第二幕 消去されたい物語・・・・・・


乃白瑠のべる君! 何ボーッとしてるのよ!」 

 ゴージャスなウェービーロングの髪を振り乱し、東京神田にあるこの汚いボロビルの事務所に似つかわしくないシャネルのスーツに身を包んだ小桜さんが、今日も僕を叱る。

 最初はその傲慢な性格に戸惑ったが、最近はもう慣れてきて快感を覚えるようになってきた。僕ってマゾッ気がある?

 「ノベ太」と綽名されいじめられっ子だった僕が、悲観的にならずこれまでやってきたのもそういう訳だったのか、と納得もする。

「ちょっと! 乃白瑠君、聞いてんのぉっ?!」

「は、はい! すみません!」

 僕はシャカリキになって、原稿用紙にペンを走らせる。

 窓の外の喧噪。学校帰りの妖精達のさんざめき。雲間から覗く夕日の光が天使の階段を生みだした時、人々は天を仰ぎ天国の門を見るのだろうか。

 それを「想像世界」、イマジンワールドの門と呼ぶ者もいるかもしれない。

「いいかげんワープロかPC使えるようになったら?! その方があたしも楽なのよねぇ」

 小桜さんが行儀悪く、両足をデスクに乗っけて、マニキュアをフーフーと乾かしている。

「はぁ・・・・・、っ!」

 下着がチラリと見えそうになっていたので、僕は慌てて視線を下げた。

 「ハグの小桜」、「追いはぎの小桜」。誰が付けたか、それが以前勤務していた出版社での小桜さんのニックネームだ。性格は傲慢。マッチョ好きで、趣味はプロレス及びKー1観戦。日本文士階級鑑で大関に選ばれ、文学界の各賞を総なめにした大物作家を曾祖父に持ち、祖父も父も評論家、母は女流俳人という一家に生まれ、幼い頃から作家志望だった小桜さん。

 東京平成大学を目指すも二度受験に失敗。私立大学卒業後は作家修行の為と出版社に入社。やり手の編集者としてメキメキ頭角を現し、担当作家は名のある賞を受賞。

 作家や選考員と関係を持っているとの風評にもめげず、小桜さんは頑張った。

 だが作家と激突して、純文学から少年少女が読むジュヴナイル系小説へと配置替え。カクテルバー等で酒を煽り、出会った男に金を貢がせ、身ぐるみはがす事から付いたのが、「追いはぎの小桜」だった。


 そして自暴自棄になっていたそんな頃、大江戸モード学院ノベルズ科の編集部批評会というシステムで学院に派遣されてきた小桜さんと僕は出会った。

 有望な新人を見つけると、


「Let me hug!」


と叫んでハグハグする事からついたのが、「ハグの小桜」だった。ノベルズ科学院生の中で、美人ゆえの男泣かせとの噂が立ったが、こっそり陰で涙を流していた小桜さんを僕は知っている。

「はぁ、どっかに「虹のファンタジスタ小説賞」取れる程の新人作家転がってないかしらねぇ、はぁ……」

 出た。僕の顔をマジマジと見つめて嘆息する小桜さんの口癖が出た時、事務所の扉がギィッと赤錆びた音を響かせて開かれた。

「はっ! 新人?! なぁんだ、編集長か……」

 パチンコ帰りなのか大きな袋を抱え、この編集専門会社代表取締役ベルサトリ=ウィズダムさんが入って来た。

 テンガロンハットを被り、カウボーイ気取りの編集長とは、「想像世界」にトリップしていた時間を含めるとかれこれ三年にもなるが、彼の事はいまだに理解不能だ。

「なんだぁ、はないでしょう? 折角今日の夕食勝ち取ってきたのにぃ」

「おのれ・・・、小指噛むの止めんかぁい!」と、小桜さんと編集長の夫婦漫才を、僕は……。

 

「微笑ましく見つめるのだった……」


「小桜さん、僕のメモ帳取り上げないで下さいよぉ!」

 や、やば、小桜さん目が据わってるぅ!

