(2)敗走と急襲
【二条里帝の『罪状』】
ここで、二条里帝がグラファード側から渡された『罪状』を紹介したい。図書帝国もきちんとした法治国家である。常に、『罪状』なるものが必要であった。三院会戦も、今後の彼我戦争においても、全ては法を駆使しての弾劾から始まっている。この時には、操作が容易に可能な状態であったので、法による闘争は無かったものの、人民を納得させる為の『罪状』を作成したのである。
先ず、小さなものから紹介したい。
1 帝政樹立戦争における出所不明金。実際には、その多くが寄付であったのだが、当時はそれを記すだけの機関が発達していなかったのである。また、アメリカでは、派遣されたのが二人だけであった為、そのような暇も無ければ、その必要性も求められていなかったのである。
2 皇帝に無断で三ヶ国と同盟を結んだ事。並行世界連合の締結は辻杜帝の時代に行なわれた事ではなかったが、ユヌピス、ギジガナアニーニア、レデトールとの同盟は辻杜帝の指示を仰いでいない。通常、正式な同盟の締結には、皇帝若しくは人民投票の最終的な承認が必要となる。それを窺おうともしなかったのである。しかし、現場の執政官には条約の締結権がある。そして、当時の二条里執政官は退官が迫っていたので、その時間も無かったのである。
3 捕虜の無断での釈放。捕虜の処遇も、通例ならば皇帝の承認が必要であった。
4 トレラニア戦役における軍紀違反者の処刑。これは、皇帝にその許しを求めなかっただけでなく、公然で、しかも、官吏に行なわせるのではなく自らが剣を振るったのが、二重にも三重にも違反であったのである。とはいえ、グラファードも、軍紀を犯した者を自ら処刑し、その財産を全て没収して着服している。また、他の軍でもこれは恒常的に行なわれていた。
5 属州や同盟国において金品を受け取っていた事。二条里の場合、これを全て属州への寄付などに回したが、また、収賄自体は違法とは規定されていなかったが、以前は多くの国々で用いられていたので、これを復活させていた。
6 オーガスタ帝の就任式に出席しなかった事。執政官は、就任の際の祝辞を述べる事が求められていたが、この時には、二条里が出席せず、すっぽかしたのである。法的には、不敬罪に当たった。
以上が、二条里の『罪状』のうちの小さなものである。小さいといえども、一見すると、一部は国家の根底を揺るがすものもある。とはいえ、その多くは二条里帝が特別に多くの権利を与えられている時であった。故に、この多くに対して、皇帝達は二条里を叱責していない。だが、グラファード側には、十分なものと写ったのである。
そして、重要な『罪状』であるが、これに関しては一つ一つを細やかに述べていきたい。何故なら、これこそがこの文輪彼我戦争を内乱として成立させ、クラッタニア戦役の混迷を深めたからである。
先ず、第一の理由は身分制度を再建する事を提案し、人民の平等を破壊した為である。
これは、主に共和制派が主張する事象であるが、二条里が帝政樹立戦争の終結前に、奴隷制度の再興の指針を次代皇帝に残していたのである。デスフォート帝はそれを継承して採用したが、その根本を成したのは、本人も認める通りに二条里であった。そして、この制度は『初代二条里執政官人民基本法』にある、人民の平等という規定に反するとしたのである。『~基本法』と付くものは、基本的には文輪では大きな、通常ならば憲法に相当する力を持つ。故に、この二条里の提案は、最高法規に反する違法行為とされたのである。また、熱烈なる共和政派には、欧米人が奴隷として従事するのが、仮令他人であろうとも屈辱的に感じられたのである。
だが、これは表面的なものである。先ず、二条里が定めた『初代二条里執政官人民基本法』で定められている平等とは、機会平等、金銭的繁栄の平等、福祉享受の平等、教育の平等、そして、皇帝選出権の平等である。この中には、身分の平等は全く示されていない。つまり、二条里は、能力さえあれば如何なる身分にでもなりうるようにしたのである。故に、二条里帝は身分制度の指針の中で奴隷、自由民の他に、解放奴隷や貴族、知識人層等の身分を設け、ある条件を満たせば如何なる人物であろうとも昇進が可能なようにしてあったのである。特に、知識人層は一代限りであったし、解放奴隷も子の代には自由民となる事が出来たのである。これを基にしてデスフォート帝は身分制度を創始したが、幾つかの身分の追加を除けば、その殆どが二条里の伝えた身分制度と同じなのであった。
