アティアラの書、怪書の手
青杖まお
おとし者
「……っ、はっ、く…!」
体力の限界を感じる。足が痛い。息が苦しい。逃げているうちに陽は暮れ始め、段々と視界も悪くなってきた。
どれだけ必死に走っても、相手はしつこく追ってきている。
「なんで、なんなの…!」
知っている道のはずだった。本来であれば、この一本道を抜けると街の大通りに辿り着けるはずだったのに。
「ああっ、また道が戻ってる!」
気付かぬうちにとっくに通過したはずの場所を走っている。
自分以外の人間はどこにも居ない。聞こえてくるのは足音と、ユラシャ自身の荒い息の音だけだった。
もういい加減理解した。繰り返しの景色の中を、自分はずっと走らされ続けるのだろう。
それでもユラシャは重くなった足をがむしゃらに動かして進み続ける。止まったところで碌なことにならないのは端から分かりきっているからだ。
「もういやっ、ぐすっ…!いい加減にしてよ…!」
家に帰りたい。けど帰れない。
ユラシャが追われて始めてすぐの頃は、昔から駆けっこで負けなしだった経験が幸いしたのか、あの化け物とは充分な距離があった。相手がそんなに速くないのだと分かって、このまま振り切れるだろうと余裕さえ持っていたのに。
背後を振り返れば、今やその距離は家屋二軒分にまで縮まっている。
そうやって頻繁に振り返っていたのが良くなかったのだろう。疲れで思うように動かなくなってきていた足が、もう片方の足に引っかかってしまった。
「しまっ…、うっ!」
ユラシャは受け身も取れずに地面に転がった。
打ちつけた場所が痛い。でもそんなことよりも早く!早く立たないと!
今すぐに逃げれば、まだ追いつかれないと思った。
影が伸びてすっかり冷えた地面から身を起こし、ユラシャがもう一度駆け出そうとしたその時だ。
「みつけた。」
声が聞こえた。
「え、」
どぷんと、踏み出した足が沈み込む。咄嗟のことに反応できず、ユラシャの視界は真っ暗闇に呑まれていく。
「やだっ、やだ!」
いやだ。どうして自分がこんな目に。
────
ユラシャは定食屋を営む両親の下に生まれた。
店に訪れる客は主に行商などの旅人で、両親と兄、ユラシャの四人家族でいつも店を回している。
店主である父の料理は、量を重視しつつ味もなかなかの出来だと馴染みの行商からは好評で、店を宿屋が点在する大通りに構えているのもあって、定食屋の客入りは良い方だ。
そんな家庭でユラシャは生まれ育ち、子供の頃から店の手伝いをしていた。
十四歳の今では給仕の仕事が板につき、客の注文を聞いては料理を運ぶなんて慣れたもの。兄のユージーは後継として昼夜厨房に立ち、雑用をこなしながら父の味を盗むことに励んでいる。
「おいでませー、あっ、赤旗のおじさん達!久しぶりだね、お元気だった?」
「応ともよ。ユラシャちゃんの方も相変わらず元気だな。背ぇ伸びたか?」
「そりゃもちろん、育ち盛りだからね。ご注文はどうする?今日は旬の魚を使った煮込みがおすすめだよ」
「んじゃあ、それにするか。お前らも良いよな。よし、あとパンとテキトーな飲みもんつけてくれ」
「はいよー、ちょっとお待ちを!お母さん、パン六人分お願い」
「あいよ。じゃあやっとくから、お父さんに言ったらこれお配りしといで」
「はいよー!」
母にパンの切り分けを頼んだユラシャは父に注文を伝えた後、席についた客へテキト入りの飲み物を運んだ。酸味の強いテキトは少し果汁を混ぜるだけでスッキリした味わいになり、長旅に疲れた客にウケがいい。
そうして全員分配り終わると、ユラシャにとってお待ちかねの時間が訪れる。
「今回はどんなところに行ってきたの?」
わくわくした態度を隠さずに聞くと、大抵の人は快く答えてくれる。
ユラシャは店を訪れた客から口から紡がれる、各地のいろんな物や風景、自分とは全く違う場所で暮らす人々の話を聞くことが趣味だった。その内容は、各地に伝わる不思議な伝承から、なんてことない下世話な痴話喧嘩までと多岐に渡る。
実際に足を運んだが故の温度ある話はいつだって魅力的で、旅人たちそれぞれの言葉選びや話し方だって、個性があって面白く感じた。
とはいえ。
ユラシャは旅の話を聞くのが好きなのであって、全ての旅人を好ましく思うほどの博愛は持ち合わせていない。そのため嫌いな客だって当然いる。
中でも特別嫌いなのは、兄とそう変わらない年頃に見える青年だ。数ヶ月前から時折顔を出すようになったその男は、どうやら一人で旅をしているらしかった。
当初は、自分と大して変わらない歳だろうにすごいなぁ、と思っていた。それどころか、ユラシャはこの青年に対して尊敬の念さえ持っていたのだ。
遠くから旅をしてきた若者というのは、店を訪れる行商が丁稚を連れていることもあり特別珍しくはない。だが、この若さで同伴者なく旅をする者は、ユラシャはこの青年以外では見たことがなかった。
ユラシャの知る限り、各地を移動する人間というのは大概は集団になって旅をする。
旅の道中、山賊の襲撃や人外の気紛れを始めとする危機的な状況に陥った際に、個人で対処できることなど無いに等しいからだ。
よって、連れ合いなく旅をするなんて無謀な真似、旅の知識がある者であれば絶対に避ける行為だとユラシャは聞いていた。それでもするとすれば知識のない者か、よっぽどの事情がある場合だけだろうと。
