Blue's Song

ウツユリン

Blue's Song

 ボォン、ボォン、と大砲の音が凍った海原を震わす。

 そのたび、凍てつく海のただ中で、ドーナツ状をした甲板のあちこちからオレンジの炎があがった。直後、放物線を描いてそれぞれの穂先が飛翔する。

 ロケットのような穂先もまた、航行で砕いていった氷に散る火花に似ていた。穂先が海面に消えると、しばらくして釣り糸のようにケーブルがぴんと張り、人間のこぶし大ほどもある極太の糸がぼんやり、エメラルドグリーンに色づく。

 灰色がかった空の下、氷点下の空気は肌を切る鋭い刃となって潮風が無慈悲にその刃を振るう。南極の海は一部の生きものにとって安息の地だが、その環境は壮絶だ。

 特に、人間のような地に棲む種は、あまりの凄涼にたちまち生気を失う。同じ哺乳類であれ、海に棲む彼らとはけっして相容れることのない存在。

 しかし、人間には武器があった。知恵という至高の宝物殿から創られた、幾多の道具。

 だが、海上に鎮座した最新式破氷曳行船〈プレシィデュウム号〉の姿はまるで、蜘蛛だ。

 中央の胴体部から全方位へ伸びるケーブルは八と言わず、優に数十は超える。大型客船を縦にしたような胴体は巨大だが、中心がくり抜かれた筒の形はいかにも華奢だ。商業船であると強調したいばかりに、船体は白と灰青のツートンカラー。残念ながら威圧感の軽減よりむしろ、南極海に出現した巨大生物といった感が否めない。

 脚の先は海面からわずかに覗く湾曲した黒い物体につながり、船の全体像は、水面に浮かぶ巨大過ぎるアメンボといってもいいかもしれない。

「こちら三十七番、銛手。ターゲットロックオン」

 環状船体の一カ所で、スピアラーと呼ばれる防寒着姿の砲手が手首に咆えた。同時に撥水コートされた長靴を砲座へ振り下ろす。

「……発射っ!」

 トリガーは瞬時にターレットへ伝わり、殺傷性を低くした高電捕鯨砲が火を吹く。

「三十七番スピア、ターゲットに着鋲」

 一方、スピアラーとターレットの状態を把握するのは、プレシィデュウム号の船橋にあたる環の内部、中央制御室に詰めた神経技師たちだ。

「脂肪層を穿孔、大脳へ到達……神経結合、開始します」

 コネクターの言葉に合わせて脳を模したホログラフィに種々のステータスが浮かぶ。

 二十五名のコネクターが中央制御室に二重の環を描いてそれぞれホログラフィモニターと向かい合い、自分たちの頭上、甲板にいるスピアラーの報告を聞きながら、その支援とニューロコネクトの作業を手際よく進めていく。

 銛を通じて得たクジラの脳のリアルタイムスキャン映像を、回し、傾け、ときに指でつまんではコネクターたちがシナプスまで見えるように拡大する。

 薄暗いブリッジ内でいくつもの脳モデルが環となり煌めくようすは、生物の細胞膜をおもわせた。

「銛長、現在の曳行数四十五。まもなく規定曳行数です」

 コネクターの一人が後方、斜め上へ指示を仰いだ。

「皆、ご苦労」

 制御室を見下ろす位置に立つ制服姿の巨躯が労いを口にする。声はしゃがれているも、低くよく通った。ブリッジに張りつめた緊張感がわずかに緩み、コネクターたちが息をつく。

 ニューロコネクトの大部分は、プレシィデュウム号のメインフレームが補佐しているものの、神経叢は個体差が激しい。脳はなおさらである。微調整を絶えず繰り返しながら、ニューロコネクトされた対象を制御する作業は極度の集中が欠かせない。

 海軍であれば、無数の胸章が埋めつくしそうな厚い胸板をゆっくり上下させ、銛長の言葉が続いた。

「本時刻を以て、通常の保護任務を終了とする。各スピアラーは撤収後、作業内容の点呼。コネクターは各自ニューロコネクトの状態を再確認し、帰港経路をインプット……帰り支度だ」

 船と同じツートンカラーの白い胸部が前のめりになると、少し感情のこもった声でクルーたちに呼びかけた。艦橋にデッキのスピアラーたちの歓声が広がる。コネクターの何人かも、ホッとしたような顔をした。

「……ですが銛長。いまだ最優先保護対象を確認できません」

 スピアヘッドへ最初に報告したコネクターが束の間、逡巡したのち、その事実を進言した。たちまちスピアラーたちの声が静まり、ブリッジを含めて沈黙が船を支配する。

「チーフ、Bは捕捉できんか」

「はい。広域海中レーザースキャニング、および海底探査基地走査にも反応はみられません」

 コネクターが即座に答えた。銛長より二回りも若いコネクターだが、幾度となく銛長と現場を共にしてきた。経験と才気は折り紙付きといえる。

「本社からは?」

「用が無ければ連絡するな、です」

 チーフコネクターは、上官に進言する責務がある。

 そう考え、若きコネクターは口を開きかけ、上官が先を越した。

「本船の任務は、通常保護任務の遂行である。すでにわれわれは規定数の対象を保護。言うまでもなかろうが、曳行し、帰港することがわれわれの仕事である。四十五頭ものクジラをコントロールしつつ、本国へ帰還する途こそ、諸君の腕が必須だ」