「ちょっとアンタ、誰がこんな編集長と夫婦だって言うの! それにアンタの文章、比喩が足んないのよ! まるで遠慮のない「又助もみ子」の相方女性の「もみ子」が見せるマッハを超えるツッコミとかさ、言いようがあるでしょうが! そんなこったからいつまで経ってもデヴュー出来ないの! 大学中退で専門学校にくら替えする位だから、大学だってどっかのヘッポコ大学なんでしょ?!」

「え、ええ、まぁ……」

「このスーパービューチーなアタシが担当した作家は皆名のある賞を取ってるのよ?! それをアンタはー」と、ブツクサ、ブツクサ。

 無茶苦茶な論理をいつものように振りかざす小桜さんの雷を避けるように、

「ヒィッ! ごめんなさぁい!」と、僕が両手で頭を抱えると、熊のように大きいがたい《・・・》をした編集長の背後、扉の外からクスクスと笑う声が聞こえてくる。

「あっ、忘れてた。お客さんだよ」

「えっ、仕事?!」と、身を乗り出す小桜さんと僕の視線の先に、編集長の背中からピョコリと姿を現している可憐な美少女が立っていた。


「で、お嬢さん。今回の仕事の依頼は?」

 応接室のソファーに腰掛け、小桜さんが少女に問いかけた。

 僕は久々の依頼という事もあって、百グラム一万円もする超々高級宇治茶を煎れた。

 貧乏長屋だけど、お茶だけ錦。茶道は落ち着く霊を生む。お茶に慣れるとそのカフェインが、脳細胞から落ち着いた情報を引き出し、自分の意識に与える。だから武士に茶道を広めた織田信長公は、荒れている武士の霊の怒りを抜こうとしたんだ。そう、ある人が授業の中で言っていた。だから、作家たる者、茶っくれになれよと言っていた。コーヒーがぶ飲み、カフェイン摂取過剰は中枢神経麻痺を引き起こすってのは知っているけど、眠気覚ましのコーヒーは作家には必要なんだなあ。

「粗茶ですが」という僕の言葉に、ペコリと頭を下げるその美少女。

 小説家たる者、良い観察眼を持っていなければならない。僕は眼鏡をクイッと上げた。


 年の頃は十八、九。僕より三、四歳下というところ。

 髪形はトップから毛先へとシャギーをいれノンパートに仕上げたショートヘアーにキャスケットを被り、服装は黒のブラウスとパンツの上にコートを羽織っている。フェミニンな感じを隠し、足元はブーツ。

 全身を黒で統一した全体的な印象は、彼女の心の中を表しているかのようだった。

「私、愛王あいおう 楓と言います。私、ある出版社の新人賞に入賞したんです」

「あら、本当! 良かったじゃない! 何処の誰かさんと違って才能あるのねぇ」

 自分のデスクに戻り、少女を観察していた僕の方を見つめ、小桜さんの厭味が炸裂した。


「新人賞を獲ったあなたが、何故ウチに?」


 煙草に火を点ける小桜さんの言葉に楓さんは俯き、俄頃の沈黙を僕達四人が居るこの空間に投げかけた。そして、膝の上で小さく握り締めた拳にギュッと力を込めると、楓さんは口を開いた。

「……実は、私と姉が共同で書いたその受賞作の小説。それを成仏させて欲しいんです」

 小桜さんの指から煙草が落ち、《シャネル》のスカートの上に焦げをつける。

 新人賞を獲得した小説を成仏させるだって?! 僕が疑問を感じるように、小桜さんも惑乱している。それはそうだ。「想像力監視システム」の厳しい審査をくぐり抜け作品が完成し、それが新人賞を獲ったのだ。僕にとっては羨ましい限りである。それが何故受賞作品を消去し、成仏させて欲しいなどという依頼をするのだろうか。


「・・・それはまた何故かしら? 楓さんと言ったわね。詳しく説明して頂戴・・・・・・・・・」


「その質問に答える前に、その小説を読んで下さいませんか」

 楓さんはバックの中をゴソゴソとまさぐり、百枚程のA4の紙の束を取り出した。

 差し出された原稿を受け取り、小桜さんはそれに目を通す。数行読んだ後、小桜さんは僕の名を呼んだ。

「乃白瑠君。アンタも読みなさい。いい勉強になるわ。新人賞獲る小説がどんなものなのかね。特に最初の1ページ。小説の善し悪しはそれで決まるわ」

「はい!」

楓さんが、お姉さんと共同執筆したという小説のタイトルは、


「魔法がきこえる ~南風の足音~」


だった。


「フーッ……」

 感動の余韻を楽しむ読後感。小桜さんの眉間に皺が寄る。それは素晴らしい小説に出会った時の、小桜さんの癖である。


「Let me hug!」


 小桜さんが楓さんをハグする。どうもハグする相手は男も女も関係ないらしい。

「素晴らしいわ! 流石新人賞を獲っただけはあるわね。どうよ、乃白瑠君」

「はい! 心臓が飛び出る位に感動しました!」

 瞳をうるうるさせる僕の頭を小桜さんがポカン!

