エピローグ

 2121年4月4日。

 かすかに残る肌寒さが、季節は春をむかえたばかりだと教えてくれる。

 むかし、だれかが「未来の日本は乾期と雨期しかない」といっていたことを思いだし、少し息の上がった桜子はデコボコした足元に注意しながら「ちがうよ」とつぶやいてみせた。

 桜子の眠っているあいだに気候は変わりつづけ、日本はずいぶん春が早くなった。関東が葉桜になり、北国のここ、松前ではちょうど見頃が近づいている。字担山あざかつやまの登山道を行く桜子の足元にはツクシが頭を出し、ユキザサの新芽がみずみずしい。

 すでに雪は解け、通り過ぎたせせらぎの音がまるで踊るように今も耳に残る。気温も少しずつ上がってひんやり冷たい風がなごり惜しげに頬をなでていく。

「おや。道がちがいますか、サクラコさま」

「道じゃないよ、トレバー」

 トレッキングシューズが土を踏みしめる感覚を味わいつつ振り返ると、陽焼けし、継ぎ目の走るスキンヘッドが首をかしげていた。限りなく黒に近いブラウンの目が桜子を見つめ返している。立ち止まったトレバーは手で汗を拭うが、もちろんそのオーガスキンは、雫の一滴、ついていない。

 道の端に咲いた菜の花をしゃがんで触れながら、

「ほんとうに春がきたんだね」

 と桜子が目を細める。その背中へヒューマノイドの落ち着いた声が尋ねた。

「春がお嫌いになりましたか」

「そんなことないよ。ただ……信じられないだけ」

「では、なおさら確かめなければなりませんね」

 となりに屈んだトレバーが桜子の右腕を指す。袖をめくると銀の腕輪バングルが木洩れ日に輝いた。桜子の指が三つのリングを留めている楓の葉をなでると、小さな駆動音と共にプロジェクターが光を発した。

「地図はどちらを指していますか?」

「東のほう。登山コースをはずれるみたい。……トレバーはここ、おぼえてる?」

 残念ながら、と肩をすくめるトレバーの仕草は滑らかだ。

「ご生家へのルートは、ワタシの記憶メモリーにもないのです。この欠けかたは、意図的な消去ですね」

「そっか」

 短く答えた桜子がもう一度、ホログラフィの地図を確認する。

 立ち上がり、山奥へと自分の足で歩いていく少女の背中をトレバーは無言で追いかけた。


「うわぁ……」

 獣道を抜けると鬱積とした林が途切れ、目の前が明るくなる。足を止めた桜子の前にはちょっとした空き地が広がっていた。

 校庭ほどもない、森の中のひらけた場所。

 そこに、おとぎ話に出てくるような丸太小屋がひっそりと建ち、生い茂った緑にしずんでいた。蔦の絡まった三角屋根に四角い煙突が生え、軒下のテラスには、丸テーブルと椅子がモニュメントのように草木と一体化している。玄関にいたっては、茂みに背丈を越されてドアノブすらみえない。

 だが、桜子が顔を輝かせる先は、屋根よりも上のほうだ。蒼天めがけ、枝に支えられた無数の花毬が風にゆれている。

 小屋から少し距離を置いた場所に、その一本桜は凛と根を下ろしていた。

 山中のぽっかり開けた土地に降り注ぐ陽の光を一身に集めるように、まっすぐ伸びた幹の先で赤みの強い花が開いている。花と同時に芽吹く葉もまた赤く、見あげるとまるで青空に紅色の花柄を縫いつけたようだ。

 二十メートルを越す樹高を支える幹は、桜子が優に収まるほど太い。縞模様の瘤が浮き出た樹皮は白く、よわい百年を超すこの樹がまだ若いことを示している。広場を吹き抜けていく風にしなる枝が、若さを誇示するように小屋の屋根へ影と花びらを落とす。すっかり背丈を追い抜かれた小屋が桜化粧しているみたいだ、と桜子は思った。