 銛長の言葉にチーフコネクターも納得せざるを得ない。いくら、プレシィデュウム号のメインフレームが某国戦略AI数基に相当する能力を持つとはいえ、哺乳類の制御には、神経技師たちのアシストが不可欠である。

 そしてクジラたちを可能な限り、無傷で引き渡して初めて、保護任務に掛かる莫大な費用と自分たちの賃金が支払われる。

 背筋を伸ばした銛長が、今度はモニター越しのスピアラーたちを含めて言葉を続けた。

「プライマリーターゲット、コードネームBことビッグ・ブルーは、長年にわたりエクスチェンジャーの手を逃れている。発見できれば御の字、見つからずとも仕方あるまい。二兎を追う者は一兎をも得ず、だ」

 われわれの場合はクジラだがな、と山のような肩をすくめる銛長。スピアラーたちは豪快に湧いているが、コネクターたちの反応は薄い。

「……了解。帰港の準備を進めます」

 ため息を堪え、チーフコネクターがホログラフィに向き直る。ジョークのセンスはともかく、銛長の言うことは正しい。

 プレシィデュウムを中心に、同心円に散らばるニューロコネクトされたクジラの群れは、半径数百メートルにおよぶ。航行中は楔形編隊を組むとはいえ、これだけの大群を引き連れての帰港は、保護任務以上に集中力が要る。

 それに、Bを待つあいだも疑似単細胞化用の鮮度は落ちていく。

「船長、こちらブリッジ。帰港にあたり、権限の承認を求めます……スキッパー、応答願います」

「チーフ、きみは他の手順を進めといてくれ。船長はわしが呼びにいこう」

 返事のない通信に再度コールしようとするチーフコネクターを遮り、銛長が制御室に背を向けた。ブーツの足音が規則正しく去っていく。

「……了解」

 チーフコネクターの頭に一瞬、レモン色の小柄な防寒着が浮かんだ。だが、額へシワが寄るまえに、近くにいた部下が指示を求めてきた。プレシィデュウム号は就役まもない新型だが、コネクターには経験の浅い新人も少数ながら混じっている。

 そんなあわただしくコネクターたちに応えるチーフの頭からは、自分たちの足下で駆動を待つ切り札の姿が離れなかった。

「(スキッパーは決断できるんだろうか)」

 チーフコネクターには、あの頼りないレモン色のフードがカードを切る姿をどうしてもおもい浮かべることができなかった。


 *

 

 碧野奏海は正直、両替屋の漁になど同行したくなかった。

 幼い頃に水族館で触れたイルカが忘れられず、もっと間近で触れあいたい一心から海洋生物学の道に進んだ奏海の専門は、海棲大型哺乳類の生態、主にエコーロケーションと呼ばれる彼らのセンシング技術だ。

 奏海が大学院へ進む以前から、生態系貢献バリューと呼ばれる概念はあった。VECを利用してビジネスをするエクスチェンジャーはいわば、為替取引と従来の両替ビジネスを合わせたようなものである。ただし、両替の元となる資本は希少生物そのもので、政府や企業が合意し弾き出された両替レートに基づいて算出される。

 早い話、依頼主が生き物の保護をエクスチェンジャーに外注し、保護した生物のVECレートを元に対価がエクスチェンジャーへ支払われる、というからくりである。クライアントは財布を広げるだけで「生態系保全へ尽力した」ことになり、エクスチェンジャーは正々堂々と潤う。

 群雄割拠の時代を迎えた彼らの横暴を止める手助けになりたいと、奏海が勉学に励む一方、両替後の生き物をどうするかという問題が世間の目を引いた。保護とは名ばかりで、生き物をそのまま遺棄する悪徳エクスチェンジャーが弾糾されたのは言うまでもない。

 そこにブレイクスルーとして登場したのが、コピーセル技術である。

 

「ここにおられましたか」

 環状の船体に一人で息をつける場所は、自室かトイレくらいのものだ。半年近い航海のあいだ、手洗いに引きこもっているわけにもいかず、だからといって奏海の場合、自室はすなわち船長室である。プレシィデュウム号の隅々に設置されたカメラや計器類が躍るコンソールは、まさしくコックピットだが、奏海の知っている操作は二つ三つしかない。

 結局、当たり障りのない場所に奏海が選んだのは、ブリッジの下の格納庫だった。奏海の昔、通っていた学校の体育館がまるまる収まりそうな広さはある空間に、奏海には使い道の見当もつかない多くの道具が適当に(奏海にはそう見えた)置かれている。中央だけは空いていたが一度、近づいたときにメカニックな音を立てて床が動きだしたので、以来、奏海は格納庫の端のほうに引っこんでいることにした。

 ずらっと並べられた替えの穂先やらケーブルやらを眺める気にはならなかったものの、少なくとも"お飾り船長"の居場所としてだれの邪魔にもならない。

 中央の床から離れ、柵にもたれていた奏海は格納庫のハッチが開いて掛けられた声に、あわてて下げた頭をもう一度、深く下げる。

「あっ、スピアヘッ……じゃない、銛長さん」

 研修でクルーたちの呼称を学んだものの、航海初日にその肩書きで呼んだ奏海は、初っぱなから乗組員たちの反感を買ってしまったのである。いわく、「穂先は取り替えの利く消耗品」らしい。

