おとし者-2


 あれから、どのくらい時間が経っただろうか。


「なんでっ、なんで、……なんで出られないの!?」


 もういい加減気が狂いそうだった。 


 定食屋につながる細道が駄目なら違う道を使えば良いという発想は、ユラシャも早々に思いついた。だが、その試みは挫折に終わった。

 どの道に入ろうとも、それを抜けた先には何一つ変わらない小通りの風景が待ち構えている。


 近隣の家の扉を叩いて回った。けれどどの家も返答はない。火事だぁー!と叫んでも、住人たちは誰一人として飛び出してこなかった。大声で助けを求めても、声の下へ誰も駆けつけはしない。

 異様なほどの無音がユラシャを包む。周囲の音があまりにも拾えないために、薄らぼんやりと耳鳴りがしているような気さえした。


 もう、どのくらいこの場所を彷徨ったのかもよく分からない。


「……ッ、くそったれえ!」


 ユラシャは自棄になって近くの扉を蹴り付けた。立て付けが悪いのか、その家の蝶番が嫌な音を立てる。

 その音を聞いてユラシャは思いついた。

 どうせなら、この扉を蹴破ってしまおうと思った。どこの家の玄関が壊れようがどうでもよかった。例え、街長の家でも同じことを思っただろう。


 なにせ、自分がこの妙な状況に巻き込まれたきっかけさえ分からないのだ。だから試せることは手当たり次第やってみよう。やれることが無くなるまで、まだ手詰まりじゃあないはずだ。


 ダンッ、ダン!とユラシャが木製の扉を蹴り付けるたびに、蝶番が軋んだ音を立てて悲鳴を上げる。そうしてもう何回か繰り返すとバキッ、と決定的な音がした。

 扉はぐらぐらと揺れながら辛うじて立った状態を保っている。この様子ならあとひと押しで外れるだろう。


「お、りゃあ!」

 

 ユラシャは気合を込めて、陥落目前の玄関扉にとどめを入れた。扉はすんなりと靴裏の下敷きになるよう倒れていく。その勢いで身体が自然と前に出た。

 たたらを踏みつつ、ユラシャは家の中に入り込んだ、はずだった。


「…、……。」


 砂っぽい地面を踏み締める。扉の向こうにはもはや憎しみさえ覚え始めた小通りの風景が広がっている。

 ユラシャは呆然と立ち尽くした。



 空の鉢植えがある家の屋根。その上に立つのは、一つ目の化け物。


 化け物は手を叩きながら身体を揺すっていた。小刻みに震えながら大口を開けるその姿は、さながら笑っているように見える。

 けれど笑い声も、手を叩く音も聞こえない。

 意味が分からなくて思考が停止し、ユラシャは悲鳴を上げることもできずにいた。


 化け物が目尻を歪めてユラシャを見下ろす。そして大きく跳ねると、小通りの真ん中に落ちてきた。

 考えるよりも早く、身体が逃げ出していた。



 ユラシャは何度も振り返って化け物を見た。大きさは並の男より頭一つ高く、足が短くて胴が異様に長い。そして口は頭にあるのに、一つしかない巨大な目は縦長で胸元の位置にある。

 なまじ人型に近いのもあって異様さが目立ち、気持ち悪かった。


 一目見ただけでそれが害意しか持っていないのだとユラシャには分かった。

 だって、四本ある腕のうち二本には、血のついた煉瓦がしっかりと握り込まれている。


 化け物は大きく身体を揺らしながら、ニタニタした笑みを浮かべてユラシャを追ってきた。




 ユラシャは始め、とにかく距離を稼ぎたくて小通りの中央をひたすら駆け抜けた。彼女の足の速さに比べれば、化け物の足はひどく遅かった。

 持ち前の健脚さによってみるみるうちに化け物から離れることができたユラシャは、これまで駆けっこで無敗だった自分と、この身体で産んでくれた母に感謝した。この調子なら逃げ切れると思った。


 しかし逃げるうちに、ユラシャはこの場所の特殊性を失念してしまっていた。化け物が現れたからといって、彼女がこの妙な小通りから脱出できるようになったわけではないのである。


 ユラシャは小通りをしばらく走り続けて、ふと、この小通りがこんなに長くないことを思い出す。体感だけであれば、この小通りを抜けて街の端まで辿り着いてもおかしくない距離だ。なのに景色はずっと、小通り周辺の街並みのまま。

