終章
雑踏の中にあるオープンカフェに、彼女はいた。ティーカップに指を絡ませ、優雅に紅茶を飲んでいる。私はその様子を、遠くから眺めている。
どこのカフェだろうか。賑やかな
彼女は一人で誰かを待っていた。緩やかな風が彼女の髪をそよがせて、嬉しそうな表情が見え隠れする。
きっと、私以外の誰かを思っているのだろう。でも、そんな横顔も、とても素敵だった。
大丈夫だ、彼女は私の選択しなかった世界で生きている。彼女がいる嬉しさと、近くにいることができない寂しさが、胸の中で混じりあう。
私は彼女から遠ざかる。夢の中にいる私は、振り返らない。振り返ると、また切なくなるから……。
まどろみの中から目覚める。どうやら、うたた寝をして夢を見ていたようだ。
雑踏の中にある公園で、私はベンチに座っていた。芝生の上では、家族連れや学生たちが楽しそうにはしゃいでいる。遠くには、勤務していた会社のビル群が見える。
季節は冬から春へと、移り変わろうとしていた。暖かい風が寒さを掻き消して、穏やかな色彩を運んでいく。街は色づく準備をしているのに、私の目にはそれが映らないでいた。
彼女がいないという事実。たったそれだけで、世界は
スーツの中にしまい込んでいる黒い塊を握り締める。そこに、何の感慨も見出せない。
空を眺める。一点の曇りもない、青く澄んだ空だ。冬の小さかった太陽は眩しさを取り戻し、穏やかな光が降り注いでいる。
ふと、頬に水滴が当たる。
辺りには、水を飛ばすようなものは見当たらない。不思議に思い、空を見上げる。すると、
「天気雨か……」
雲ひとつない空から、透明な雫がたくさん降ってくる。公園にいた人たちは、慌てて軒下や木陰に入っていく。だが、私はそのままベンチに腰掛けて、雨に打たれ続けた。
細かい雨が肌を濡らしていく。そんな風にしてこの渇いた心も、潤して欲しかった。きっと、慈愛の雨はこんな青空から落ちて来るのだろう。
だけど、慈愛の雨にしては酷く冷たかった……。
どれだけ雨は降ったのだろうか。気づけば、雨は止んだようだった。私は濡れた体を、軽く抱き寄せる。
ふと、人々が同じ方向を見ていることに気がつく。どうしたのだろうかと、人々が注目する方に視線を向けてみる。
そこに、原色の魔法使いが描いたような、大きな虹が見えた。
虹は会社のビル群を囲むように、アーチ状に架かっている。突き抜けるような青空を背景に、七色のすべてが映えていた。
虹の美しさに、私は思わず立ち上がる。手を伸ばせば届きそうなほど近くに存在している虹。しかし、歩み寄っても近寄れず、手を伸ばしても
そして、虹はあり続けることが叶わずに、薄くなって消えていく。後には、眩しい青空が残った。
もうそろそろ行こう。少し時間をかけて、私は立ち上がる。
歩き出す前に、私は一度だけ瞳を閉じて、消えた虹を思う。色褪せた心に、原色が染み込んでいく感覚がする。
そうだ、虹は今もまだ私の心の中であり続けている。様々な出来事の記憶も、そうやって私の心の中にあり続けていく。決して、消えることなくあり続けていくんだ。
瞼を開ける。高く聳え立つビル群を見つめる。
ポケットの中の黒い感触を確かめる。手が鋼鉄に熱を伝えていく。
離れていった温もり、色とりどりの思い出、確かな意志の強さ、それらを胸にしっかりと抱きしめて、私はゆっくりと歩き出した。
(了)
イデアの女神 三機みき @mikimikisanki
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