「かまいませんよ船長。呼び名などどうでもよいとクルーには言っておるんですがね。彼らをまとめられん、わしが悪いんです」

 漁師というより軍の将校を彷彿とさせる威厳に満ちた声が敬礼を返す。しゃがれ声が潮の影響によるものであるとは、あたふたする奏海の考えもおよばない。

「いえっ、いやっ……その、わたしが情けないというか、お飾りだからというか……」

 尻すぼみの奏海に銛長が自分の手首を指す。

「コホンッ……これより帰港しますので船長、承認をいただきたい」

 銛長に穏やかに言われ、奏海がハッと口元を隠した。

「あ! そっか! えっと……こ、こちら碧野……じゃ、じゃなくて船長です。帰港を承認します」

 手首に向かってたどたどしく指示を下す奏海。この一言を奏海が言わなければ船が帰れないという。理由は雇い主から説明されなかったが、数少ない船長の仕事には変わらない。

「『……了解。スキッパー』」

「ふー」

 通信機から返った抑揚のない声に奏海が小さく息をつく。指が離れているのでこちらの声は届かないが、呆れられているのがヒシヒシ伝わってくる。

 船長のリストバンドには他の通信も入ってくるので、聞き流していたのだが、肝心の通信まで耳を通過していたらしい。

 一部始終を見ていた銛長へ、奏海は消え入りそうな声でうつむいた。

「銛長さんすみません」

 奏海がもたれていた安全柵に近づき、許可を求める銛長。

「……ひとつ、よろしいですかな」

「え、あ、はい、もちろん」

 会釈した銛長が横にならぶ。こうすると頭一つ以上、背が低い奏海はまるで子どものようだ。銛長のハチマキがしめ縄に見えてくる。

 下を向いた奏海に銛長の声が降ってきた。

「ご自分をお飾りなどと、口にするもんではありませんぞ」

「でっ、でもじっさい、わたしの仕事は船長というには少なくて、ほとんど承認っていうだけで……」

「船の仕事はたくさんありますぞ。なんなら、わしがひとつ斡旋しましょう。食堂のオートクックが不味いとクルーが言うておりますので、船長の手料理なら……」

「いや、ちょっと、それは」

 腕のコンソールになにやらもう、入力しかけている銛長。

「お嫌ですかな?」

「わたし、料理できないんです。だからこのまま船長で」

 奏海がビシッと頭を下げる。乗組員たちの腹を壊したら、大惨事どころではない。

 ほう、と感心したようすでうなずいた銛長。往きの航海でつくづく身に沁みたが、彼ならば本当にやりかねない。クルーのためならどんなことでもやり抜く。

 それが、プレシィデュウム号の銛長だった。

「船長はエクスチェンジャーがお嫌いですかな」

 装備品の棚を眺めていた銛長の質問に、今度は奏海もギョッとした。

「銛長さんっ、そんなこと大声で言うのは」

 リストバンドを覆ってあたりを見回す奏海。

「ハハッハッ!」

 だが、警戒する奏海を見て銛長は豪快に笑ったのである。

「……変ですか?」

 いえ失礼、と銛長が目元を拭う。

「どこまでうわさを信じておられるかわからんですが、彼らは企業にすぎない。後ろ暗いことはあるかもしれんが、批判したくらいで危ない目には遭いませんよ」

「銛長さんはなぜそう言いきれるんですか?」

 エクスチェンジャーを非難する活動家やジャーナリストが行方不明になる話は頻繁に耳にする。太いパイプをエクスチェンジャーは持っており、風当たりが強い世論の目を躱すべく手を打っている、などと奏海も院生時代には身近で聞いていた。

「わしがそうだからです」

 至極普通のことのように銛長が腕を広げてみせる。

「……どういう、ことですか?」

 そのとき、二人の通信機が同時に鳴った。

「船長、緊急通信だ。受信を」

 奏海に促しつつ、銛長がさきに口を当てる。

「こちらスピアヘッド。どうした?」

「『ネプトゥヌス・センスに巨大鯨影確認! 全長約五十メートル、方位南南西、速度三十五ノット……まっすぐ本船へ向かっていますっ!』」

 緊張した通信機の声に銛長が小さくつぶやいた。

「きたか……ブルー」

 その声はどこか懐かしむようで、反面、避けられない悔しさで歯ぎしりするような苦々しさがあった。まるで古い友と会うのが怖いみたい、と傍で見ていた奏海はおもった。

「チーフ、スピアラーを全員船室へ。コネクターからチームを招集し、Bのニューロコネクトに備えろ」

「『了解。コネクト済み対象八体を投棄。プライマリーターゲットに集中します』」

「かまわん。今のうちに各自、休んでおけ」

 テキパキと指示を出していく銛長は、司令官の風格を漂わせている。とても奏海が声をかけられる雰囲気ではなかった。

 そんな奏海にちらりと目をやり、銛長が手を下ろした。

「船長。キャビンにお戻りを」

「えっ……どうして」

「これから船長として忙しくなるかもしれんですぞ。キャビンなら状況の確認がしやすく、指示も出せる」

 本気とも冗談ともとれないひょうひょうとした銛長に、奏海は返す言葉が見つからない。彼に聞きたいことはまだあったが、格納庫に何人かが駆け込んできてあわただしく作業をこなしている。銛長が彼らに指示しているが、本来はブリッジにいないといけないはずだ。