これによって、最も大きく力を伸ばしたのは黒人系の人々であった。先ず、デスフォート帝は軍隊で功績のある人を中心に貴族を組織したのである。その当時の軍隊の主力で活躍した人々には、黒人も多かった。そうなると、自然と貴族に列席する黒人も出てくるようになる。流動性はあったものの、黒人は着実に力をつけ、白人の奴隷を多数抱える人も出現するようになったのである。
逆に、多くの奴隷を出す事となったのは差別的な言動による暴動などを行った欧米を中心とした白人であった。奴隷といえども、身体の不可侵(強要された性交渉の禁止)や給与・雇用の保障、人格の保証などの権利が与えられており、酷使可能なものではなかったのである。但し、奴隷に無かったのは住居の自由と就職先の自由。そして、選挙権の三つが主である。特に、二番目は奴隷の主人同士で売買を行い、突如として主人が変えられる事もあったのである。但し、稀な例でもあった。結婚の自由は制限されていたものの、家族生活の権利は保障されていた奴隷を売るという事は、その周りの家族を手放す事にも繋がったのである。集団で奴隷を失えば、生活に支障が出る事もあった。また、解放奴隷階級から選出される奴隷保護官と呼ばれる官職もあり、非人道的な行為を可能な限り抑えようとしたのである。
この奴隷階級に関して、二条里帝は二度目の帝位の時に以下のように述べている。この頃には、人間以外の種族も含め、六億八千万の奴隷がいたとされる。
「何も、奴隷という存在は虐げられる為に存在しているのではない。奴隷であろうとも、その能力を駆使し、チャンスを確実に掴んでゆけば、次の代には市民権を得る事が出来る。これは、戦争で敗者になろうとも、後には帝国人民の一人となれる事を示している。今では、地球人の奴隷は稀であり、ギルニア人の奴隷が中心である。とはいえ、これも後には皇帝位にある人物を生み出す基盤となるであろう」
このようにして二条里が産み、デスフォートが孵した奴隷制度であるが、これも共和政時代に解放奴隷の枠組み制限と、市民権取得の大幅な制限により、崩壊する事となる。だが、それまでは堅固な仕組みとして存続する事となる。
けれども、このような歴史を当時の白人種の人々は知らない。また当時は、二十万はいたとされる白人系の奴隷の数は、他の人種からすれば抜きん出ていた。これに、一度は世界を支配したという誇りが彼等に結びつく。そうなると、白人系の半数近くは、白人奴隷は全て市民権を得られるようにするという白人のグラファードに従ったのである。グラファードの軍はその半数が白人系で構成されており、この時はその殆どが白人系の市民権所有者や奴隷・解放奴隷が中心であった。故に、これを解消するには市民権を与えるのが一番早い。事実、後に二条里は彼等の一部に市民権を与えている。但し、その対象は二条里軍相手に敢闘した者とされた。このような時でも、二条里帝は機会平等の原則を譲らなかったのである。
第二には、許可無く軍団を編成した為という理由である。これは、第二次クラッタニア戦役が始まると同時に、二条里が第五軍団となる軍団を私的に編成し、これに訓練を施したというものである。軍隊の編成は、公人ならば軍事力を持つ機関の承認が必要となる。具体的には、皇帝、執政官、又は常任委員会である。鈴村帝は許可しなかったのかというと、黙認していたようである。彼女にはその理由がクラッタニア軍との交戦にある事が分かっていたからであろう。故に、事後承認すればよかった。だが、その承認を与える前に、鈴村帝は戦死。その後に残ったのは二条里の非公式の一個軍団だけであった。そして、グラファードはそこを的確に突いたのである。
第三の理由は、フランシス帝の皇帝宣言によって、二条里が国賊とされていた為である。当然、これは鈴村の恩赦によって無に帰していたのだが、これをグラファードは、二条里がフランシス帝の皇帝宣言に従わず、皇帝の権威を冒したとしたのである。
