第14章

 気付けば、私は白い部屋にいた。何もかもが溶けていってしまいそうな、白い部屋だ。


 私は、緑色の服を着せられている。この部屋の中で確かなものといえば、この緑色の服だけだった。


 記憶がいつかの惨劇を思い出す。


 私は千里さんを殺した敵兵に銃弾を乱射した。倒れた千里さんを抱きしめていると、大勢の敵兵がやってきて、私を殺しにかかった。自我を忘れた私はその攻撃をかわして、ことごとく敵兵を撃ち倒した。


 しかし、記憶は断片的であいまいに覚えている程度だ。敵襲を退け、階下に降りたことは何となく覚えていたが、そこから先の記憶は、途切れて思い出せなかった。


 そして、気づいたときには、私はこの白い部屋にいた。その時に、ただ呆然ぼうぜんと自分は生きているのだと思った。


 あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。いや、何日かもしれない。いや、何ヶ月かもしれない。


 私以外の人間というと、全身を白い防護服で覆った人物が、一定の間隔でこの部屋に来ていた。防護服の人物は、私の口にカプセルを無理やり詰め込で、嚥下したことを確認してから去っていく。


 また今も、その人物が薬を私の口に入れて去っていったようだ。もう、これで何度目なのだろうか。こんなことを、私はどれだけ繰り返せばいいのだろうか。


 そっと背後の壁を触る。白い壁のざらついた感触、それだけが生きている実感だった。





 何度目かの目覚め。起きていても寝ていても、大して変わらない状況。


 ただ、今回の目覚めは違っていた。


 私は目の前に、人の気配を感じて顔を上げる。そこに、白いローブを着た少女が立っていた。


 壁にもたれかかった私を見つめる、無表情な少女……。


「上川さん……」


 しわがれた声を上げる。彼女は黙ったまま佇んでいる。

 沈黙の中、互いに視線を逸らすことができずに見つめあう。


「何かあるんだろう……?」


 私は耐え切れなくなり、視線を逸らして話しかけた。


「あなたの処遇が決まりました……」


 小さな消え入りそうな声で、彼女が告げる。


「あなたはこの世界に強く感応しているため、私たちが処理を行うことはできません」


「処理……」


「はい……」


 頭がはっきりとしてくる。


「あなたは適切な処置をされた上で、解放されます……」


「千里さんはどうした? 富樫はどうした? 青井さんはどうした?」


「千里絵梨と呼ばれた女性と富樫新太郎は、こちらで死亡を確認しました。青井涼子はHPAACハパックから死亡の報告が来ています……」


 体が震える。悲しみの震えなのか、怒りの震えなのか、私には分からない。


「ここに、あなたの処遇を決める薬を持ってきました……」


 単調な声でそう告げると、彼女は小さな銃を取り出した。私は撃たれることを、覚悟する。これが薬だなんて、皮肉にもほどがある。何も見ないように、目をきつく閉じる。心音が体中から聞こえる。


 しかし、覚悟を決めたはずなのに、呼吸は荒くなり、体が震えてくる。恐怖心を無理やり押さえつけて、せめて痛みを感じないようにと、願った。


 二発の銃声が響く。


 しかし、銃弾を受けた衝撃や痛みはなかった。目は硬くつむられたままで、体は弛緩しない。耳は発砲の残響をしっかりと伝えてくる。


 私はゆっくりと瞼を開き、体を確認する。緑色の衣服はきれいなままで、一抹の赤も付着していなかった。


 上川さんを見上げる。彼女は銃口を上に向けて、天井に視線を向けていた。床を見るとカメラのような機械が転がっている。その機器はうまくカモフラージュされていて、今まで存在に気づかなかったが、彼女が撃った弾で天井から落下したのだろう。


「薬を運びなさい……」


 音もなく扉が開かれ、黒い空洞が出現する。そこから、白い防護服を着た人物が部屋に入ってくる。全身を分厚い素材で覆われているため、どのような者なのかは分からない。


 防護服を着た人物は両手に一つずつ容器を持っていた。上川さんの傍らに立ち、慇懃いんぎんに一礼して容器を彼女に手渡す。そして、彼女に何か伝えたあと、入り口に戻って黒い穴の中に消えていった。