「きれい」

 ひときわ目立つ一本の大木へ、ゆっくりと足を進める。近づくにつれて地面が色づいていくものの、舞い散る花びらに限りはなさそうだった。持ち上げた桜子の手にひらりと、花びらが二枚降り立つ。

 ふいに、その手首が光りだした。

「あ、パパの腕輪!」

 楓のホログラフィプロジェクターが触れてもいないのに宙へ像を描く。

「……さくらの、つぼみ?」

 茶色のずんぐりむっくりしたそれは、まるでタケノコのように萼が互い違いについている。桜子が花の蕾だとわかったのは、茶色の萼が縦に割れ、桃色のが飛び出ていたからだ。

 だが、よく見ようと顔に近づけた途端、花びらの実がすぼんだ。

「おや。これは、エゾヤマザクラのツボミではありませんか。ソメイヨシノに比べ、花冠が大きく色も濃い。ツボミでも色鮮やかな花弁がしっかり頭を出していますね。ワタシの満開走査スキャンでは見つかりませんでしたよ」

 腰を屈めたトレバーにバングルを近づけると、さらに蕾がしぼんでいく。

「トレバー、なんかした? つぼみが小っちゃくなったよ?」

「めっそうもありませんサクラコさま! 百年、お傍にいたこのワタシをお疑いになるなんて……。ああ、ハートコアが傷つきます……おや、サクラコさま?」

 仰々しく片手を胸に当てて項垂れるヒューマノイドが顔をあげると、既に、空と同じ色をした背中がいなかった。見回すまでもなく、トレバーのカメラはヤマザクラの幹を廻る桜子の姿を捉えていたが、こうも華麗にあしらわれるとヒューマノイドの"心"も、少し複雑だ。

 目尻にシワを作りながら「子の成長は早いものです」とつぶやくと、大気汚染の改善に貢献してきた浄化肺ラングノイドから濾過された空気を吐く。それからトレバーは幹の反対側にいる桜子を追いかけた。

お嬢さまマイディア、ご生家はこちらですよ」

「トレバー……これみて」

「……どうしました?」

 立ったまま動こうとしない桜子。その声がふるえていることを察したヒューマノイドが木洩れ日の降るあどけない横顔へ目をやる。唇をかみ締めているような表情はつい最近も目にした。トレバーが上国の死を伝えたときだ。

 答える代わりに桜子の腕がすっと、幹の根元を指した。

 色白の手首で紅葉の象徴がまばゆい光を放っている。プロジェクターが映し出すホログラフィは、蕾だった紅色の濃い桜が咲き誇っていた。

「パパの、めがね」

 、大地をつかむヤマザクラの根元でチカチカと、日光を反射していた。テンプルつるが完全に幹に取り込まれ、その過程でフレームが歪んだのか、レンズにはヒビが走っている。枝木が傘になったおかげで横長のレンズの汚れは少ない。曇ったレンズを這っていたダンゴムシが滑り落ちて土を転がっている。

 特徴のない銀縁眼鏡は身だしなみにこだわらない彼が唯一、カスタムオーダーした代物。かつてのトレバーのボディと同じ、炭素合金グラフェンステンのフレームは針金ほどの細さで驚異的な強度を誇る。彼がそれまで使っていたメタルフレームは幼い桜子が遊んでいるときに壊してしまい、使用者本人よりも破壊した桜子が大泣きしたエピソードをトレバーは記憶していた。換えの眼鏡はどれも桜子が気に入らず、結局、見た目の変わらない角縁眼鏡で落ち着いた。「遊んでもぜったいに壊れない」よう新素材ハイパーマテリアルを使用した上国は、「ぼくより眼鏡に懐いてる」と自嘲したものだ。

