。

それにしてもおじいさまからいただいたという贔屓目を抜きにしたとしてもすごく愛らしい容姿をしている。

 部屋に入るのも後にして、足下にいる子犬を再び抱き上げる。

 ぐへへ、ふわふわの毛並み、すごくいい。・・・・・・端から見るとすごく気持ちが悪いですね。

 さっきまでとは違う意味でいやらしい顔をする私に、子犬はどこか辟易した様子でため息をついていました。


 き、気のせいだよね?

 うん、きっと気のせいだと気持ちを切り替えつつ、子犬を自分の目線まで持ち上げて視線を合わせます。


「心配してついてきてくれたのかしら?」

 すると子犬はクンクンと鳴きながら体をわたしに預けてきます。なんだ、甘えてくれてるみたいですね。改めてフワフワの毛並みを撫でていると、お庭にいた時の焦りみたいなものがスッと消えていくような感覚を覚えました。


「なんだか、あなたのことすごく好きになっちゃったかもしれないわ」


 あれ? なんだか少し慌てたように喉を鳴らしています。そこは可愛くクンクンと鳴いてくれればいいのに。なんだかこのことは噛み合わないなぁなんて考えながら、改めて子犬を正面から見つめます。


 黒い吸い込まれそうな瞳の色。

 なんだかさっきまでの、最初にこの子を抱き上げた時の感覚が呼び起こされてきそうな気分だ。


「なんだか……大事なこと、思い出せていないような」


 刹那、再びのブラックアウト。

 再び目の前に現れる画面。


 子犬を抱き抱えている。でも視界だけが再びあの世界に囚われてしまって、抜け出すことができなくなってしまっている。自分に前世があるってだけでも驚いているのに、一体なんだって言うの!?


「これ……」

 言葉が漏れた。すごく懐かしく思えるその光景に、再び前世で過ごしていた時の感情が蘇ってくる。



 画面に映し出されたのは、前世のわたしが興奮しながらモニターに熱中している様子だった。


「これって……!」


 モニターでは美しい黒髪をたたえた少女が拳を突き出しているシーン。その拳を誰かに打つけた後だろう。白磁のように白い肌が赤く腫れ上がっているように見える。

 あぁ、覚えてる。人形のような容姿からはまるで想像もつかない、荒々しいけれど鮮烈なその拳のキレに、格闘技を知らないわたしも興奮を覚えたくらいだった。


 でも違うのだ、わたしが……いや、その映像を見ていたであろう人全員が同じものに目を惹かれていたはずなのだ。


「これ、違う……『わたし』って!」


 嘘だ、きっとわたしの考え違いだ。

わたしは自室の扉を乱暴に開け放ち、室内へと入っていきます。もうドレスがシワだらけになろうが関係ない。今は頭に過った事を確かめないと気が気でないのだ。


 そうしてお部屋の奥までやってきたわたし。大きな鏡台に設えられた椅子に腰掛けます。

不思議なものです。お部屋に入るまでは確かめないと気が済まないと思っていたのに、いざ顔を上げるだけで真実を確認できるとなるとどうにも踏ん切りがつかない。


 緊張で体が強張っていくのがわかった。すると知らず知らずの内に腕に力が入っていたのでしょう。自分の腕の中から苦しそうな鳴き声が聞こえます。自分のことにばかり気を取られて、抱えた子犬のことを忘れてしまっていた。


「っ!ごめんなさ……い」


 一歩後ずさった瞬間、鏡台に映し出される自分が目に入ってきた。

本当に驚いてしまった時、人は言葉をなくすなんて聞いたことがあった。それって、本当なんだとこんな時に認識してしまうなんてすごくもったいなく思ってしまう。

 そうだと認識した時は少し冷静になっていたような気でいたけど、その事実を前にブルブルと体が震え始めた。

きっとおじいさまの前で取り乱していた時とは比較にならない位に、茫然自失としてしまっている。何とか腕に抱いていた子犬だけはちゃんとカーペットの上に置くことは出来たけど、それ以外のことはままならなかった。


思わず鏡に手を触れながら、自分の輪郭に沿って指を動かす。まだ幼いその形と、画面に映し出されていたあの形を重ね合わせながら、確かめていく。


 そうだ、あれはわたしが好きだったあのアニメの一幕。

 ヒロインが悪役たちに対して拳を振るい撃ち倒していくシーン。

 その中で一番最初に拳を見舞われたのは、悪役のお付きの少女だった。


そして、その拳を見舞われたのが、

「……わたし、だ」

 このエルフリーデだったのだ。


 そうだ。


「なんで、なんでわたしがアニメのモブになってんのよー!」


 わたしは、ただ転生しただけじゃない。


 アニメの、しかもワンシーンでしか目立たないモブになってしまったのだ。



 なんでこんなことになってんのよぉ。


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