だが、そんな無謀な行為をしている青年の身なりからは、見窄らしさを感じられなかった。灰色の外套を羽織った旅装からはどこか使い込んだ形跡が見受けられ、その立ち振る舞いが自然体なことからも、彼が旅に慣れている様子が伺えた。
今回が初めての旅というわけではないのだろう。
したがって。ユラシャが彼に話しかけようとするのは至極当然のことだと言えた。
なぜ旅をしているのか、どんな人柄なのか、今までどんな場所を歩いてきたのか、そのすべてを知りたいと思った。
ところが、ユラシャは様子を窺っていた時に気づいてしまった。
青年が自身で注文した料理を、こっそりと床に落としていることに。
最初は見間違えかと思った。
まさかそんなことするわけないだろう。そうと思い込もうと必死になった。たまたま溢してしまっただけに違いないと。
けれど青年が日を置いてまた来店してきた時に同様の犯行を目撃してしまい、彼が料理の一部を意図的に床に捨てているのだと理解した時の、あの失望感といったらなかった。
初対面が好印象だっただけにユラシャは落差に打ちのめされた。
以来ユラシャは、心の中でこの男を『
「うし、出発するぞ。ご馳走さまっした。」
「あいよ。あんた若いんだから、他でもたんと食べンさいね」
「はい、あざっす。でもこの店より安くて美味くてたらふく食べられる店見たことないんで、他の町で同じことしようとしたら俺破産します。なもんで、来るたび食い溜めてます。」
「っふ、はは、あんた口上手いね」
しかしながら非常に憎たらしいことに、『粗末者』は外面が良かった。
「すません、少し聞きたいことあるんすけど。時間いいっすか。」
「ん、おお…。別に構わんが」
「今日の料理の魚、サルマだってまじっすか? 俺が前に食べた時はかなり臭かったのに。」
「ああ、多分それは泥抜きしてるからだ。獲ってすぐ捌くよりその方が味が良くなる。…美味かったか?」
「はい、まじ感激したっす。あと昨日のシチュー最高っした。」
「ぅえっ!?」
「フッ。あれはうちの倅が一人で作った。ちなみに俺が作った方が美味いぞ」
「おい親父!余計なこと言うなよ!」
「まじか。お前すげーな。なあ、野営に向いた食材とか料理って詳しいか?」
「エ? まぁ、それなりには…」
「よかったら教えてくれねー?あと、この辺りの面白い場所とか、こっそり有名なところとかも知りたくてさ。」
「おう、それだったら得意中の得意だ。任しといてくれ!」
だめだ。父も兄も籠絡されている。
実のところ、『粗末者』以外にも料理を完食しない客というのはいないわけではない。
単純に食べきれなかったり、好き嫌いで皿に残されたり。そういった皿を片付ける時はどうしても物悲しい気持ちになって、ユラシャはあまり好きではない。でもそれ以上に、わざと食べ物を落とす行為はとてつもなく許し難かった。あれは食材と料理を作った人への冒涜だ。正直に言うなら鼻に拳を叩き込みたかった。
ただの荒れた客であれば、度が過ぎない限りは嫌悪をひた隠しにしてやり過ごすことができた。食い逃げ犯であれば、家族総手で取り押さえて警邏に突き出すこともできた。それらの方法は母から伝授されていた。
けれど今回は、そのどれとも状況が違う。
他の客に迷惑をかけていないし、代金だって支払われている。
このような事態に直面するのは初めてで、目を瞑って見過ごすべきか、声を上げて非難すべきか、どのように対処すればいいのかユラシャには判断がつかなかった。
母に相談しようか迷って、ユラシャは結局、家族にそれを伝えることができずにいる。家族たちが気に入っている相手を悪様に言うのは気が引けた。というより、それを訴えたあとに自分がどう見られるのかを考えると怖かった。なにせ『粗末者』の犯行をその目で見たのはユラシャ一人だけなのだから。
言って、言ったとして。もし信じられなかったらどうしよう。
伝えた上で、「それくらい好きにさせればいい」と笑う家族の姿も見たくない。
『粗末者』は決まってユラシャの母が給仕をしていない時、もしくは母の気が逸れた時に犯行に及んだ。一方でユラシャの前ではやるということは、ユラシャを下に見ているか、そもそも気にも留めていないのだろう。それが余計に憎たらしく、姑息で卑劣で大嫌いだった。
「あんにゃろうめ…、早くこの街から出ていけばいいのに」
どうやら『粗末者』は宿に連泊しているようで、ここ数日は毎日のように店に顔を出す。そのことが自分以外の家族にとっては嬉しいらしい。特に兄なんて、今日はまだ来ていない『粗末者』が待ち遠しいのか浮き足立った様子で鍋の中を掻き回している。
その様子を見てユラシャの心にはむすくれた気持ちが湧き上がる。
そこまで『粗末者』が気に入ったわけ?そんなに混ぜてたら具が全部崩れるでしょうが。
お父さんも鼻歌まで歌っちゃって馬鹿じゃないの。いつもだったら絶対お小言言ってるのに。馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿。見たくもない顔を見せられるこっちの身にもなって欲しい。
誰か、あいつの本性に気付いてよ!