「まぁた、こんのスカポンタン! どうしてアンタは陳腐な言い回ししか出来ないの?! 真珠の涙を流す程に作家の心に触れて、身も心も打ち震え、楓さんの才能に震慄しましたとか! 咽び震える心の襞に、塩が塗り込められました具合に言えないの?! 情けなくなって涙チョチョ切れるわよ」

「はひっ! 申し訳ありません! でも小桜さんこそそれ死語ですよ?」

「うっさいわねぇ! この窮措大きゅうそだい!」 

 そんな僕と小桜さんとの遣り取りを目の前にして、楓さんが我慢出来ずに失笑する。

「うふふふっ……。まるで、年上女房とダメ亭主の夫婦漫才みたいですね」

 や、やば! そんな事言ったら、また小桜さんがぁっ! 

 ……。おかしい。小桜さんが黙ったままだ。否定しないって事はまさか、小桜さん僕の事……。チラリと横目で小桜さんの横顔を覗き見ると。小桜さんの眦から涙?!


(窮措大……。貧乏書生か……。龍之介……) 


 小桜さんがそんな事を心の中で呟いていた事を僕は知らない。

 愛王 楓さんが持ち込んだこの小説、「魔法がきこえる ~南風の足音~」は、こういう粗筋だった。


 -主人公、孤児のルル=ティーは、耳が聞こえない、口がきけない、それに子供を産めない、という三重苦の障害を抱えた薄幸の美少女。

 そんな彼女は魔術学校に入学する事になる。その入学試験は神々と契約する事。自分の後ろ盾となってくれる神を見つける事であった。彼女のライバル達は神々と次々に契約し、残る神は未だ嘗て誰とも契約した事が無く、神々の爪弾き者、アマデウス・ヴァロア・・・、ただ一人だった。

 しかし、ルルの必死な手話に心を打たれたヴァロアは黙ってルルと契約を交わした。彼女を後ろ向きに立たせ、その後ろで何時間も彼は立っていた。自分の背後で危険を感じずに、彼の存在を自分の後ろ姿に許した彼女ルル・テイーをアマデウス・ヴァロアは黙って見守った。そして彼が後ろから少しずつ下がった時、彼女は振り向いたのだ。

 その光景を苦々しい思いで見つめていた女神、ヴァロアに想いを寄せる女神が、ロゼリア=ファミーレルだった……。


 この物語は、試験に合格したルルと会話する為に手話を覚えるヴァロアの純愛を試すかのように、ロゼリアが恋愛を邪魔するというストーリーで進んで行く恋愛小説だ。

 戦闘の中で二人の愛は最高潮に達し、二人は結ばれる。

 そして、ルルを子供の産める体にしようとして、父神様に頼み込むと、地上において十の徳の試練をクリアしたら、その願いを叶えてやろうと言われ、二人は旅立つ……。

 そこで第一幕の物語は終了していた。


「いい小説だったわ。続編を予感させるし、口が利けず、耳が聞こえない、子供が産めない若い美少女の人間と究極の純愛を描き、若い女の子達の購読欲を誘うでしょう。魔術学校を舞台とした「ハリー・ポッター」のブームから大分経ってるし、一過性の単なるブームに押し流されて書いた訳ではなそうね」

 思わず僕が、その小桜さんの書評をメモ張に書き込んでいると、

「乃白瑠君? 主人公の名前についてはどう思う?」

「名前ですか? ルル=ティー、うん、良いと思いますけど」

「名前は重要よ。現実の人間だってそうでしょ? 子供が産まれる前から親は姓名判断を頼んだりしてその名前を考える。名前が呪われていたらいけないから、名付け親は、それを調べる義務と責任が問われるわ。ゴッドファーザー。名付け親こそその人間の神。小説家、そしてその共同創造者である担当編集者も同じよ。子供がビッグになって貰いたいように、我々だってその小説にヒットして欲しい。中には実際にお金を払って占い師や霊媒師に依頼する作家だっているんだから」

