第13章

 人工の暖かく乾燥した空気が、部屋の中に漂っている。室内にはシングルベットが一つあり、必要最低限の電気製品がサイドボードに並んでいた。照明はベッド脇の小さな電灯だけ点けており、そこ以外は薄闇が漂っている。


 ここは会社のビルから遠く離れたホテルだ。私と千里さんはタクシーを何回か乗り継ぎ、ここまで辿り着いた。


 とりあえず、安全が確保できる場所ならどこでもよかった。タクシーに乗り込むときやホテルでチェックインを済ませるとき、怪訝けげんそうな目つきで私たちは見られたが、気にしている余裕などなかった。


 私の家に帰ることも考えた。だが、すぐに嗅ぎ付けられて襲撃されるのは目に見えている。この選択は間違っていないはずだ。


 千里さんはベッドで眠っているが、時折り彼女は苦しそうに息を詰まらせる。それを、私は為すすべもなく見つめる。


 これからどうすればいいのか、全く分からなかった。考えれば考えるほど、答えは出てきそうになかった。


 私はぼろぼろになったスーツを脱ぎ捨て、黒い耐性スーツだけを身に着けている。気づけば、体の汗は消失したようだ。脱いで体を洗おうかと思ったが、いつ敵の襲撃がやって来るか分からない。まだ、戦闘は終わったわけではない。


 千里さんの顔が、苦悶くもんゆがむ。

 フェイスタオルで、彼女の汗をく。タオルで拭えなかった汗が流れて、シーツに黒い染みを作る。


 彼女にかけた毛布から、傷ついた肩口が覗く。緑色の衣服についた痛々しい血痕。こんな狂った凶事を早く終わらせて、赤くにじんだ服を脱がしてあげたかった。


「千里さん……」


 彼女の名前を確かめるように呼んでみる。ただ、彼女は悪夢にうなされるように、弱々しく呻くだけだった。





 白くまぶしい。夢を見ている私は、光の中にいた。何もかもが、光で消えてしまいそうだ。


 遠く、私を呼ぶ声が聞こえる。懐かしい、暖かい声たち。


 光の向こうに、四人の人影がある。光に眼が慣れるように、次第に人影の形がはっきりとしてくる。


 千里さんと、富樫と、青井さんと、上川さんだ。みんな、スーツを着込んでいる。


 千里さんが、こちらを見て微笑んでる。富樫と青井さんがこちらを見て笑っている。上川さんが、じっとこちらを見つめている。


 私は彼らに近づこうと一歩、踏み出そうとする。しかし、まるで私の場所だけ重力が強くなったように、足が前に進まない。もどかしい焦燥だけが、ただ募っていく。


 段々と離れていく、四人の姿。私は待ってくれと、懇願する。


「木原君、私はここにいます」

「木原、俺はここにいるよ」

「木原、うちはここにいるで!」

「木原さん、私はここにいます……」


 光の中に吸い込まれていく彼らの姿。絶望にも似た感情に、私の歩みは止まる。そして、彼らは眩しい白光の中に、ゆっくりと消え去っていった。






 気づけば、私は眠りに落ちていた。軽い前後不覚に陥りそうになる。


「起きたのですね」

 

 閉ざされた窓辺から、声が届く。

 千里さんだった。彼女は何事も無かったかのように微笑みかけてくる。


「千里さん……」


 エアコンの暖気がカーテンを微かに揺らす。私は思わず立ち上がる。


「怪我は大丈夫……?」


「ええ、かすり傷です。大したことありません」


 彼女は緑の手術衣の上から傷口を覗き、そっと細い指先で触れる。


「いつまでここにいるつもりですか」


「分からない。でも、富樫が連絡を……」


 私が言い終わる前に、彼女が口をはさんでくる。


「富樫さんは来ませんよ」


「えっ……」


「富樫さんは私たちと逃げるなんて考えてなかった」


「でも、富樫は麗奈さんのデータも奪うことができたし、それに、僕たちの後を追ってくるって……」


「そんなの嘘です」


 彼女は、はっきりとした口調で断言する。


「どうして嘘だって分かるんだ? そんなの誰にも断言することはできない」


「木原君は忘れたのですか」


 彼女の変わらぬ笑みと、私を少し揶揄やゆするような話し方で気づいた。


「私は人の心が読めるのですよ。富樫さんの心を読むことなんて容易たやすいことです」


「富樫はなんて考えていた」


 突発的に、彼女に聞き返す。


「彼はチェスの殺害を遂行しようとしていました。そして、施設の徹底破壊を行うことも考えていました」


「でも、富樫は僕たちと一緒に逃げようとしていたじゃないか」


 彼女が少しだけ間を置く。


「私たちを、逃がそうとしたためです」


 そこでようやく、私は気づいた。


「あなたに自分を置いて逃げろといっても聞かないでしょう? だから、彼はわざわざ途中まで一緒に行動して、敵が来る頃合を見計らって私たちを避難させた。ミラさんが来たのは偶然でしたが……」


