第五幕 ペッパー アンド ソルトを望んだ若者たち・・・・・・
僕達は一先ず港へと戻った。配役が決定し、後は記念式典。物語開始日を待つだけとなった。港のホテルには続々と小説『魔法がきこえる ~南風の足音~』を鑑賞する為のファンが集まってきた。
僕達は港の旅館に一泊して、明日の物語開始日に備える事にした。
まだ沈痛な面持ちの楓さんが僕達の部屋、宵の間に入ってくる。
「編集長。龍之介さんと流花さんの魂は融合したんでしょうか?」
部屋でお茶を飲みながら、絶景を楽しむのは僕達だ。アルカディアの田園風景。牧歌的で正にギリシャの理想郷だった。
「……甲乙龍之介さんの事、皆さんも知ってらしたんですね?」
「え、ああ、うん……。東平大、哲学の助教授だった甲乙龍之介。彼は『象魔大戦』を起こした張本人なんだ」
甲乙龍之介・・・・・・。
生きているとすれば38歳。東平大在学中、同人集団『ネオ・リングス』の主幹として活躍。米国の怪奇小説作家、あのH・P・ラヴクラフトの残した『クトゥルー神話大系』に匹敵する『ギャラクシーワールド神話大系』を完成させた男。
母親が日本人であり、日本の出版社に就職。若き編集者であったウィズダム編集長に出会ってからその才能を開花させ、短編小説『魔王の休日』が、今は科学文部省から発禁処分を受けている時代劇ファンタジー系雑誌に掲載。文壇にデヴューした。
デヴュー以来、熱狂的なファンの指示を集め、一躍文壇の寵児となるも、ある小説を書いて筆を折り、行方をくらます……。
そして……。
次に彼が現れたのは、ある文芸雑誌の主幹としてだった。
小説家によって書かれた小説は、『想像世界』で『想像国家』として存在しているという教義を掲げ、小説家志望の若い男女、特に中高生の少女達から信奉された。
彼が、高校生だった萩尾小桜さんと出会ったのもその頃だった。
甲乙龍之介が掲げた理想世界。全ての小説家達の描いた世界観が合体した「理想郷」の建設。
ユダヤ教カッバーラのブリアー。倫理的な道徳実践世界。英語でブリアーは茨。茨の冠を被った倫理社会と、その抑圧された意識の開放をどう昇華すべきなのか。
それを若者に自問するそんな甲乙龍之介の存在は、茨と抑圧と、開放と昇華を、自分の問題として生き方を毎日綴る事で、自分の未来を模索させる事で、若者に自分の道を自分で切り開く事をメタファーとしての文体で表現した。
明らかに示すのではない、彼の隠喩の表現は時に大人を沈黙させた。大人が何回に哲学を語る時、その抽象表現を別の言葉に変換させた。その変換された言葉は直接その哲学的な常識を理解させない。メタファーが隠されたワンワードを自分で包含させた意味を相手に理解させる。また理解出来た相手を自分のフォロワーとして容認した彼のサイトにアップロードされた小説は、キッチュでアングラで時に時代が黙殺する部分にまで奥深く、黒く澱んだ人間の欲望の一歩手前の若者に、そこからのV字回復の為に自分で千尋の谷から這い上がる為の、【しぶとさ】を教えた。
そして彼が、その若者の『想像世界』を現実化しようとした時、現実世界との大戦は勃発した。アニメの世界でだ。
甲乙龍之介さんは『
彼は、煩悩を全部蔵した心の王国の王、カルマを担う意識宇宙、『想像世界』の心皇、即ち『摩多羅神』を名乗ったのだ。
その大戦の結果は、僕達『剣劇文庫』を中心とした『善化想像国家』連合側が勝利して、彼は敗北した。
彼の荒魂は、永遠に地獄業魔界に閉じ込められた筈だったのだ。親に対する反逆者が行く場所。
「……その龍之介さんの荒魂の替わりに、楓さんのお姉さんの魂で魂の補完をしたのか」
僕は長嘆息した。小桜さんは押し黙ったままだ。それはそうだ。龍之介さんの恋人のつもりでいた小桜さん。可哀想すぎる……。今でも彼の事が好きなのに。
編集長がおせんべいやさん本舗の黒胡椒煎餅を頬張った
「楓さん。
「……いえ」