 暗に構っていられないと言われているようだったが、ここはおとなしく部屋に戻るべきだろう。

「わかりました。キャビンにいます」

 一礼して踵を返す奏海。その背中へしゃがれ声が問いかける。

「船長はクジラがお好きですか」

 突然の質問に束の間、奏海は返事に困った。奏海が海洋生物に関心を持ったのはイルカがきっかけだ。だがイルカもクジラも海に棲む謎の残る生き物である。どちらももっと間近で接したいと奏海はおもう。

「はい。好きです」

「そうですか。ならば、これから起こることはきっと忘れられんでしょう」

 奏海が意味を尋ねるまもなく、銛長は敬礼すると足早に格納庫を去っていった。


 *

 

 プレシィデュウム号は軍艦ではない。

 その証拠に、国際海事機関番号は漁船として登録されてある。

 軍艦ではないから砲台はなく、銛手が自分の目で標的に合わせる。同様に、艦長も存在せず、艦長を二分したような役職、スキッパーとスピアヘッドがプレシィデュウムの責任者を務める。

 それが、プレシィデュウム号が航海に出るため、国連に許された最低限の条件。

 そして、エクスチェンジャーがこのような苦しい言い逃れをし、たかが漁船に、最新鋭の空母艦に匹敵する人工知能を搭載した目的はもちろん、報酬目当てだ。

 比較的小さいミンククジラ一頭でも、両替後の価値は、数百万ドル。

 地球最大の生き物であるナガスクジラ類には、一頭あたり数千万ドルの値がつく。

 もし、いまだ一頭しか確認されていないBを生きて連れ帰ることができれば、その両替レートはそれこそ青天井だ。

 かつてクジラの価値はその数百分の一もなかった。VECによって貨幣へ両替できるとはいえ、二百トン近い肉と脂肪の塊の使い道は限られていた。

 疑似単細胞化技術、コピーセルが登場するまでは。

 学術誌に載ったコピーセルの論文を読んだ奏海は、そのさきに訪れるであろう地獄を見た。人にとってではない。人間以外のすべての生き物にとっての地獄だ。

 コピーセルとは、亜種クローニングと遺伝子工学、脳神経科学の発展が支えたバイオテクノロジーの到達点といえた。生物のクローニングにコストがかかるなら、質は劣っても数で補うという考えのもとで誕生した。サイボーグでもデザイナーベイビーでもない、生き物でありながらその定義からは大きく逸脱する科学の作り出した道具。

 だが細胞の複製には、生きたオリジナルが必要だ。それも、クローンではない天然ものが欠かせない。なぜなら、コピーセルが生み出した道具には繁殖能力がなかった。そしてコピー品のコピーは劣化がさらに早まる。

 だからこそ、元となるオリジンはいくらあっても足りない。

 系統の近さから解析が容易だった、ホモ・サピエンスを除く霊長類を"制覇"した人類が次に目を付けたのが、VECレートの下がっていた鯨類だった。近代の捕獲禁止の影響で数が増えたクジラに同じく、注目していたエクスチェンジャーとコピーセル推進派の利害が一致。

 ここに、両替屋と科学者の協力関係が誕生した。

 

「『……コネクト済みの陣形をBの進路と平行に組み換えたのち、本船を進路上に配置。主銛のチャージ開始』」

 船長室のモニターにブリッジの映像が映る。銛長はバルコニーのような見晴らし台を降りてコネクターたちと作戦を練っていた。

 メインモニターの下には船内のあらゆる場所が数十もワイプしているが、船外を映したもの以外、奏海にはどこなのかほとんどわからなかった。モニターの下はホログラフィキーボードも浮かんでいるものの、キーがとにかく多い。奏海が大学院で使っていたスパコンですら、この半分もない。

「外の映像は……っと」

 立ったまま、ワイプ映像の一つに手を伸ばす。キャビンには当然椅子もあるが、コックピットのような椅子もスイッチの類いにまみれているので、誤って押してしまうのが怖くて結局、奏海は座らず上着掛けに使っていた。

 奏海の指先が触れた途端、ブリッジの外側についているカメラに切り替わった。

「クジラが整列している……これが、ニューロコネクト」

 自然界ではあり得ない光景に奏海は歯を食いしばるしかない。

 海面に噴気孔だけ覗かせたクジラたちのぬるっとした背中。そこから伸びるエメラルドグリーンのケーブルが光ったかとおもえば、黒々とした背中がゆっくりと動きはじめた。一頭に限らず、同じように接続されたすべてのクジラが、種を問わず一斉に集まっていく。

 クジラは家族単位の群れを形成することはあっても、数十頭が寄り集まってじっとすることはない。

 海面を埋める影の群れは駐車する自動車を見ているようで、温度が保たれているはずの室内にいるにもかかわらず、奏海は悪寒で腕を擦らずにいられなかった。

 侵襲式脳神経接続。脳を直接コンピュータへ接続し、生体を操作する技術。さしもの量子コンピュータでも全シナプスのシミュレートはコストが見合わないが、体を動かす程度のコントロールなら、人間と機械が力を合わせれば容易にこなせるようになった。

 クジラの脳へダイレクトに銛を打ちこみ、ケーブルを伝い、運動に関わる神経叢を乗っ取る。そうしてほぼ無傷のまま、港まで曳行する。

 それが、商業海洋生物保護船・プレシィデュウム号の任だった。

「『コードネームB、まもなく射程圏に入ります!』」

 コネクターの声に奏海が顔をあげる。ワイプの一つに、3Dマッピングされた海中が映っていた。

 海面付近のうごめく集団から船体が杭のように突き出し、クジラの群れはここでも流氷のように小さく浮き沈みする以外、微動だにしない。海底までのあいだに映るのはオキアミや小魚の群れくらいで、海は静まり返っていた。