 再び、扉が音もなく閉まり、溶けるように消え去る。


「これは記憶を操作する薬です……」


 上川さんの言葉で、容器に視線を移す。容器は瓶の形をしており、それぞれに赤と青の液体が入っていた。


「あなたの処遇とは、いずれかの薬を飲み、今後、私たちとの接触を一切絶つことです……」


 私は容器を見つめたまま、次の言葉を待つ。


「先に話しておきますが、これは毒薬ではありません。私たちはワールドディアのあなたを手にかけることができないので、安心してください……」


 上川さんは淡々と説明を続ける。


「赤い薬はチェスが用意しました。この薬はすべての記憶を消す効果があります。以前、あなたに記憶を消す薬を飲ませたらしいのですが、第七世界で製造していたものだったため、効果がありませんでした。今回の薬はこちらの世界で製造したので効果があります。あなたは今までの記憶を無くし、どこかの病院で目覚め、新たな人生を歩むことができます……」


 彼女は赤い液体を見つめた後、青い液体に視線を向ける。


「これは私が独断で用意した薬です。青い薬は昏睡状態になるだけで、何も変わりません……」


 彼女の言葉に違和感を覚える。何も変わらない薬を、どうして飲ませる必要があるのか。


「どうして青い薬なんか用意した……?」


 しわがれた声を絞り出すようにして尋ねる。

 上川さんは視線を下に落として、問いかけに答えない……。


「どうしてそんなものをあんたが用意する?」


 二度目の問いかけに、彼女はゆっくりと視線を上げる。


「私の罪滅ぼしです……」


「罪滅ぼしだって? なんでそんなものが罪滅ぼしになる?」


「これ以上、私や第七世界の者たちはあなたに介入してはならないと考えました。過去の記憶を操作する権利なんて、私にはありません。このような方法は、私の勝手な罪滅ぼしや自己解決かもしれませんが……」


 少しだけ、彼女の言葉が途切れる。


「ですから、一方的に記憶を消すのではなくあなたに選択の機会を与えようと思ったのです。記憶を残すかどうか、あなたが決めてください……」


 近づいてくる少女。手をかざせば、届きそうな位置まで彼女との距離は縮まる。


「最初は、チェスの作った赤い薬は捨てて、青い薬だけ渡そうと思いました……」


 上川さんはしゃがみ込み、二つの瓶を私の前に並べる。

 黒い髪が白いローブの肩にかかり、滑らかな衣擦きぬずれの音がする。


「これ以上、私たちはあなたに介入してはいけない。それがせめてもの罪滅ぼしになると、私は思いました……」


 容器の中で揺れる、赤と青の液体……。


「ですが、このようにも考えました。あなたは酷く辛い経験をした。それなら、記憶がなくなったほうが幸せなのではないかと……」


 彼女は緩やかに立ち上がる。ローブと肌とがれ合う音がする……。


「私には、どちらがいいのか分かりません。記憶を残すことが苦痛になるのか、記憶を消すことが過ちなのか。私は、正解は……。木原さん、あなたの心の中にあると思います……」


 私は、ただ項垂うなだれる。


「木原さん、あなたが、これからのあなたを選んでください」


 促す抑揚よくようの少ない声。それにつられて、震える手を伸ばす。


 私は、赤い薬を手に取った……。


 ゆっくりと麻痺したような指で、瓶の蓋を開ける。手が震えて、液体が波打つ。

どうして僕がこのような目に合わなくてはならないのか。こんなおかしなことありえるわけがない。記憶を消してくれるって言うのなら、願ったり叶ったりだ。もうこんなことは終わりにしてやる。もうこんなことは忘れてやる。


 こんな狂った出来事は無かったことにすればいい。こんな理不尽な経験は捨ててしまえばいい。こんな嘘ばかりの記憶は塗りつぶしてしまえばいい。こんな悲しみや痛みは消えてしまえばいい……。