「富樫は無事なのか……?」


「彼は自分の命に執着していませんでした」


 その言葉で、十分だった。



 体の震えが、何とか落ち着く。


「いつから意識が戻ったんだ」


「あなたたちがチェスと喋っているときからです。話もすべて聞いていました」


 彼女はそう言いながらカーテンを静かに開ける。窓には明け方の紺色をした空が広がっている。その中に、ガラス細工のような白い月が浮かんでいた。


「緑色の服。ピエロには相応しい服装ですね」


 ぽつりと、感慨なく呟く千里さん。


「私にお似合いですね。いつも人に忌み嫌われるのが怖くて、自分の内面を隠して、笑顔という仮面をつけてニコニコしていて。おまけにいろんなものにも操られて……。あはは、馬鹿みたい」


「千里さん」


 私は一歩、足を踏み出す。


「近づかないで」


 拒絶の言葉で、彼女が私の動きを制す。


「慰めの言葉をかけてもらう資格なんて、私にはありません」


「どうしてそんなことを言うんだ。僕は千里さんが……」


「まだ分かっていないのですね」


 彼女は微笑みながら、私の瞳を覗き込む。心を読む動作だと、私は気づいて身構える。


「まだ木原君は信じている。木原君は私が思いやりがあって、優しくて誠実だと心の中で思っている。私、いなくなる前にも言いましたよね。私が人に優しくするのは、笑顔でいるのは自分のためだって。私はあなたが考えているような人間じゃない。自分可愛さに人に優しくしたり、笑顔でいたりしていただけ」


「私は木原君やみんなを、そうやって騙していた。それにあなたのことを好きな振りをした。酷い嘘だってたくさんついた。あなたたちを騙すことで、私は普通の生活や自由を手に入れようとした。私って最低でしょう?」


「もういいから」


「その結果がこれです。騙そうとしていた私のほうが、騙されていたんです」


 彼女から表情が消えていき、うつむきながら話し続ける。


「きっと普通の生活を望むために、体を売り渡した天罰が下ったんです。自業自得ですよね」


 自然と体が千里さんへ歩み寄る。


「私は決して手に入らないものを、無いものねだりしてたんです。でも、決して手に入らないと分かっていても、求めずにはいられなかった。どうして普通の人が持っているものを、私は持っていてはいけないの? どうして、普通にあるものが私にはないの? どうして、普通のことを求めるために、こんな代償を払わなければならないの?」


 彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちる。彼女の顔から、いつもの笑顔は消え失せていた。


「こんなに辛い思いをしてまで、生きなければならない意味なんてあるの? どうして私だけ、こんな思いをして生きていかなければいけないの? 私なんてやっぱり、生まれてこなければよかった。私は……」


 強引に抱き寄せて、彼女の言葉を遮る。


 彼女の体が、私の胸に埋没する。私の手が彼女の傷ついた体を包む。彼女の髪の質感、彼女の胸の感触、彼女の背中の温度。女性の物理的な柔らかさを感じ取る。だが、そこに以前抱いた時の喜びはない。


 無言の抱擁ほうようが続く。時の粒子は、乾いた空気の中で、ゆっくりと廻っていく。でも、彼女の腕は下がったままで、決して、私を抱き返してこない。


 朝に、夜と月が沈む。窓の色が私と彼女を青く染める。私の青と、彼女の青。同じ色なのに、違ったように見える。同じ青なのに、一つになれないでいる。私はその青を同じものにしようとして、強く彼女の体を抱きしめる。