 ただ一つ、砕けた氷とは明らかに異なる流線形の影が矢のように杭へ向かって進んでいた。

「『なぜ本船へ? 過去、コードネームBは巧みに船を回避しているという記録ばかりですが』」

「『わしにもわからん。潜行して振り切るつもりかもしれんが……』」

「(どうしてわざわざ……?)」

 キャビンで聞いていた奏海も、コネクターと同じ疑問を感じていた。

 ビッグ・ブルーは極めて知能が高いと推測されている。おそらく、高度に発達した脳と、音による反響定位を組み合わせて周囲の状況をつかんでいるのだろう。クジラやイルカはそうやって互いにコミュニケーションを取っている。

 ただ、シロナガスクジラとおもわれるビッグ・ブルーが実際、どのように人間の包囲網を掻い潜っているのか謎はまだ多い。

 ふいに、低く震わすような音が奏海の耳へ届いた。

「ブォーン……」

 銛の発射音と似ているが、砲よりも長く響いてくる。汽笛のようでいてさらに低い。周期的に繰り返す重低音はまるで、目覚めを促しているようだった。

「まさかっ……?!」

 奏海の見開いた目をキャビンのホログラフィモニターが照らす。

 雲の垂れこめた凍てつく空と海に震える瞳。

 上着を引っつかみむと、スキッパーは足早に部屋を後にした。


 *

 

「うっ……」

 甲板へ出た途端、奏海の頬を潮風が刺した。あわててレモン色のフードを深く被りなおす。

 スピアラーのいないデッキは風を遮るヴェールも解除され、ケーブルを砲身から伸ばした無人の砲座がまるで幽霊船のように佇んでいる。

 ヴェールがなければ安全柵も当然ない。そろりそろりと甲板を歩き、砲座の一つに奏海が寄りかかる。分厚い手袋越しにもキーンと冷たさが伝わった。砲座のコンソールへ触れないようにしながら覗きこむと、制御室と同じホログラフィの脳が浮かんでいた。

「船長権限ならオフラインにできるの、かな」

 海面から十メートル以上ある甲板では、漂うばかりの黒い群れが嫌でも目に入る。いつしか重低音の唄は聞こえなくなり、極地のすべてが「ここは人間の来る場所ではない」と言っているように奏海は感じた。