「そうなんですかぁ?」

「ユダヤ教のカバラ主義者が神聖視する『形成の書』にある、『音霊』『数霊』『文字霊』の思想ではね、『文字はものを生み出す神秘的な力の根源的なパターンである』と言うわ。 それは日本の神道でも言える事。『万葉集』にもあるでしょ? 日本は『言霊の幸う国』なの。洋の東西を問わず、言葉には精霊が宿っていると考えられていた訳よ」

「密教でもそうですよ。真言陀羅尼が仏や明王の幻力を引き出しますからね」

「その音を具象化するのが観世音菩薩ね。音を観る。声から現象を引き出す力こそ、観世音菩薩よ」

「そか!」

「ファンタジー小説を書くんだったら、絶対今、現実に生きてる人物の名前を登場人物に使っちゃダメよ。これは小説の裏にある、暗黙の掟なの」

「どうしてです?」

「その人の運命を操る事になるからよ。それが現実になったらどうするの!」

「そうですね。僕達の『文庫』もそうだけど……」

「で、話は逸れたけど、楓さんが『ルル』って名前を付けたのは、恐らくシュメール神話からよ。違う?」

「そうです」

「やっぱりね……。『ルル』って言うのはシュメール語で『原始労働者』って意味なのよ。そしてその『ルル』は子供を産み出す事が出来ない存在なの。つまり生理が来ない訳よ。この小説の中では主人公のルルが一度も体育を休まない事、そして年中魔法が使える事で疑われるんだけど、それは魔女は生理の期間中魔法が使えなくなるという伝承からきてる訳ね」

「それにしても、よく小桜さん知ってますね」

「そりゃぁそうよ。作家よりも知識がなきゃダメね。作家に騙されちゃダメなのよ。何が嘘で何が真実なのか、判断材料となる知識を備えてないと編集者失格なの。そして編集者は、その自分の知識を凌駕し、想像力でもって唸らせる文才を持った新人の登場を待っているの。この愛王 楓さんのような新人をね。それだけに余計疑問が沸き起こるのよ。この傑作をどうして成仏させて欲しいの? 楓さん。アタシは編集者の端くれとして、この依頼は拒否するわ」

 心に鋭く突き刺さる小桜さんの言葉に、押し黙る楓さん。

 既に夜の帳が降り、神田古書店街の一角にあるボロビルの前を行き交う人達の声と、事務所の端っこで寝ている編集長の鼾が、三人の静謐をかえって際立たせていた。

立ち上がって、窓から眼下を見下ろす小桜さんが、チッと舌打ちする。

 僕は、俯いて泣きそうになる楓さんとの心の接点を模索するように声を掛けた。

「あのぉ、楓さん。ところで何処の出版社の新人賞に入賞されたんですか」

「……はい、「虹色文庫」です」

「!」

 その名前を聞いて、まず編集長の鼾が止まった。彼はずっと狸寝入りをしていたのだ。

 僕達にとって、その名前は忘れたくても忘れられない程、記憶に残る名前だった。特に、小桜さんにとっては。 


「何ですってぇ……」


 小桜さんが振り返り、再びソファーに重い腰を、じゃなかった軽い腰を沈めた。

 こう書いとかないと、後が怖いからなぁ。

 ついに楓さんが、傑作小説から誕生した「想像国家」を滅ぼして欲しい訳を話し始めた。

 楓さんの話はこうだった。


 『虹色文庫』新人賞を受賞した「魔法がきこえる ~南風の足音~」は、双子である愛王 楓さんのお姉さんの方が書いたものだった。いや、書いたというのは適切な表現ではない。何故なら彼女は、小説の主人公ルル同様障害を抱えた女性だったからだ。

 楓さんの姉は視覚障害者で聾唖。三重苦の障害を抱えていた。

 文字を書けず、声を発せず。その彼女が想像した世界を形にしたのが妹の楓さんだった。二人は想像力を共有していた。楓さんは姉の想像している事が不思議とわかったと言う。そこまで楓さんが話した時、いつの間にか居住まいを正した編集長が口を挟んだ。