 そのことに気がついた途端、ずっっと遠くで目視できていた化け物の姿をユラハは見失う。


「え、え…!?」


 その時点までに、ユラシャは小通りと交差するいくつかの細道や脇道に入りはした。だが一方で、小通り自体を直進し続けることはまだ試していなかった。だから理解が遅れ、混乱してしまった。立ち止まってしまった。

 だから、死にかけた。


 辺りを見回しながらユラシャが状況を把握しようとしていると、すぐ近くの細道から音もなく、化け物の腕が現れる。

 ユラシャが右に顔を向けた時には、既に腕は振りかぶられていた。嘲るように化け物の目が歪む。


 咄嗟に、上から叩きつけるような攻撃を無我夢中で避ける。血濡れの煉瓦が地面に叩きつけられた。

 そして追い討ちをかけるような二撃目。


「ぅああああああ!」


 今度は横振りの攻撃を転げるようにして躱す。一撃目も二撃目も、大振りだからなんとかなったようなものだった。あの至近距離から無傷で逃れられたことは奇跡以外の何物でもない。


「うあああっ、っ!、ゎああああ…!!」


 言葉にならなかった。殺されかけることなんて、初めてだったから。

 でも立ち止まれはしなかった。死なないために、逃れるために、ユラシャはただ走るしかなかった。


 ずっと化け物から逃げ続けるのは辛かった。

 何故か物音一つ立てずに追ってくる一つ目の化け物は、目を離したが最後、次はどこから姿を現すか分からない。ユラシャの耳に聞こえるのは、自分自身の足音と、荒い呼吸音だけ。

 頼りになるのも、自分の両目と両脚だけだった。


 逃げている最中に何度か化け物の姿を見失ってしまい、その度ユラシャがどれほどの恐怖に襲われたことか。心が折れそうになった回数なんて検討がつかない。


 独りきりというのは酷く心細くて、自然と悪態と独り言が増えていった。


「もうやだぁ…」


「なんでこんなことに」


「…本当に、誰もいないの?」


「帰りたい。帰りたいよ」



「誰か、助けて」



 そうして。走って、走って、日が暮れ始めても走って…ユラシャは自分自身の足に躓いて転んでしまった。

 影が伸びてすっかり冷えた地面。そこに打ちつけてしまった身を起こし、ユラシャがもう一度駆け出そうとしたその時だ。


「みつけた。」


 真下から声が聞こえた。


「え、」


 どぷんと、踏み出した足が沈み込む。咄嗟のことに反応できず、ユラシャの視界は暗闇へ呑み込まれていった。

 上に伸ばしそうとした手が何かに絡め取られ、押さえつけられる。自由が効かない。怖い。怖い。自分の身体がどんどん沈まされていく。

 ああ、何も見えない。真っ暗だ。どうなってるの。ついに全身が埋まった。


「やだっ、やだ!」


 いやだ。どうして自分がこんな目に。

 ユラシャは身を捩って抵抗した。まだ足だけは自由が利いた。疲労困憊の身体を気合いだけで動かす。全身に重い水のようなものが纏わりついて、一挙一動が酷く緩慢だった。

 片足に固いものが当たる。何に触れたのか分からない。怖い。

 

「助けて!たすけてっ!」

「待って、痛。大丈夫だから。落ち着いて、」

「ぃやだああ!!」

「あいたたた。俺、妹ちゃんを助けに来たんだって。話聞けるか?」

「化け物め、くそったれぇえ!」

「おお、存外口悪ぃのか」


 真っ暗闇に自分以外の声がする。

 孤独の中を長い時間恐怖に駆られていたものだから、ユラシャはついに自分は幻聴まで聞こえ始めたのかと思い込んでしまい、それが本当に他人の声だと気付くまでに時間がかかってしまった。