 突然、船が大きく震えた。

「ドォ-ンッ!!!」

 轟音と共に奏海の足元、甲板の下から光の帯が海中を猛スピードで進んでいく。

「銛長っ! 海の中を光るなにかが……あれはなんですっ!?」

 ジンジンする耳を押さえ、奏海が手首の通信機へ叫ぶと、返ってきたのは落ち着き払った声だった。

「『ご覧になっておられましたか船長。プレシィデュウム号の主銛です。あの巨体を眠らせてから曳行します』」

「眠らせ、て……?」

「『ええ。高圧電力を流して一時的に麻痺させます』」

「それはダメっ! ビッグ・ブルーは唄で……鳴き声でなにかをするつもりで……」

 奏海の言葉は続かなかった。まるで地震が起きたように足元がぐらりと揺れ、奏海が尻餅をつく。

「『……状況を報告っ!』」

「『銛長! コードネームBが船を……プレシィデュウム号を牽引していますっ!』」

「『なんだとっ?!』」

「『ブレインアクセス拒絶されましたっ!! ターゲットを制御できません!』」

「『船体に損傷! メガロスピア制御不能ですっ!』」

 通信機から次々に異常を報せるコネクターたちの声があがる。

 砲座をつかみながら立ちあがろうとする奏海だが、激しく揺れる船に手が滑った。

「きゃっ……!」

 力を入れたはずの足がずるっと空を切った。重心が背中へ移り、落下の浮遊感が奏海にはまるで何時間にも感じる。

 奏海の頭をさまざまな場面がよぎっていく。

 幼い頃に水族館で触れたイルカの感触。

 もっと彼らを知りたくて猛勉強した日々。

 けれど、海洋生物学の博士号を取った先輩たちは皆、こぞって両替屋へ職を得ていった。科学者としてエクスチェンジャーの正当性を主張する仕事。

 結局、「給料がいいから」「間近で生き物たちを見られるから」と言い訳したのは、奏海も同じだ。

 人間の道具として生け捕りにされ、機械のように海面へひしめき合うクジラの群れ。

 自分も始めから知っていた。彼らと同じだ…………。

「……おいっ! ボケッとすんな! あっちの手ぇ伸ばせぇ!」

 凍える海を覚悟した奏海がだが、おぼれることはなかった。

 おそるおそる目を開けた奏海の前には、壮年の男性が甲板から身を乗り出している。焦げ茶色の頬に汗を垂らし、奏海の腕をつかんでいた。

「あなたは……?」

「んなことしゃべってる場合かあっ! おれは心中するつもりはねぇからなっ」

 袖がずるっと滑り、初めて奏海は自分が甲板からぶら下がっていることに気がついた。つい見下ろしてしまった足元には灰青の海が広がっている。

「うわっ?!」

 しがみつかれた男性は「痛てっ! 落ち着けっ」と言いながらも奏海を引き上げ、甲板にドカッと座った。

「はぁ……ったく、おれの銛が異常っていうから来てみりゃ、あんたがデッキを滑ってって驚いちまったよ」

「す、すみません……。あとありがとうございました」

 奏海の寄りかかった砲座がたまたま男性の担当だったらしい。

 マリンブルーのエプロンに奏海が目を留める。

「マサヒロ・アオイ、さん……? でもスピアラーのみなさんは船内にいるはずでは?」

「ああ。そうなんだがさっき揺れただろ? ヤな予感がしてな」

 奏海が足を滑らせたときの揺れは収まっていた。それでもビッグ・ブルーのパワーによるダメージのせいか、船体のあちらこちらから風切音に似た不気味な音が響いている。

 そのとき、合唱が始まった。

 軋む音をかき消すように、重低音の唄が重なり合っていく。

「……ビッグ・ブルーの唄が共鳴している!?」

 中には高い音も混じって、合唱が徐々に大きくなっていく。うねりは海面にも変化をもたらし、ひしめき合っていた群れのあいだから飛沫が上がっていく。

「『六、十七、二十八番スピア、接続解除! ニューロコネクトを維持できませんっ!!』」

「『……船長、聞いておられますか。こんなことはあり得るのか?』」

 続けざまに船が突き上げるように揺れる。足を砲座に引っ掛けたマサヒロにささえられながら、奏海が通信機へ口を近づけた。

「わかりません」

「『わからないとはなんですかっ! あなたはクジラのコミュニケーションの専門家として乗ったんでしょう?!』」

「『チーフッ!』」

 銛長の一言でコネクターが沈黙する。だが制御室の混乱は大きくなるばかりだ。

 この瞬間にも、唄はますます大音量になっていた。いまや海そのものが唸っているように音を響かせている。

 奏海が歯を食いしばった。

「クジラの共鳴など聞いたこともありません……。ありえるとしたら、ビッグ・ブルーの唄がほかのクジラたちに作用して神経の活性化を引き起こしているのかもしれません」

 通信機に向かってつぶやいた奏海に、ブリッジの銛長は押し黙っていた。策を練っているのだろうか。その向こうからは次々とニューロコネクト解除の報告があがっている。

「『技師長、メガロスピアは外せそうか?』」

 コネクターとは別の訛った声が答える。

「『そいつぁーちーっとムリですな、ヘッド。アオ専用のぶっといウィンチがへしゃげとるし、コントロール系は一発でぶっ壊れたときてる。こりゃ海じゃあ直せん。両替屋のやつりゃ、甘く見つもりやがったな』」

「『わかった。通信士、本社に救助要請を。チーフ、スピアラーを甲板へ行かせて他の銛の状態を……』」

「スピアラーならいるぜ。銛の半分はイカれて切り離しもできんがよ」

 それまで黙っていたマサヒロが名札をつかんで報告した。

「『……マサヒロか。命令無視もこういうときには役立つというわけだな』」

「海の男はそんなもんだろ……兄貴」

「お兄さん?!」

 雰囲気といい、どう見ても兄弟とはおもえない。驚く奏海にマサヒロが後頭部を搔いた。

「血はつながっちゃいねぇがな……とかく、おれはもいっぺん、見回ってくる。あんたはここにいろよ? いざとなりゃ砲座の下に救助ボートがあるから、ここのレバーを引っ張って展開するんだ」

 落ちるなよ、と再三、念を押してからマサヒロは小走りで既に傾きつつある甲板を駆けていった。

「『船長の声が聞こえましたが、デッキにおられますかな?』」

「はい。マサヒロさんはほかの銛の確認に行きました。あの、わたし……」

 キャビンに居るよう言われたにもかかわらず勝手に甲板へ出てきた奏海。

 咎められると覚悟し砲座に体を屈めた奏海を、意外にも銛長は褒めたたえた。

「『よい判断です船長。キャビンは船体中央にありますから、脱出が難しい。ではもう一つ……』」

 プレシィデュウム号の銛長が、船長へ上申する。


 *

 

「……ではもう一つ。船長、総員退船のご指示を」

 上官の言葉にブリッジの部下たちがにわかにどよめいた。

「銛長!?」

 上ずった声は銛長の傍にいた一人。弾かれたように腕のポータブルデバイスから顔を上げる。

「船を捨てるなど正気ですか?!」

 チーフコネクターの背後を赤いエラーにまみれたモニターが救難信号のように照らしている。もはやコネクターたちのホログラフィで緑色のものはなく、CIC中がまぶしいばかりの赤に満たされていた。

「わしは至って正気だとも、チーフ」

 静かな声で銛長に諭され、食ってかかった部下はわずかにうつむいた。その拳はキツく握られている。ちらりと見やった銛長が手首を口元に近づけた。

「マサヒロ、救助艇はどうだ?」

「『全員乗るぶんには問題ねぇ! けどよ』」

 通信機からマサヒロの声が叫び返す。

「『はやくしねぇと砲座ごとちぎれ……』」

「ガリガリッ!!!」

 調整しきれないクジラの共鳴に、金属の擦れるような音が混じるや、船体が激しく傾いだ。

「互いにつかまれっ!」

 銛長の掛け声にコネクターたちの反応は速かった。

 掴まる物のある人間がそれをつかみ、他の者は仲間の手を取る。フレキシブルオペレーションルームのCICではクルーの動きを検知して椅子や机が床からせり出してくる。

 緊急時には"人間の鎖"を作るのが手っ取り早い。そして、姿勢制御システムを完備しているCICがこれほど傾く緊急事態は一つしかない。

 同僚にしがみつきながらもビッグ・ブルーのニューロコネクトにあたらせていたチームの一人が、銛長を振り返った。

「艦橋スタビライザー破損! このままでは航行に支障が……」

「くそっ! なんで制御できないんだっ?! ただのデカいクジラだろがっ!」

 チームの別のメンバーが片手で『Neuro-connect Unable』の文字を叩く。するりとホログラフィが透けていく。どれほどの高性能マシンを積んでも、脳へ接続できなければ意味をなさない。