以上の三点が二条里の大きな『罪状』であったが、グラファード軍はこれで十分に最終事態宣言を出せたのである。しかし、当の二条里はと言えば、単に笑っただけであったという。そして、それを伝えてきたグラファード側の代表に、
「罪状はこれだけか。いくらでも持ってくるが良い。彼が望むなら、万引き犯にもでも、下着泥棒にもでもなろうではないか」
と、言ったそうである。しかし、一笑に付した二条里ではあったが、戦いの準備は着実に進めていたのである。それと同時に、今までとは異なり、予備兵を編成している。実際にはその為に使われる事は無かったが、戦いが始まる前から、敵軍の接収は考えていなかったのである。
以上が二条里に関する『罪状』であるが、実際には、グラファードはこれを基盤として戦っているわけではない。やはり、これも権力闘争である事に変わりは無かったのである。故に、決着は剣を交えるより他に無かったのである。
【近畿会戦】
通常、二条里帝は電光石火の速さで敵を攻める。ギジガナアニーニア戦役などは好例であるが、早急に戦い、早急に終らせ、早急に戦後処理を行なっている。また、第一次文輪彼我戦争は数日で決着を付けている。だが、この時には逆に速度を落として着実に攻略していたのである。故に、二条里帝が中国地方を制圧するのに約一ヶ月を掛けている。その間に、他の地方の攻略を終えた霧峯や内田が合流したが、二条里自身の行動は相当に慎重であったのである。
これにはグラファードの様子を見るという大きな意味があった。というのも、グラファードの精鋭の訓練が終了したのである。二条里にとっては別段、どれだけの数の兵士がいようとも構わなかった。だが、彼にとっては将と兵とが一体になって動く敵こそ恐ろしかったのである。
戦争において最も重要な事は、多くの兵士を抱く事ではない。互いに信頼できる兵士を確実に持つ事である。そうすれば、百万の兵を三万で打ち負かす事も可能である。逆に、強大なる敵に立ち向かおうとするのであれば、必ず、自分の兵士達との信頼を築く事に専念すべきである。
これは、二条里帝の著作である『戦役について』の一部である。二条里帝は幾つかの著作を残しているが、これもその中の一つである。「文筆皇帝」の異名をとる二条里帝であるが、そのおかげで彼の事に関しては、相当程度までに肉薄が可能なのである。ここで、更にもう一文紹介したい。
間者からの情報を集める際には、敵の兵力を単に調べるだけではなく、その軍が如何なるものであるかを調べるべきである。具体的には、如何なる訓練を受け、如何なる戦いをしたか、の二点に集約されるが、この二点が戦役の行方を担っていると言っても過言ではない。そして、それを集め終わるや分析を行い、如何なる戦いをすべきか、慎重に考えなければならない。
このような事を文章の中で語った二条里帝であるが、文章で書いた事をそのまま実行する彼である。この時の二条里もこの文章と同じように行動していた。故に、グラファード軍の精鋭の内情を把握しつつその情報を分析していたものと推察されるのである。だが、二条里の思惑とは裏腹に、グラファードは他の戦闘を全く行わず、二条里との決戦を急いだのである。生粋の軍人であるグラファードは、二条里の考えが分かったのかもしれない。兎に角、事を急いだグラファードは昼夜を問わない行軍で距離を稼ぎ、僅か一日で北海道から中部地方にまで達している。しかも、途中で重要地点である東京に寄り、そこで更に七個軍団を加えている。これは当然、非主戦力である。
これに驚いたのは二条里帝である。常には彼の行なうような行軍が、グラファードによって行なわれたのである。だが、驚きはしても動揺はしなかったようである。二条里帝はやはり、並の武将ではないのである。そして、同様に非主戦力となる二個軍団を集めた二条里帝は、『日本列島首都化計画』によって新地となっていた近畿地方に陣を構えたのであった。その二日後、万全に準備を整えたグラファードが、二条里に向き合うようにして布陣している。