ユラシャは肩にまで力を入れながら苛立ち混じりに机を拭いた。
「ふう、今日は客が多かったけどひと段落ついたね。ユラシャ、休憩ついでにテキトを捥いできてくれないかい」
「、はいよー」
ユラシャはこれ幸いにと店内から出て伸びをした。ここ数日、どうにも気分がピリピリしてしまう。大好きな場所のはずなのに、店にいても何故かずっと落ち着かないのだ。
外の空気を吸って気分転換でもしておこう。ユラシャは溜息を吐きつつ、店の裏手に回った。
切り出しナイフをポケットから取り出し、枝の一つに刃を滑らせる。
テキトは酸味が強いからか、皮が厚いからか、虫食いの実が滅多に出ない。加えて、夏から秋まで収穫できるために使い勝手の良い果実だ。
そうして三つ目のテキトを枝から切り離す。
「おっとと。…あー」
取り損ねたこぶし大の実が手から弾かれるように転がっていく。横着せずに、他二つを置いてからにすればよかった。
テキトはころころと敷地の外に行ってしまった。あの勢いだと店裏の細道を抜けてその先の小通りにまで出てしまっただろう。諦めることもできたが、普段ユラシャは心の中で『粗末者』を激しく非難しているのもあって、ここで新しく実を採るようではなんだか負けな気がした。
「面倒臭がった私が悪いわけだし、しょうがないよね」
何よりこれぐらいのことは大した手間にならない。
ユラシャは今度こそ収穫済みのテキトを笊に置いて、落ちた実を探しに行く。そして予想通り、転がっていったテキトは小通りにぽつんと落ちていた。拾い上げて、砂を払う。
「あれ?」
顔を上げると違和感があった。なにが原因なのかすぐには分からなかった。
ユラシャは首を傾げ、辺りを見回す。
小通りには至って普通の家々が建ち並び、目立った変化は見受けられない。細道の正面にある家の前では、ヒビの入った鉢植えが土も入れられずに数年前から放置されている。どれもこれも、いつもの見慣れた風景だ。
気のせいか。
そう思ったユラシャはもと来た細道を辿り、のんびりと足を進める。ここの道幅は人二人が横並びになるには少し狭いが、女一人が通る分には充分な広さだ。
すぐそこにテキトの木が見えてきた。あと三歩も歩けば細道を抜けて店の敷地に戻れるだろう。
なんとなく数えてみたくなった。
一歩。
二歩。
三歩。
「……え?」
テキトの木が目の前から消え失せた。
ユラシャの視界に映るのは、いつもと何一つ変わらない小通りの風景。細道の正面にある家の前では、ヒビ割れた鉢植えが地面の上に置かれている。その中身は見るまでもない。空っぽだ。そのことをユラシャは知っている。
「っいや、待ってよ。なんで?」
ユラシャは振り返る。
そこにはもと来た細道が普段と変わらない姿で存在している。先程も、この出入口から細道に入った。必ず定食屋の裏に辿り着く、この狭い細道に。
「なんで、あれ? …はは、体調でも悪いのかな」
軽く頭を振り、ユラシャは踵を返して細道に入る。細道の向こうにテキトの木が見える。ああ、あんな高いところにもテキトが実っていた。自分の背では手が届かないから兄に伝えて取ってもらわないと。
そう思えば自然と早足になった。
あと三歩だ。あと二歩。…一歩。
ヒュッ、と喉が鳴る。ユラシャの目の前には、先程見たばかりのいつもと変わらない小通りの風景が広がっている。
ユラシャは振り返った。子供の頃から幾度と通ってきた細道が見える。
この細道を抜けた先にある場所へ、ユラシャは帰ることができなくなっていた。
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