 そこに脳モデルはなく、訓練でしか目にしたことのないアラートがコネクターたちをあざ笑うように浮かんでいる。

「『だ、だいじょうぶですかブリッジ?! クジラたちが別々の方向に船体を引っ張っています』」

「こちらは軽傷だ船長。あなたはデッキでマサヒロとクルーたちの誘導を頼む。……総員、デッキへ向かえっ!」

「ですが銛長っ。われわれには任務が……」

「死ねば任務が達成されるのかっ!!」

 傾いた床をものともしない銛長がすくっと立ち上がった。左腕が不自然にぶらりとしている。チーフコネクターを支えたときに傷めたのだろう。

 ハチマキから汗を滴らせ、司令官がブリッジを見回した。

「プレシィデュウム号の設計は対象の抵抗を想定していない。Bの捕獲のため補強されてはいるが、このままでは船体が分解する」

 仲間の肩を借りて姿勢を立て直すクルーの一人一人へ目をやりつつ、銛長の朗々とした声が続く。

「すでにわれわれは貴重なBのデータを得た。今回を機につぎはより確実な方法がとられることだろう。全クルーに告ぐ……」

 チーフコネクターが腕のデバイスを叩いた。エラーまみれのモニターにスピアラーの船室、機関室のメカニックたちの姿が映る。額から血を流している者もいるが、皆、銛長の言葉に聞き入っていた。

「だからいまは帰還に専念してほしい。われわれの仕事は帰ることだ」

 束の間の静寂を壊れゆく船の軋みと、なおも続くクジラの"唄"が埋めていく。ひときわ重く長い重低音が頭に直接響くようだった。

 ふっと、拳を解いたチーフコネクターが顔を上げた。

「コネクター、全データを本社の衛星へ送信。その後、ニューロコネクトサポートAIは破棄。航海日誌は銛長のデバイスにダウンロードを」

「ログはわしが最後に送ろう。全員の退避を見届けたあとだ」

 最後と言った銛長に胸騒ぎをおぼえたものの、有無を言わせない黒い瞳にチーフコネクターは言葉をのみ込んだ。

「……わかりました」

「よろしい。各自、最小限の荷物のみを持ってデッキへ集合!」


 *

 

「えぇっと、わたしはなにを……?」

「あんたまだ座ってのかよ。通信、聞いてたろ? ボートの準備くらい手伝え」

「マサヒロさんがここにいろって」

 奏海が頬を膨らませると、斜めになった甲板を戻ってきたマサヒロは聞こえなかったと言わんばかりに救助ボートの設置を手ほどきしはじめた。

「ちょっと離れてろよ……」

 奏海を甲板に下がらせ、マサヒロが砲座の根元にあるレバーを下へ引くと小さい爆発音がして吹っ飛んだ。

「これがクジラのパワーってやつだ。……銛をはずしてやりたかったがな」

 金属の塊が水切りの石のように海面を切っていく。ケーブルでつながっていた黒い背中が尾ヒレを振り上げると、クジラと共に捕鯨砲も沈んでいった。

 甲板からフードの首をのばして見ていた奏海の声が冷たい風に紛れていく。さきよりも風が強くなっていた。

「あんなに重いものを引きずってたらいつか……」

「まあな。だがいまは、おれたち自身の心配をするときだ」

 マサヒロが奏海を呼び寄せ、砲座のなくなった甲板の縁から覗くように指さす。

 腕を引っ張ってもらいながら奏海が頭を出すと、海面に蛍光色のロールケーキのようなものが浮かんでいた。筒状の端はスライダーで甲板の底部とつながっている。一昔前の旅客機の緊急脱出装置に似ていた。

「ボートってあれですか?!」

「ああ。N.O.A.H.っていう大層な名前がついてるが、おれにゃ、カリフォルニアロールにしか見えん」

 マサヒロが言うには外観はともかく、"カリフォルニアロール"の性能は折り紙付きらしい。外装のロール部分がバラストとして海水を蓄え、酸素と二酸化炭素、窒素といった空気や真水の抽出もできるそうだった。

 簡易医療キットと食料も完備したロール型救助ボートは、単体で十人を収容可能で1カ月は生存できるよう設計されているとか。

「あんたはデバイスでボートのセルフチェックをしてくれ。破損したやつがあるかもしれんからな……船長さんよ」

「ちょっと?!」

 言い残し駆けて行くマサヒロ。傾斜に慣れたのか、足取りが軽い。

「セルフチェックってどうやるのよ……あっ、銛長さん?」

 リストバンドを突きまわすうち、立体ホログラフィが腕を取り巻くように展開。

 見慣れない単語の操作項目を奏海が睨みつけていると、着信を報せるポップアップが浮かんだ。

「『船長、クルーたちは全員、甲板へ向かいました。揃い次第、救助ボートの発進命令を。総員退船のコールであとは各ボートが自動で離脱します』」

「わ、わかりました。でもあのっ、そこってブリッジですよね? 銛長さんはいつ……?」

 それまでと違い、今度の通信は映像付きだった。銛長の顔は映っておらず、カメラだけが動いている。制服のピンカメラなのだろう。

 階段を上がった映像は、傾いた無人のCICを見下ろしている。個々のモニターに代わり、壁一面に船外の様子が映し出されていた。散り散りに泳いでいこうとする黒い背中が潜水するたび、船の裂ける耳障りな音がし、奏海のデバイスに警告が増えていく。