それからは、互いの腹の探り合いが始まった。当然、小競り合いは繰り返される。その間に、布陣の訓練を行い、決戦に備えるのである。だが、この時の両軍には、互いに秘密兵器があったのである。互いにそれを出そうともしなかったが、その準備はこの間に着々と進んでいたのである。そして、小競り合いにおいてグラファード自身が出陣してきた時、その戦いは始まったのである。両陣営とも、この意味を熟知していたのである。即ち、その日の戦いはグラファードが出陣するだけの大きな物になるという意味である。
南中頃、両陣営共に布陣が完了した。六月十八日の事であったという。故に、この時の合図は太陽の動きではなく、雨が大地を濡らした時であった。雨音と共に、両軍が激突したのである。
開戦直後、グラファードは機動兵に出陣を命じた。当然、その役割は二条里を包囲殲滅する為である。これに対し、二条里帝は第五軍団をぶつけたのである。但し、その戦略は、常例とは異なった。先ず、開戦直後に投げる槍が二本束ねてあり、それによって機動兵の進む道を防いだのである。これは、見事に成功した。二本に束ねられた投げ槍は地中深くに突き刺さり、折れるや障害物として残ったのである。これにより、主戦力中の主戦力である機動兵は封じられたのである。二条里帝の秘密兵器は功を奏した。
だが、グラファード側もこの程度の犠牲で揺らぐ事は無かったのである。そればかりか、彼は機動兵が封じられたのを確認すると、指示を出して秘密兵器を用いたのである。即ち、精鋭中の精鋭を地中から出したのである。
これは、グラファードが予め用意していたものである。当然、この決戦の為に、である。だが、何故このような事が可能であったのか。それは、グラファードによる緻密な計算にあったのである。
グラファードは第二次文輪彼我戦争の開戦以前から、二条里の戦法などを研究していた。その中で、彼は気付いたはずである。トレラニア戦役以後、二条里が決戦の場や宿営地を選ぶ際に神経を使っている事に。そうでなければ、彼のこれ以降の作戦は考えられないのである。即ち、新地を大きく改造し、宿営地を築いても問題は無く、決戦をしても何等不都合の無い場所を作り上げたのである。元々、首都日本においては決戦が可能な場所など非常に少ない。それも、会戦が可能な場所となると、非常に限られてくる。だが、二条里は会戦による決戦の方が得意であった。故に、必ず利便性のある土地であれば喰らいついてくる、とグラファードは考えたのである。そして、それに伴って会戦を有利に進め得る地下壕の建造を行なったのである。これは、二条里帝が決戦を決意し、グラファードに宣戦布告を行なってからである。当然、外れる可能性もあった。だが、二条里に勝つ為には勝負をするより他になかったのである。
この奇抜な作戦に、二条里軍はよく耐えた。二条里が非主戦力として呼び寄せた二個軍団が壊滅してからも、グラファード軍の攻撃によく耐えたのである。だが、それも三方が包囲され始めると、流石に崩れ落ちた。そして、二条里は開戦から二時間後に、終に、退却の命令を出したのである。
昨日までは戦勝に輝いていた軍が後退してゆくのを、二条里は静かに見守った。その中で、二条里自身は最後まで戦場に残り、退却時に出る事必定の追撃による犠牲を可能な限り防いだのである。それでも、多くの兵が近畿の大地を朱に染めていった。
この日の会戦により、二条里軍は三千の死者と一万二千の負傷者を出した。捕虜がいないのは、それを潔しとしなかった二条里の軍団兵達が自害した為である。逆に、グラファード側の犠牲者は百。負傷者は数えるまでも無かったそうである。明らかに、グラファード側の圧勝であった。
この戦いの結果は瞬く間に帝国全土に広まった。当然、それはギジガナアニーニアにも届いている。そして、この報告に狂喜乱舞したギジガナアニーニアは文輪に対して条約破棄を宣言し、禁止していた必要以上の軍備増強を開始したのである。また、トレラニア戦役当時に二条里が平定したヴィア王国も文輪に対して条約破棄を行い、クラッタニア星側に付くと宣言したのである。この他にも、二条里が平定した諸地域では文輪に対する反乱の種が育ち始めていたのである。