「木原君……」


 彼女の声に、鼓動がとくんと反応する。


 私は言葉の続きを待つ。刹那せつなとも永遠とも感じる言葉の間。夢なのか現実なのか解らなくなる言葉の間。消え入りそうな、か弱い声で、彼女はつぶやく。


「木原君、きつい……」


 悲しみは、悲しみでぬぐえない。





 夜が明ける。

 千里さんは、ベッドの上で苦しそうに息を切らしている。薬の効果が切れたらしく、彼女の容態は時間が経つにつれて悪化しているようだった。


「千里さん……」


 時々、意識を確認するため彼女の名前を呼ぶ。聞こえているのか、聞こえていないのか、彼女は目を固く閉じたまま荒い呼吸を繰り返しているだけだった。


 このまま、この場所に留まっていてもいけない。でも、どこに行けばいいのかも分からない。完全に進退きわまった状態だった。


 どちらにしろ、千里さんはこのままだと更に危険な状態に陥ってしまう。急いで薬を手に入れなければならない。


「くそっ、どうすればいいんだ」


 千里さんの額に、汗がにじむ。


「考えろ、よく考えろ」


 様々な選択肢を吟味する。それぞれの場合をシミュレートする。安全性と危険性を考察する。


 やはり、私の家に薬を取りに行くことが一番安全な気がする。少しではあるが、薬が確実にあるということと、襲撃された場合でも土地感があるため、逃れられる可能性が高い。


 ここに千里さんを残すことは躊躇ためらわれたが、残された時間は刻一刻と少なくなる。耐性スーツの損傷を調べる。必要なものを手に取る。


 突然、ノックの音がする。


「モーニングサービスです」


 モーニングサービス、そんなもの私は頼んだ覚えはない。出るか無視するか思案する。執拗なノック音が続く。


 しかし、こんな格好で出れるわけない。しかもこちらには銃もある。銃なんて見つかったら、どのような言い訳をしなくてはならないのか。


 私は声を潜め、早く去って欲しいと舌打ちする。


「お客様、いらっしゃらないのですか」


 丁寧なボーイの声。嫌な予感がする。


「いらっしゃらないのですか。それでは勝手に入室いたしますね」


 いきなりドアの蝶番ちょうつがいが爆発する。白煙がドアノブから部屋に流入してくる。


 ドアが開かれた瞬間に、私は銃弾を打ち込む。相手に着弾したか確認せず、千里さんの体を抱き、入り口からの死角に隠れる。千里さんが目を薄っすらと開ける。


「今、敵襲が来た」


 短く事実を告げ、戦闘に専念する。


 敵は銃撃してこない。入り口に移動して、開放されたドアから廊下を覗く。もやのような白煙の中、人が倒れているのが見えた。適当に撃った銃弾は、敵の兵士に当たったらしい。


「この建物も危険だ。とにかく、ここから脱出しよう」


 千里さんは何も言わず立ち上がる。彼女は苦しそうに呼吸しながら、よろめいた足取りで私に付いてくる。倒れた敵兵の横を通り過ぎる。私はなるべく、敵兵を見ないように視線を外して進む。


 ホテルの中は惨劇が広がっていた。まだ、ホラー映画を見たほうがましだ。客室はことごとく破壊されており、客室には赤い鮮血が飛び散っている。人々はベッドの上で寝ているのではなく、玄関の前で絶命していた。


 生き残った数少ない宿泊客は、私を見て断末魔のような叫び声を上げている。自分の手には黒い兇器きょうきを持つ。怪しげな黒い耐性スーツを着ている。おまけに、廊下には惨殺された人々がいくつも寝転んでいる。


「くそっ! これじゃあ、僕が人殺しみたいじゃないか!」


 千里さんを連れてエレベーターホールに急ぎ、昇降ボタンを押す。


「ボタンが反応しないっ!?」


 どちらのボタンを何度押しても、エレベーターが来る気配はない。自暴自棄になって銃の台尻で昇降ボタンを叩き壊す。プラスチックの割れる音が床に散らばる。


「階段しか残っていない」


 引き返すためにホールから出る。廊下は一直線になっており、一番奥の部屋まで見渡せる。先ほどと同じように、ドアの前には点在するように死体が転がっている。


 突如、腕を引かれた感じがした。


「千里さん?」


 千里さんの足取りが急に遅くなる。呼吸するのもかなり辛そうで、顔を苦痛でしかめている。今の状態では、彼女は階段さえも降りられそうにない。私は彼女を抱き上げようとする。しかし、彼女は私の手を退しりぞけると、見えないものにぼんやりと語りかけるように呟いた。


「もう、ここで殺してください」


 一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。


「な、何言ってるんだよ、千里さん。さあ、早くここから逃げ出そう」


「これ以上、歩けません」


「だったら僕が抱いて運ぶ」


「第七世界は多勢で攻めているはずです。私を抱いて移動していては、どちらも助かりません。それならあなたが助かればいい。どうせ私の命は、薬なしではもう短い」


「薬ならすぐに取ってくる。まだ何錠か残っているはずだ」


「それぐらいではすぐに無くなってしまいます。それに、この状態では薬がある場所まで辿り着けないでしょう」


「でも、取り敢えずこの場所から逃げないと」


「ですから、私がいてはあなたは助かりません。さっきも言ったでしょう」


「それでもだ。僕は千里さんと一緒に助かりたいんだ」


「一緒に助かることは無理です。分かってください」


「さあ、早く行こう」


 彼女の言葉を無視して、手を取り抱こうとする。しかし、彼女は動こうとせず、私に体を預けてこない。


「それに、どうせ死ぬなら第七世界には殺されたくありません。だから、木原君、あなたが殺してください。こんな凶事に巻き込んでしまったつぐないにもなります」


「そんなこと無理に決まっているだろう!」


 自然と、大声が出る。そんな私を見て、彼女は優しく微笑む。


「もう、生きることに疲れたんです。あなたの手で休ませてくれませんか」


「嫌だ! 早く逃げよう! こうしてる間にも敵がせまっているんだ!」


「だったら、私に銃を渡してください。自分で撃ちます」


 彼女の手に渡さないように、銃を抱き寄せる。


「分かってください、木原君。もう私はここまでなんです。彼らの手にかけられるよりはいっそのこと、この場で楽になりたいのです。例え逃げ出すことに成功しても、薬も残り少ない。結局、私は苦痛を長引かせて死ぬのですから」