 遠い過去の記憶が溢れ、ついと眼鏡へ手を伸ばしかけたトレバーを懐かしい声が呼び止めた。

「『……やあ、トレバー。用心深いおまえのことだ。警戒して桜子にはまず、これを触らせないんだろうな。まさか感極まって、さきに手を出すこともないだろうし』」

「ジョウコクさま!?」「パパっ!」

 一人と一体の声が重なる。弾かれたように桜子がしゃがんで眼鏡を取りだそうと樹皮に爪を立てた。

「『おまえが一思いに踏みつけても耐えられるのは、桜子がちいさいときに試しただろう? だから、これにメッセージを吹きこんでる』」

「トレバー手つだってよっ!」

「お待ちくださいサクラコさま」

 素手で樹皮を剥ごうとする細い腕をつかみ、トレバーがホログラフィを指さす。泣きそうな顔が一瞬、怒った表情をうかべるが、ヒューマノイドの意図を察した桜子は振りほどこうとした手を止めた。

 ホログラフィのヤマザクラが散りはじめていた。一輪の桜は花びらが既に二枚もなくなっている。ふるふると頼りない三枚目が散るのも時間の問題だろう。トレバーのセンサは、上国の"メッセンジャー"が限界に近いことを告げていた。筐体フレームが頑丈でも、内部パーツの耐久性は遠く及ばない。

 ヒビ割れたレンズには人の顔とおぼしき映像が光っていたが、表情までは読み取れない。マスタリング用に録画しながら、映像の上国は晩年ではないとトレバーは推測する。かつての覇気も鼻にかけるような口調も失せ、年若に見られがちだった相貌は古傷が顔の半分を覆い、老爺のように萎びている。還暦の頃に撮られたものだとすると、眼鏡型メッセンジャーは七十年も山奥に埋もれていたことになる。バングルに反応して起動しただけでも奇跡的だ。

「『……ここに来る道は、メモリーから消えているはずだ。オレの頼みを反故にしていなければ、だが。そうすると道案内は桜子しかいない。ということはトレバー、やり遂げたんだな。おめでとう。よく桜子を守り抜いてくれた。ありがとう、トレバー』」

 明るい口ぶりとは裏腹に、光をなくしたトビ色の目が後悔を湛えている。かすれた声がいっそう、際立った。愛する者を自ら手放し、自分を哀れみながらも空虚な人の形ヒューマノイドを生きる姿は、在りし日の片鱗さえ残っていなかった。

「『桜子』」

 それまでじっとしていた桜子は、父の録音に呼ばれてハッと顔をあげた。そっと手を離し、トレバーが後ろに下がる。だらりと垂れた腕が散りぎわの桜を宙に浮かせていた。残った二枚の花びらの片方が見えない風にゆすられている。

「『お誕生日おめでとう』」

「え……どうして……」

 戸惑う声に応えるように、桜の幹と一体化した眼鏡スピーカーが上国の声を鳴らしつづけた。

「『誕生日じゃなかったら、ごめん。でも、だいぶハッピーバースデイしてなかったから、いいよね。桜子はもういくつになったのかな。22歳? 28歳? さすがにぼくより歳上ってことはないだろうけど』」

 笑いを含んだ声はしかし、自分の予想が外れることはないという自信にあふれていた。

「わたし、もう……」

 白むほど固く握った桜子の拳がふるえていた。消えゆく声が言葉にならない。

「サクラコさま」

「……いいの」

 踏み出しかけたヒューマノイドの一歩が止まった。執事として出しゃばった真似は要らない。

「『ぼくはね』」

 息を吸い込む音がして、上国の声が固くなる。トレバーには罪を告白してなお、懺悔の欠けらもない者の言葉に聞こえた。

「『桜子を眠らせたのは正しかったと、いまでもおもっている。桜子が生きるには、こうするしかなかった。このメッセージをきいているということが、その証だよ。桜子、病気も治ったんだろう? おめでとう』」

 録音の上国が大きく息を吐くと、ノイズが重なった。自分を抱くように腕を握る桜子の手の傍で、桜のカウンターが一枚を残して散った。

「『だけど、ぼくはうそをついた。ほんとうにごめん。お花見、いきたかったよね』」

 そうではありません、とトレバーは創造主へ伝えたかった。、と。

「『さびしかったよ……桜子と離ればなれになって、ぼくはまるで幽霊だよ。それでもぼくは、桜子に生きててほしい。もちろん、生きてればつらいこともある。悲しいこともある。でも、生きててほしいんだ』」