「それは一卵性双生児間に起きるテレパシー的な意識交流というやつだな」

「編集長。何です、それ?」

「一九二七年アメリカのバージニア州に生まれたナンシーとルース・シュナイダーの双子姉妹は、大学入試のエッセー課題で一言一句に至るまでピッタリ一致した内容を書いた」

「心理学者ユングが言う双子の「共時性」ですね。編集長」

 と、小桜さんが口を合わせた。

 「共時性」。環境の共通因子を持たずとも、その境遇や子供に付けた名前が同じという、奇妙な偶然の一致を見せる現象の事である。

「偶然じゃないんですか?」

 と、僕が疑問を差し挟む。

「似たような例は世界中で報告されているよ。それにアメリカ・フィラデルフィアのジェファーソン医科大学に於ける実験で、双子の一方の脳のリズム変化が、遠方にいるもう一方の脳波と呼応し、変化を引き起こすという実験結果が報告されている」

「そうなんですか。じゃ別にシンクロしたのは男女間の運命の相手とかじゃないんですね」

「そうね」

「乃白瑠君。君がいた東京平成大学教育学部付属の中学・高校では、長期間にわたる双子研究のプログラムの一環として、クラスに二割程の双子がいた筈だよ」

「ああ、そう言えば! って、編集長、それは小桜さんには内緒だったでしょ!」

「アッ! そ、そだったぁ!」

 東平大に二度落ち、東平大コンプレックスの小桜さんに、僕が中・高・大と東平大に在学していた事は秘密にしていたのだ。

 恐る恐る小桜さんの顔を見やると、小桜さんはじっと楓さんを見つめていた。

「……で、話を続けて」

「はい。三歳の時に脳性疾患を患い三重苦の障害者となった、絵本が大好きだった姉と健常者の私は、小さい時から『共時性』を見せ、東平大付属中学校に入学しました。最初はESPカードによる実験から始まり、最終的には簡単な文章に於ける一致性が見られるかどうかの実験が何年も行われ、その実験の結果、私の想像力は細部にわたり姉の想像力に感化されるようになりました。その実験で書かれたのが-」

「この『魔法がきこえる ~南風の足音~』な訳ね」

「そうです。そしてその原稿を、ある人の勧めもあり、私が『虹色文庫』新人賞に応募したんです」


「・・・・・・」


「新人賞を獲って、お姉さんは喜んだんじゃないんですか?」と、僕は尋ねた。


「最初は喜びました。けれど、受賞の理由は小説の出来不出来ではなく、身障者だったからという事を受賞式の時に『虹色文庫』の編集長から意図的に知らされたんです」

 怒りに打ち震える楓さんの声音に、『虹色文庫』に対する僕達の怒りが増幅される。

「彼らは純粋な姉の気持ちを踏みにじった上に、希望に満ちたこの小説の結末を悲劇に変える事を強要しました。変えなければ受賞は取り消し、違約金を払えと脅迫してきました」

「それで、どうしたの?」

「・・・その脅迫に負けた私は、姉に内緒で結末を変えてしまったんです」

「でも、その人の想像力で産まれた「想像国家」は、その免疫機構が働いて、その想像国家の国家警察、想像天使による摘発という形で他人の想像力による改変を阻止する筈ですが……っ! そ、そうか!」

「そう。乃白瑠君のお察しの通りよ。彼女達は一卵性双生児。双子の妹である楓さんの想像力なら、そのお姉さんの「想像国家」の免疫システムに攻撃されずにその歴史を改変させる事が出来るわ。一方が不幸だったら、もう一方が救う!」

「じゃぁもう一度楓さんがハッピーエンドの結末に書き換えたらいいんじゃないですか?」

「乃白瑠君、忘れたの? 多くの他人に自分の書いた小説を読ませたら、『想像国家』の歴史は固定化してしまうのよ」

 という小桜さんの言葉を、顎髭を摩りつつ編集長が継ぐ。

「そうだ。所謂『平行宇宙』に於ける未来の決定だな。量子物理学の理論によれば、この世界で起こる可能性のある事象は全て「存在」する。人はそれぞれ一つの宇宙を抱えている。それを電磁波で繋げる事で相対的に世界を共有する。電子は観測者が見ている時に現れ、見ていない時には何処に存在するかわからない。だから電子は円環の輪となる。輪となれば、観測者が居れば確定出来る可能性を持つ。それは自由自在にその輪の中の何処にでも行けるという事だ。だから時空管理が出来る。それがその円環、カルマの輪廻から解脱した存在」