「殺されるや死ぬなんて口に出すなよ! まだ助かる見込みはいくらだってある! 最後まで諦めちゃだめだ!」


「あなたは何も分かっていないのですね。そうやって希望を残すことが一番残酷だってことを」


 背中を折り曲げて、き込む彼女。吐血した血が、彼女の指に絡み付く。


「ほら、血がこんなに出てる。もう手遅れです」


「手遅れじゃない、行こう」


 千里さんの言葉を無視して、彼女の手を取る。二人の指に、血が絡まる。


「だから、私がいては……」


「人は生きなきゃ、生きなきゃ嘘だっ」


「……」


「どんなことがあっても人は生きなきゃいけない。どんなに人生が残酷で苦痛なものだろうと人は生きなきゃいけない。千里さんが生きることに耐えられないのなら、僕が支える。僕が千里さんを苦しめたり悲しませたりするものから、必ず守り抜く」


 彼女の手を、強く握る。


「どんなかたちでもいい。僕は千里さんに生きていて欲しいんだ。ただ、千里さんに生きていて欲しいんだ」


 彼女の瞳が、私を見つめる。


「だから僕を信じて、今は体を預けてほしい。お願いだ、千里さん」


「……」


「行こう」


 俯く、彼女。沈黙が辺りを支配する。


「私は……」


 そう言って千里さんが顔を上げた瞬間、彼女の目が見開かれる。そして、彼女は飛び込むように、私を押し倒した。


 直後、数発の銃撃音がする。


 私は廊下に倒れこむ。突然の彼女の行動に、私は状況が飲み込めないでいる。

何が起こったのか把握しようと、すぐさま視線を彼女へ向ける。そこには、血だらけの千里さんが立っていた。


「千里さん……」


 すべてがスローモーションになる。


 彼女は緑色の服を、深紅しんくに染めてたたずんでいる。胸元からは鮮血が流れ出ている。


 ゆっくりと、振り返る千里さん。彼女は目を優しく細めて、私に微笑む。


「よかった……」


 その一言を残して、彼女は倒れこんだ。


「千里さんっ!」


 倒れた彼女に近づき、血まみれの体を揺するように抱く。そこに生命いのち灯火ともしびは宿っていなかった。


 声にならない声が、口かられる。


「ちい、被検体のほうか」


 声がする。男の声だ。私の部屋の前から聞こえる。死んだと思っていた敵兵だ。

殺したはずの男、部屋の前にいる男、倒れたままの男、銃を持った男、彼女を殺した男。


 彼女の体を地面に横たえ、声にならない叫び声をあげ、男に銃弾を浴びせかける。男の体が、飛び散るようにのたうつ。私は糸の切れた操り人形のように、床に座り込む。呼吸が細かく震える。声が音にならない。体に力が入らない。


 すぐ横にいる千里さんに視線を向ける。彼女の顔は無表情のはずなのに、何故、私は穏やかだと思ったのだろう。


「千里さんっ!」


 彼女の体をただ抱きしめる。私の腕に力なく、もたれかかる彼女の体。儚い生命いのちを宿らせていた体は、こんなにもとうとくて重たい。


 熱い涙が、彼女の肌と緑の衣服を濡らす。震える手が、彼女の体を離したくないとしがみつく。声が、彼女の名前を呼び続ける。胸が、彼女の体に必死で熱を伝えようとする。でも、彼女の体は動かず、冷たくなっていく。

 私にはただ、冷えていく彼女の体を抱きしめることしかできなかった。


 遠く、敵襲の声。


 最後に、私は彼女の体を一際強く抱きしめて、ゆっくりと立ち上がる。胸に付いた彼女の血を、左手で拭い銃器に塗りこむ。一角獣ユニコーンの描かれた銃が、彼女の血で赤く染まる。


 敵襲を目視する。私は呪いの言葉を呟き、敵に向かって駆け出す。


 自我が白消ホワイトアウトする。意識が黒失ブラックアウトする。ただ感覚だけで動作を行う。徐々に、消失する世界を感じる。


 私は消えていく自分自身の終わりに、鋼鉄の冷たさを指先に感じた。

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