 助けとも知らず、何度か蹴ってしまって酷く気まずい。


「ご、ごめんなさい…」

「しゃーない、しゃーない。驚いただろうし、気にしなくて良いから」


 黒に覆われた空間で、姿の見えないその人物は「見たとこ五体満足で良かった。」と軽く笑った。知らない男の声だと思った。

 その言い草は少しむかっとするくらいの軽薄さだったが、ユラシャがつい先程まで味わっていた心細さがそれを帳消しにした。会話できるのであれば誰でも良かった。


「それより遅くなってごめんな、間に合って良かったよ。でもって、ナイスど根性!」


 言われた言葉にユラシャは目を丸くする。


「…はい?えっと…、」

「つまり、諦めずに耐えてくれてありがとうな。妹ちゃん、ずっと逃げ続けてくれただろ。その頑張りのおかげで俺も妹ちゃんを見つけることができたんだ。」

「あぁ…。そう、そうなんだ…」


 そう言われて、不意に込み上げるものがあった。必死に逃げた甲斐があった。耐え忍んだ苦労が報われた気持ちになった。

 最初は酷く怖かった暗闇に温かみを感じて、なんだかほっとしてきてしまった。


「わっ、なに?」


 お互いの姿どころか自分の手すら見えない闇の中。溢れた涙を掬って慰めるように頬に触れられる。優しい人だと思った。ちょっとグイグイし過ぎだけど。でもそのおかげで少し笑うことができた。


「ぁは、あははっ。おにいさん、ありがとう」

「いやそれ俺…。…うん、まあいっか。」

「私、ユラシャです。おにいさんは私の兄の知り合いなの?」

「ん、そうそう。俺はユージーのダチだよ。俺は元々こういう怪奇現象をなんとかする仕事を生業なりわいにしてて…あと見えないだろうけど ズマって相棒も一緒に来てるから、いきなり触ることあるかも。もし怖がらせたらごめんな。」

「えと、はい。分かりました。…ズマさんは今何を?」

「ズマはね、んっとー…。妹ち、ユラシャちゃんをいじめてた奴の様子を見に行った。」


 あいつ獲物横取りされて一丁前にぶち切れてるっぽいわ。にしたって、やっかましい声だなー。うちのズマを見習えっつの。

 男はそんなことを言ってけらけら笑った。なんだか気が抜ける。口調からして年齢はかなり若そうだ。

 少し言っていることが分からなかったが、男が名乗らないのは何か理由があるのだろうか。今のところ、そこは深く突っ込まないでおこうとユラハは思った。

 それより気になることがあった。


「あの、おにいさん。ここは一体何処なの?」

「影沼の中だよ。その名の通り、ここは影で出来た沼ン中。」

「………かげ?かげってあの影?」

「そう。光が物に当たれば勝手にできる暗ーいアレな。俺たちは今んとこ、その影に入ることで上にいるいじめっ子から隠れてる状態。とりあえずここから出なければ安全だと思ってくれて良いから。…だけど、あいつの異界から逃れられたわけじゃない。」


 異界とは、簡単にいうなら鞄のようなものだと男は語った。

 それによれば、この世にいる化け物のなかには異界という鞄を持つモノもいれば持たないモノもおり、大小さまざまな鞄がある。今回ユラシャは、その鞄の一つに無理矢理放り込まれてしまった状態なのだそうだ。


「魔掴み、異界攫い、娑婆盗み… 人外による誘拐をそう呼ぶんだ。場所によっては神隠しって言ったりもするかな。」


 そして影の中にいるこの現状はというと、例えるなら異界という鞄の中に、無断で内ポケットを縫い付けた状態に近いらしい。


「内ポケット…」

「こう例えると毎回微妙な反応されるんだよな。や、でも分かりやすくない?

 俺は影のある場所から紐付けて、呼ばれてない異界にも無理矢理忍び込むことができんのね。んで、鞄の中に内ポケット。異界の中に影沼、って具合で隠れ場所を作り出すことが可能なんだけども、ほら、内ポケットって鞄に引っ付いて一緒に移動しちゃうだろ。

 だから最終的に脱出するには本体である鞄の入れ口から正しく出るか、鞄に穴を開けるか、そもそもの持ち主である異界の主をどうにかするしかねーわけよ。」


 その言葉にユラシャは首を傾げた。


「影から入ったのなら、影を経由して出ていくことはできないの?」

「まあ、ぶっちゃけ俺だけであれば出来なくはないんだけど…、」

「…その場合、私は置きざりになるんだね」

「理解早くてまじ助かる。」


 それにもうコイツによる被害を出さないよう始末つけないとだし。だから、お家に帰れるまでもう少し時間かかるかも。付き合わせる形になっちゃってごめんな。

 男は申し訳なさそうな声色でそう言った。

 ユラシャはそれに首を振ろうとして…ああ、暗くてお互いの顔は見えないんだった、と思い返す。

 