 そう思って、赤い薬を飲もうとしたときだった。


 途端に、目から涙が溢れ始める。透明な雫が、いくつも頬を伝って流れていく。

 思うことは、千里さんのこと……。私の記憶は、千里さんのことを思う。

 追憶の映写機が廻るように、緩やかに、千里さんとの思い出がよみがえる。


「こんにちは、普通の木原さん」

 彼女の姿に、見惚れてた……。


「木原君の趣味は何ですか? よければ、お聞かせください」

 彼女の優しさに、惹かれた……。


「ありがとう、木原君」

 彼女が笑うと、嬉しかった……。


「月、今夜も綺麗ですね……」

 彼女の声が、癒してくれた……。


「クリスマスも、一緒にいてほしいな……」

 彼女の存在が、安らぎだった……。


「優しさも時には、柔らかい棘になることを知っていて下さい」

 彼女の痛みが、苦しかった……。


「木原君、きつい……」

 彼女の悲しみが、悲しかった……。


「木原君」

 彼女のことが、好きだった……。



 色鮮やかな思い出たち。もう、私の中に抱えきれないほどにたくさんある。

 千里さん、あなたを忘れることなんて私にはできない。富樫、青井さん、上川さん、あなたたちを忘れることなんて私にはできない。記憶を消すことなんて、私にはできない。


 だけど僕も辛いんだ……。僕も苦しいんだ……。

 私の周りは偽りだらけで、ずっと欺かれ続けた。もう十分だと、軋む心が伝えてくる。これ以上、耐えることはできないと、もう一人の自分が助けを求めている。

 記憶を残すことは、あまりにも……。


 涙で、前が見えない。口からは嗚咽おえつが洩れる。


「僕は、僕はどうしたらいい!?」


 答えられない問いを、震える唇が伝える。


「みんな嘘ばっかりついて、僕を騙して……! 勝手に計画やら、恋愛ごっこやら、戦闘に巻き込んで! 千里さんは計画なんかで、僕に近づいて好きな振りをしていた! 青井さんは訳の分からない団体の人員で、僕たちを監視することが目的だった! クリス=ノアイ、あんたもだ! あんたも僕たちを騙して、第七世界のために千里さんをそそのかして僕らを監視していた! それに千里さんも、富樫も、青井さんも、みんなお前たちのせいで殺されたんだ!」


 私を見つめたまま、彼女は黙っている。


「こんな普通じゃない記憶、こんな要らない記憶、消してしまったほうがいいのに! 消してしまえばいいのに!」


「……」


「でも、できない! 千里さんのことを僕は忘れるなんてできない! みんなのことを、忘れるなんてしたくない!」


「……」


「記憶を消すことも残すことも、僕にはできない!」


 突然、彼女は私の前にしゃがみ込む。目線の高さが同じになる。大きな瞳が私を覗き込む。そうして、彼女はゆっくりと瞳を閉じて、私に口付けをしてきた。

ただ、唇をあわせるだけの、軽い口付け。


 二人の頬がわずかに触れ合い、唇のやわらかな温もりが微かに伝わる。それら少しの感触が、この部屋の中で一番確かなものだった。


 彼女が離れる。言葉を、私は忘れる。


「私はあなたを騙し続けました。どれほど罪をあがなっても、どれだけ罰を受けても、償いきれないでしょう。私はあなたの言うとおり、嘘や偽りばかりです。ですが、本当のこともあります……」


 彼女はそこで言葉を止めて、白いローブを揺らめかせ立ち上がる。そして、寂しそうに微笑んだ。


「私はあなたたちと一緒にいるとき、とても楽しかった。あなたたちと別れるときは、とても悲しかった。私はいつまでも、あなたたちと一緒にいたかった。信じてもらえないかもしれませんが、この気持ちだけは本当です」



 彼女は、私の元から白い壁に向かって歩いていく。


 壁に手をかざす彼女。再び、扉が開かれて黒い空洞が現れる。

 去り際に、彼女は背を向けたまま、言葉を告げる。


「二回目ですね……」


 小さな声なのに、はっきりと聞こえる。


「さようなら……」


 短い別れの言葉。それだけ言い残して、彼女は漆黒の闇に消えていった。


 扉が閉まる。私は薬瓶を手に取り、口に流し込む。途端、意識が遠のく。消える自我の中で、私は呻くように呟く。


「上川さん、あんた残酷だよ」

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