「一切智威如来・・・・・・」


「その調和システムでは、我々の意志決定が存在する全ての選択肢の中から、ある一つを選び取る、いや、導かれて選ばされる訳だが、捨て去られた残りの選択肢による未来も全て無限に存在しているんだ。他の人の世界でな。だからその人が自分の心の中の世界に悲劇を教えて、その人が救われれば、他の世界で悲劇が起きた人を受け入れる。そうやって世界を救ってきた、時空管理官もいるんだな。同時性をもって、この小説の悲劇の未来も幸せな結末も用意されて、別次元で存在しているのさ。そこに行くか行かないかは、その人の人生を何処かで見ている存在次第だ」


「未来で過去の事象を全て知っている存在ですね……」


「フムフム、なるほろ……」と、小桜さんの最後の言葉をメモに取る僕。

「だが世界的、宇宙的な事象は、この世界全ての存在の意志が複雑に絡み合っている。自分の小説を他人に見せるという事は、他者の意志の介在を許すという事だ。特に編集者に判断を委ねるという事は、意志決定権の放棄を伴う。より多くの人間に読ませれば、それだけ複雑になり、その小説から産まれる筈の『想像国家』の歴史は、その作家の意志を離れてしまうのさ」


「じゃぁ……」


「もう一度書き換えたとして、後は読者の数によるわね。つまりパワーバランスの問題よ。民主主義ね。どちらの結末を読者が支持するか……」

「それにしても、何科学文部省は、『虹色文庫』のような出版社を野放しにしてるんでしょうね」と、僕が疑問を投げかけると、


「わからないわ」


 そう小桜さんが話した所で、テーブルを引っ繰り返す勢いで楓さんが立ち上がる。

「この小説は、姉の流花りゅうかと、姉を支えた伝説のファンタジー小説家の甲乙こうおつ龍之介さんとの想い出の詰まった愛の結晶なんです。その作品から産まれた二人の子供とでも言うべき『想像国家』を営利主義の怨念ルサンチマンで穢したくないんです! お願いです! 悲劇的な結末で出版する位ならそんなシナリオなど消滅してしまった方がましです! この小説を、乃白瑠さん、あなた方の力で成仏させてやって下さい!」


「!」


 楓さんの口から信じられない人の名前が零れた。

衝撃を受ける僕と編集長と、そして、小桜さん……。彼女の瞳孔が開かれる。


「こ、甲乙こうおつ、り、龍之介!」


「編集長、小桜さん、龍之介って……」


 思わず二人の顔を見る僕の視線を振り切るように、

「あなた、本当にそれでいいの? あなたのお姉さんに全てを話し、再び結末を書き換えて個人出版するとかという道もあるんじゃなくて。この小説なら、協力出版、いえ、企画出版だって可能よ。それが無理でも同人誌で発表するとかー」

 個人出版。つまり、出版費用を著者が全額負担する自費出版の事である。そして、協力出版とは出版費用を著者と出版社が折半するスタイルで、企画出版とは出版社側が全額負担する所謂商業出版の事である。


「……それも出来なくなりました」


「何故?!」


「実は姉は、二日前に亡くなりました。昨夜がお通夜で、今日がお葬式だったんです。『虹色文庫』は、明日電子出版で発表する気なんです!」

 楓さんの洋服が黒ずくめだった訳が、漸く明らかになった。

「という事は、作家である愛王流花さんが亡くなってしまった時点で、発表してしまえば、その「想像国家」の歴史は完全に固定してしまう」

 ナイフで身を切るような俄頃の沈黙の刃が、四人の心の水面に突き刺さる。そして、


「なるほどね。……わかりました。この依頼、引き受けましょう。ただし、消滅はなし。いい。最初実際に世界が作られる前の、想像世界の段階にトリップして、これから作られようとする世界のシナリオを救うのが我々。ヘミシンクみたいなものね」

 そう言う小桜さんの声音は酷く透き通っていて、その瞳は過去と決別するような鋭さで、涙を流して頭を下げる楓さんを見つめていた……。

















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