だが、幸いにも三つの支柱は確固たるままで残ったのである。その三つとは、ユヌピス、レデトール、トレラニアの三カ国である。この三国は既に、二条里の様々な『政策』による恩恵を受けており、『文輪化』されてしまっていたのである。また、これらの国には二条里に対する個人的な信奉者も多かった。故に、この三国は二条里側に立ったのである。ユヌピス王国などは、大デベデジニアが兵力の供出を申し出るほどであった。それでも、二条里はそれを丁重に断っている。
兎に角、この会戦によって二条里は敗者となり、グラファードは四十年ぶりに二条里を敗北させた将軍となったのである。故に、このまま彼我戦争が二条里の敗北によって幕を閉じてもおかしくは無かった。だが、そのような事は起きなかったのである。
【東京急襲】
何故、先に述べたような事が起きなかったのか、その原因は以下の二つに集約される。
・二条里の撤退が巧妙であり、かつ、少ない犠牲で済んだ事。三千と言えば多いように思われるかもしれないが、僅か全体の五パーセントに過ぎなかったのである。そして、残りの九十五パーセントさえあれば、十分に挽回は可能だったのである。
・グラファードの行動が遅延になった為。元々、行動が遅めであったグラファードであるが、この戦勝を境に、更に遅くなる事となる。つまり、勝利の美酒に酔いしれたのである。そして、一度でもその味を覚えてしまうと、彼は駄目であった。会戦終了後、彼は配下の兵に二条里の追撃を命じるのではなく、二条里軍の置いていったものを奪い尽くすように命じたのである。大したものではない。だが、この時には既に、凱旋式の予定まで計画していたという。そして、そのような夢想に浸ったまま、彼は三日を空費したのである。
二条里との戦いにおいて、三日の空費とは他の戦役と比較すれば一年近くの空費に相当する。だが、彼はこのような事も考えられなかったのである。
一方、二条里側では軍の再建が進んでいた。先ず、一日で負傷者の回復は済む。そして、二日目には全軍に休息を与えた。次の戦いの為の気力をつけさせる為である。だが、二条里下の軍団兵達はそのような事よりも、二条里帝の様子を窺っていたのである。二条里帝は敗戦後、一度も軍団兵達の前に姿を現していなかったからである。通例ならば、このような事は決してない。それだけに、彼等にはそれが心配であったのである。そこで、勇気ある軍団兵の一人が二条里の幕営の中を覗き見たのである。
それは、異様な様子であったという。喪服を着た二条里がその姿で汗だくになりながら剣の素振りをしていたのである。そして、その彼の机上には戦死した三千の軍団兵達の濡れた名簿があったのである。
この話は瞬く間に二条里軍全体に広まった。そして、彼等は誰かに言われるまでも無く、自分達で訓練を始め、次の決戦に備えたのである。これを見た二条里は、簡潔に演説を行なった。
「戦友諸君、一昨日の敗戦に関してだが、君達は負けたという事を気にしてはならない。それよりも、その中で多くの戦友達が命を落としたという事を常に考え、その若くして死んだ者達に顔向け出来る戦いであるかを気にするべきである。今回の戦いは、私にとって残念ながら、顔向けの出来ないようなものであった」
この演説の直後、軍団兵達は一斉に涙を流した。だが、二条里はそれに対しては一言も発しようとはしない。そこで、ある軍団兵が二条里帝に向って敢然と立ち上がり、叫んだ。
「司令官は何故我等と共に悲しみを分かち合わないというのか」
「私がこの場で涙を流さないというのは、労力を空費しない為である。我々には、未だ泣くだけの力が残されている。私はその力をこの雪辱を晴らす為に用いたいのだ」
この二条里帝の一言が、全ての軍団兵を変えた。武器を急いで掻き集めると夫々の旗の下に集い、二条里の司令を待っていたのである。これで、この五個軍団は完全に二条里の精鋭になったのである。そして、二条里は労力以上に時間を空費する事は無かった。全軍に可能な限りの軽装を命じると全軍に出陣を命じたのである。速度は最強行軍。行き先は首都日本の当時の中心地である東京であった。
この行軍には二つの要点があった。一つはスピード、一つは敵に気付かれない事、である。この二つを解決するには、行軍速度を最高にしての迂回しかなかったのである。可能な限りは敵を避け、不可能な場合にはそれを迅速に捕縛した。故に、グラファードに二条里軍の再起が伝えられる頃には、首都東京が陥落していたのである。