「泣かせる為だよ」
「科学文部省は、その為に純文学、つまり『悲撃文庫』を多く出版したいんだ。心の同調。若者が同じ悲しみ、痛みを共有する」
「だから『魔法がきこえる 南風の足音~』の結末を変えさせたのか!」
「どうする? この小説の結末を決める、言語決議会は明日から始まる」
「言語決議会?」
「そうかぁ……。読者の皆は小説にハッピーエンドを求めているんだろうか。それとも悲劇によって泣きたいんだろうか……」
「楓さん。あなたはこの小説から生まれた想像国家の想像主の一人なんだから、あなたにも決定権があるわ。どうしたいの?」
小桜さんがじっと楓さんを見つめる。その瞳の奥に灯る静かな光。
「普通シナリオって不動のものだけど、この小説の場合浮動なんですよね、楓さん」
「はい。読者次第ですが、私はファンタジー小説としてハッピーエンドを求めます!」
「『笑撃文庫』と『悲撃文庫』との戦いになるんですね。編集長」
僕は気合を入れた。
「そうだな」
「主人公が笑撃系か悲撃系かによって主人公の魂の大きさも変わってくる」
「主人公にかける保険ですね?」
「保険ってどういう事ですか?」
「あのね、楓さん。想像国家に住む住人はね、保険の掛け金のように自分の魂の分霊を差し出し、主人公の魂を最強の霊魂、不老不死にする」その時、主人公の魂を消去すると、皆の魂の理性も死ぬ。それが主人公=メシアが殺されるのを阻止する事になる。そのメシアの神こそ、太陽神。太陽の理性が死ぬと暴走するんだ。だから、神の代替わりの時が一番、戦争が起き易い。そうですよね、編集長」
「そうだ。主人公に感情移入する事により、皆、主人公である核に合体して大きくなり、その太陽神の善のパワーエネルギーを貰う。その神は、一番倫理的で理性で、欲望に打ち勝った者でなければならない」
「この「魔法が聞こえる」は、現実世界では携帯電話でシナリオを変えられるでしょ。言語方向量が悲劇方向に傾いたら、泣くという思考波が送信され、想像世界に貯蔵されていく。誰かの怒りは誰かを泣かせて、その誰かの悲しみの感情は良い存在に是認され、泣かせた方は是認されない。是認されない存在はまた自分で苦しみ、自分の感情の正当性を別に求めようとして、自分でしか出来ない流れで自分を肯定しようと私小説の中で自分の生き方を美化していこうとし、その自分の時間の流れを理解してくれる人に示そうとするのね」
「小桜君の言う通りだ。『悲撃文庫』は若者に他人の為に泣くように導かせ、架空か実話かの別世界の感情を現実に投影出来た時、その小説を読んだ若者は自分で行動の選択をする為の切っ掛けを作る事になるんだな」
編集長は一息ついてお茶を飲む。埼玉県深谷市にあるおせんべいやさん本舗煎遊の黒胡椒せんべいはピリ辛なので、お茶をついつい飲み過ぎてしまう。
「乃白瑠君。孔雀の
「はい。まだ試験の最中みたいです。その為に『悲撃文庫』という純文学で、感動する涙を流させているのだと思います」
「まさか、虹色文庫を使って?!」
小桜さんが問いかけます。
「そうだ」
編集長が頷く。
「そして孔雀王……」
「孔雀王? 旧世紀の漫画ですね?」
荻野真氏の漫画「孔雀王」の絵を楓さんが思い出す。
「そうだ。あれも予言漫画の一つだ。あの中にクマラという敵が出てきたろ? あのクマラは、
「そうだ。甲乙龍之介は孔雀の明皇になる事を熱望して、ある小説を書き上げた」
「ある小説?!」
「そうだ」
「楓さん……。恒例の儀式として、想像国家の最初の歴史は、想像主が紡ぐ事になっているから、シナリオの初演は流花さんかあなたが主人公を演じる事になるんだけど、大丈夫?」
「はい」
「異常行動した時は、犯罪や事故を呼び込む。
「でも、愛王流花と甲乙龍之介、「悲撃文庫」側もファンと称して意識を送り込んで、歴史の悲劇方向に持ってこうとしますよ。ペンネームだって同じ愛王という名字だし名前で合体してしまう」