 ふいにカメラの視界へ白い手袋が映りこんだ。

「『船長、前にクジラがお好きだとおっしゃいましたな』」

 数時間前、わざわざ奏海を呼びに格納庫を訪れた銛長の姿が頭に浮かぶ。

「はい。でもあの、クルーのみなさんも集まってきたので銛長さんもそろそろ……」

「『いまはどうですかな? われわれの業とはいえ、抵抗する彼らによって、部下たちは血を流している。話をする機会は少なかったかもしれませんが、それでも出航から半年、ともに過ごした者たちです』」

 銛長の声から感情をうかがい知ることはできなかった。バルコニーの歪んだ手すりを握る手袋と同じく、落ち着き払ったいつも通りのスピアヘッドである。

 だからなのか、奏海はトゲのある言葉に悪意は感じなかった。

「……みなさんが怪我をして、船も壊されて正直わたし、こわかったです。わたしの知っているクジラは、こんなことをするような生きものじゃない」

「『しかしこれが現実です船長。彼らも生きとし生けるものである以上、害為すものには全力で抵抗する。ときに、見たこともない方法で』」

「でもそれはわたしたちが……」

 そうです、と潮風にさらされ続けてきた声が遮る。

「『われわれが選んだことだ。手段はどうあれ、生きるためにわれわれは狩る側を選択した。だからこそ、その責から逃げてはならない』」

 白い手袋にギュッとシワが寄る。だが、離そうとはしない。

 銛長の意図を察した奏海の顔からさっと、血の気が引いた。

「まさか銛長……残る気じゃ……」

「『わしはですな船長。名にし負うクジラの"唄"とやらを、まともに聞いたことがありませんでしてな。ずいぶん長いこと彼らを追ってきたというのに、いやはや、お恥ずかしい』」

 銛長が呵々と笑った。諦観したスピアヘッドの笑いに奏海が急いで周りを見回す。

 甲板にはコネクターを始め、奏海が一度も見かけたことのないメカニックたちの黄色い制服もあったが、探しているエプロン姿はない。

 饒舌な銛長の言葉が続く。

「『ここなら特等席だ。しかも、リードボーカルはかのビッグ・ブルーときている! この機会はそうそうありませんぞ。それにデータは必ずや、大いに役立つ。ならば、聞き遂げるのがわしの責でしょうな』」

「なにいってるんですかっ銛長さん! 帰るのが仕事といってたでしょうっ?! いまマサヒロさんを呼んでそっちに」

「『碧野船長』」

 通信機に銛長の顔が映っていた。手にのせたピンカメラを目線に掲げた黒の双眸が奏海の名前を呼んでいる。

 そこに狂気は微塵もなく、ただ職務に忠実だった男の、小さな望みだけがあった。

「『あなたのご覧になったものをけっして、忘れないでいただきたい。その立場でしか伝えられないことがあるはずです。どう伝えるかは……お任せしますが、ご自身の責務もお忘れなきよう』」

「ダメですっ! 船と運命をともにするとか、いつの考え方ですかっ。それなら船長のわたしが……そうだっ」

 ゴシゴシと目元を拭った奏海が姿勢を正した。

「プレシィデュウム号の船長として命じます。アオイ銛長! ただちにデッキへ来てくださいっ」

 奏海がだれかに命令したのは初めてだった。スピアヘッドの見よう見まねではあるが、この船は規律に厳しい。スキッパーの命は絶対のはずだ。銛長が戻ってくれるならたとえ身の程知らずと、あとで罵られてもいい。

 だから、ふっと微笑んだスピアヘッドに奏海は、希望が影も形もなく消えたことを悟った。

「『やはりあなたは正真正銘の船長だ。あなたなら、わしの諦めた道を歩んでゆけるかもしれませんな。彼らの考えをあらためさせるのはそう簡単ではありませんが、望みはある』」

「なんのことですか……? そんなことより、はやく上がってきてください!」

「『それとひとつ……』」

 奏海の命令を聞き流した銛長が人差し指を立てる。まるで新人の船乗りに教えるような仕草だ。

「『銛長は唯一、命令の拒否権をあたえらているのですよ、スキッパー』」

 通信はそこでぷつりと途切れた。


 *

 

 奏海がマサヒロを探し出したとき、すでにプレシィデュウム号はデッキに亀裂が走り、船体が沈みはじめていた。

 やむなく総員退船の指示を出した奏海が、銛長が来ないと訴えるとマサヒロは目を閉じ、「そうか」とつぶやいただけだった。

 

 救助ボートに乗りこんだ奏海たちが見たのは、倒れていく塔のようなプレシィデュウム号と、それを喜ぶかのように南極海を木霊するクジラの唄だった。


(完)


 ☆ゲンロンSF創作講座 発表作品

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Blue's Song ウツユリン @lin_utsuyu1992

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