「大丈夫。要は、あの化け物を叩きのめしたら家に帰れるってことでしょ?」

「アグレッシブ…。だいたいその通りだけども。」

「なら、おにいさんは対魔師?」

「うーん。似たようなもんかな?仕事被ることあるし。」

「私、対魔師の人にはあんまり会ったことがないんだけど…みんな、おにいさんみたいな事ができるの?」

「ああーそれはー…、人によります。」


 質問に答える声を辿り、ユラシャは男のいるだろう場所に視線を向けた。視界は依然として真っ暗で何も見えない。けれどその先に、化け物退治の専門家がいる。


 対魔師をはじめとする祓い屋や除霊師、呪物商人、拝み屋など…そういった職業というのは、時折人に害を為す妖しいモノに対処する仕事だ。この近辺に暮らす者であれば、一つは耳にしたことがあるだろう。

 これらの職業は、かつては大きな街から山深い田舎まで渡り歩いてようやく一人出会えるかどうかというほどの秘匿された存在だったと聞く。

 けれど最近は。


「ここ数十年、妖怪の目撃証言だの被害相談だのが増えてんだよね。おかげさまで認知度高まって『人外が犯人でした〜』ってなっても理解が得られやすいのは助かるけど、まーじで人手足りなくて。あくせくやってる俺らを馬鹿にするみたいにイキったヤツらは湧いてくるし…。」


 男はうんざりした声色で溜息を吐いた。


「今件もそうやって調子に乗ったうちの一体でさ、あいつが目撃され始めた時の記録を確認してみたら、かわいいもんだったよ。最初はね。」


 一人目の被害者は、突然道に迷って自宅に辿り着けなくなってしまったそうだ。何故か同じ道をぐるぐると廻ってしまい、困り果てたところを一つ目の化け物に追いかけられた。


「私と同じだ…」

「うん。ここまではやり口が一致してるもんだから、特定は簡単だった。」


 一人目の被害者は散々追いかけ回され、気付けば自宅に逃げ帰っていたという。怪我はなく、損害は逃げるうちにいくつか荷物を落としたくらい。まだこれくらいの範囲で収まっていれば、たまに耳にするような人外によるイタズラ話で終わっただろう。

 それから似たような被害が相次いで、その一つ目の化け物は近隣の村々で噂されるようになったそうだ。

 

「そんで、そのうち怪我人が出た。」


 初の負傷者となったその被害者は、片足を挫きながら一つ目の化け物からなんとか逃げた。その負傷自体、一つ目の化け物としても意図せず起こった事故だったのかもしれない。

 けれどそれ以降の被害者は、必ず脚に怪我をするようになった。


「味を占めたんだろうな。鼠を痛ぶる猫みたいに。追いかけて脅かすだけじゃ物足りなくなっちまって…次第にエスカレート。決定打は、両脚をぐちゃぐちゃにされた人間が出たこと。」

「……ッ!」

「後遺症が残るぐらいの大怪我で、見つかるのがもう少し遅ければ出血多量で死ぬところだったってさ。」


 あともう少しで、自分も同じ目に合っていたかもしれない。

 化け物が持っていた血濡れの煉瓦を思い出し、ユラシャの顔から血の気が引いていく。


「被害が一直線に北上してたもんだから多分この街でもやるだろうとヤマ張って、俺は何日か前から待機してたわけだけど…その間に、あのいじめっ子は一線を越えたみたいだ。だからユラシャちゃんはギリ間に合って良かったよ。」

「……」

「お、ズマ戻ったな。」


 ユラシャは言葉を失った。できれば今は知りたくなかった情報だった。

 冷や汗が止まらない十四歳の少女に気付かないのか、男はどこかに向かって「お疲れーィ。」と言った。暗闇の中で、しばらく男の一方的な相槌だけが続く。


「…うん、うん。おー、なるほどな。そういう創りなら繋ぎ目で叩こうぜ。…………は?煉瓦五つ持ち?」


 そこで男は少し焦ったような声を出した。


「まじかー、腕増えてんじゃん。ズマ何個いける?……頑張れば二個か…そっか…俺フィジカル並だしな。」


 ゔーんと唸り、頭を抱える姿が瞼に浮かぶようだった。

 聞けば聞くほど劣勢なように思えてきて、ユラシャは不安になった。


「ユラハちゃん。ごめん。」

「えっ…」

「やっぱ影沼から出てほしいんだけど…走れそう?」


 影の中にいれば安全だって言ったのはそっちなのに。

 下手すればこの男のこと嫌いになりそう。ユラシャは内心そう思った。




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