僕はそう言ってお茶を飲み干す。
僕達はブレインストーミングを終えた。とんでもない事になったと思う。
僕は『仁の
悲しみが溢れた世界。
誰かは泣いている。誰かの悩みによって。誰かの悩みを齎す誰かを知らない誰かが、自分の悲しみの原因が何に起因したものなのか、その全体像を把握する事がないまま、人は社会から自分の世界へ帰り、そこでまた社会へ赴く為の休息を取る。
昔若者のカリスマであった歌手は、ハッピネスとレスト……と歌った。
いつか……。
偽りの小説は架空の悲しみを語り、物語の中で架空の死が訪れ、現実で葬式があげられたキャラクターもいる。
テンプルはこめかみだ。怒りの口元はこめかみに怒りのエネルギーを与えてしまう。その怒りの目は全てを憎しむ目となってしまう時、こめかみをマッサージする事で、その怒りの目は解除出来る。
こめかみはテンプルで神社仏閣を意味する。米と日本酒。
主食に対するお酒の関係は、どの地域でも同じだろう。時代と世界と食文化はうまく出来ている。
不倫で苦しんだ人間を笑う事など誰も出来ないし、誰もが持つ感情をその人間の人生を知らずに向けても、是認される感情と是認されない感情は交錯し、蜘蛛の糸のように張り巡らされた社会の中、女郎蜘蛛が悪でもない。
感情の発露のベクトルの向きを間違わせないように社会が送りだす創造物は、倫理的に規制されながら、個人の表現の自由としての権利を主張しなければならない倫理的な文化的な指導者の存在を、時代のオピニオンリーダーとして求める時、その存在が堕ちるのを望む存在は、言行不一致を導きだす為だ。
飲酒運転禁止を叫ぶ警察のトップに飲酒運転をさせるように裏工作する流れも、その典型だ。
何故、小説が生まれたのか?
その謎を僕は解き明かすためにいる。
何故?
悲しみが溢れているから。
純文学。「悲撃文庫」。
ファンタジー小説と純文学。
露天風呂に入りながら、僕は決意をした。
ファンタジー世界が妄想的に若者に現実逃避をさせるレストになる時、現実から乖離した世界から引き戻す存在がいない時、あちらの世界へ耽溺する時間を忘れさせる為の悲しみが、自分自身で生きてゆく事で、自分の実存を確かめる時、自分が耽溺していた世界は社会へと変わってゆく。
僕が考えていた世界に適合しない社会に怒る自分の愚かさは、自分の都合でうまくいかない社会と恋愛の在り方を知った時に、自分を自嘲気味に笑った自分をふと発見するのだ。独り言で呟くストレス発散を次第に抑える時、その人間はその社会から離れて、別の道を歩む事になるのは、自分をうまく昇華する為の分岐点での自分の決定権を自分で獲得している事に気付き、自分で決定を下す事で自分がその元の社会に勝ったと考えるのか、それとも自分が離れる事が一番良いと考える事なのか。
その二つの要素は、その社会から乖離した後のその社会との関係となる。
水面下でもがく白鳥は、明らかに水の中を濁しているのだが、水を濁さない為に出来るのは、川の流れのように、時間が流れ、水は流れ、言葉も流れてゆく。
未完の小説の最後を読みたくても、想像した本人がいない時に、その結末への流れを想像する事しか出来ない読者にとって、ある意味未完で終わった言葉の流れを推測する事は、永遠の謎としてのコードになってゆく。
暗号として、メタファーとして残っていた前述された部分から、我々がどう予測し、そのラストを自分なりに思った《・・・》時、本当の作者を唸らせる誰かを、確認する編集者の一人が、このベルサトリ・ウイズダム編集長であった事。
また彼が未完のまま、校閲と校正をした最終話の草稿を秘匿している事。
その未完の小説のタイトルを誰もが知っている事を、僕たちはまだ知らなかったんだ……。
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