 ひんやりした風が吹き抜けていく。舞い上がった花びらが握りしめた桜子の拳をなでる。ぽつりと、ピンク色に染まる地面へ雫が滴った。

「『ぼくだけじゃないよ。お母さんもきっとおなじだ。……だから桜子、ぼくらはいつだってそばにいる。ずっと、ずっと愛してるよ』」

 じゃあまた、の言葉を最後に声が途切れた。鈍く光っていたレンズの輝きが失せ、わずかに残ったバッテリも尽きたことをヒューマノイドのセンサが検知する。ホログラフィの花びらはいつしかすべて散り、陽の色をした雌蕊がフェードアウトしていく。

「パパ……ママ……」

 肩をふるわすレインウエアにトレバーは自分の無力感に空を仰いだ。昼間にもくっきり見える月へ、白い地球―月間鉄道が昇っていく。それは、百年前にはなかったものだ。ヒューマノイドすら、その変化を追いかけるのは戸惑う。まだ、十四歳になったばかりの少女にはなおさらだ。

 けれど、少女がいつの日か自分自身と向きあうことを決意したとき、一緒にあの龍へ乗ろうとヒューマノイドは思う。少女の起源ルーツを辿る旅だ。

 そのとき、微弱な再起動のパルスをトレバーが感じた。同時に、が聞こえてくる。

「『どうか生きて、未来で……しあわせにな』」

 声はそれだけだった。だがそれは、間違いなく上国の声だった。

「パパっ!!」

 老いた父の声に桜子が周囲を見回す。駆け出そうとする腕を掴まえるのは二度目だ。

「サクラコさま! ジョウコク様は亡くなられています。一緒にお墓参りしたではありませんか」

「でもっ! あの声っ」

「ええ。歳をとったジョウコク様です。あとからもう一度こちらへ来られたのでしょう。ですが、残念ながらここには」

 ヒューマノイドの言葉に桜子は崩れ落ちた。光をなくした樹の根元へかすれた声を漏らしている。

 創造主がなぜ再びメッセージを残したのか、トレバーにはわからない。

 ただ、ノイズ混じりの短い言葉が少女の前途を願うものでよかったと思う。少女の背中を押すのはいつも彼だからだ。

 だから、よかったですね、と人ではないトレバーも言わない。一世紀以上も見守ってきた彼女を前に、そんな無責任な言葉が出てくるわけがなかった。

「トレバー」

 桜を見上げるヒューマノイドの横ですくっと、空色のレインウエアが立ちあがった。土のついた手がゴシゴシと顔を拭う。こうして並ぶと、ずいぶん身長が伸びたものだ。ゆくゆくは母御に似た美しい女性になるのだろう。

 マダラになった桜子の顔を、トレバーはまだ練習中の口角をあげてみせてから、手で拭ってやった。

「はい、お嬢さまマイディア。これからは、ハンカチを持ち歩かないといけませんね」

 グスンと、すすりあげた桜子がトレバーの手を握った。

「いこっ」

「……もうよろしいのですか?」

「うん、またこよう」

 涙はもう止まっていた。笑顔が見られるのはまだ先かもしれないが、赤い目はしゃんと前を向いている。

 少女のふるえが残る手を握り返し、ヒューマノイドは頷いた。

「そうしましょう。あ、サクラコさま、少しお待ちいただいても?」

 首をかしげながらも頷いた桜子に軽く会釈し、一歩、後ろに下がる。トレバーに合わせた桜子が改めて空を仰ぐと、ちょうど花のあいだを縫うように白い龍が遠ざかっていくところだった。

「……」

 姿勢を正し、深々と頭を下げるヒューマノイドの言葉は聞き取れない。けれど、顔をあげたその横顔がどことなくに似ていた。清々しいその顔は、桜子の好きな、朝に起こしてくる顔そっくりだった。

 春を告げる風が桜の枝を揺らす。

 花びらの雨の中、一人と一体の手が離れることはなかった。


 完

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国桜(くにざくら) ウツユリン @lin_utsuyu1992

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