久し振りの進軍に東京の人民達は驚いたが、その主が二条里であるという事が知れ渡ると、最早、グラファードによる守備兵は意味を成さなかった。次々と人民は二条里の下へと急ぎ、その姿を一目見ようと押し寄せたのである。これに、二条里も応え、多くの人民と手を取り合って街道を進んだ。そして、両院会議議場に辿り着くと両院に皇帝就任の承認を求めたのであった。
これに困ったのはグラファードである。この瞬間、グラファードは正統政府としての権力を失った事となる。これは法的な正当性を拠り所としていたグラファードにとっては大きな痛手であった。そこで、彼等は首都を放棄する事となる。
七月八日、諸々の処理を終えた二条里が駆けつけた時には、グラファードは既に日本を発っていた。奇しくも、日本から出航したのは鹿児島の南端であったという。そこが、彼等に残された最後の寄港地であったのである。そして、『都落ち』した兵士達を連れたグラファードが辿り着いたのは中国であった。
【二条里、『皇帝』登位】
首都での決戦に敗れつつも、それを手にした二条里は、しかし、自ら両院を召集する事は無かった。その代わり、残っていた二条里派の法務官である安西に両院を召集させたのである。法務官は執政官や常任委員長が不在の時には両院の召集権を持つ。この時の二条里は法を遵守したのである。今更と思われるかもしれないが、二条里は可能な限り法令を遵守する人物である。
それで、この法務官安西が召集した両院で協議された第一の議題は二条里の皇帝就任についてであった。
何故、今更皇帝就任の伺いを立てる必要があるのか、と思われる読者もいらっしゃる事と思われる。確かに、これに関する実利は皆無と言って良い。だが、二条里はここで、正当性の回復を期したのである。つまり、早々に国賊から解放される必要性を感じたのである。とはいえ、それと同時にグラファードを国賊に指定する等という事を、二条里はしなかったのである。その代わり、二条里は以下の三原則を発布した。「寛容・統一・共闘」の世に言う「二条里声明」である。
これに関して一言で言えば、互いに剣を収めてクラッタニア軍を駆逐すべきである、というものである。ここで言う「寛容」は、処罰せずと言い換えが可能でもある。以後も文輪は多くの内乱を抱える帝国であるが、その中でも、互いに相手を処罰すべきでないという考えを出したのは二条里だけであった。これは、最早二条里の性格に帰するとしか言いようがない。確かに、敗者の同化と言うのは政治的にも必要な事であったであろうが、実際にこのような事を実行したのは、二条里を含めて稀な例となる。
だが、この稀な例が二条里に味方した。この声明により、グラファード派が若干軟化したのである。若干、としたのは大して強硬でない人達に限ったからであったが、この若干が二条里を皇帝に格上げしたのである。
七月二十三日、二条里は正式に両院の承認を得て皇帝となる権利を獲得した。そして同二十七日、二条里は皇帝の証である「皇帝杖」を両院の代表から受け取り、皇帝に就任したのである。文輪では皇帝冠は存在しない為、これが全権移譲の象徴となったのである。
こうして、正式に皇帝に登位した二条里が最初に行った事は、各方面への援軍の派遣と、グラファードに対する共闘協定の打診であった。この時に派遣された三個軍団は、二条里の「予備役」であった、即ち、兵力が不足した際に呼び寄せる為に準備していた軍団であった。その為、この援軍は奮戦している両執政官と常任委員長に一息つかせるには十分であったという。
その間に、グラファードから決戦の申し出が二条里の下に届いた。つまり、「共闘」をグラファードは蹴ったのである。これに対して、二条里ははっきりと否と答えた。今は内乱を繰り広げている場合ではないとの理由をつけた上である。だが、これに対するグラファードの答えが変わる事は無かった。抜粋する。
「私には貴公と共闘する事はない。首都を軍で蹂躙し、勝手に皇帝の名を名乗るような輩とどのように共闘せよと言うのだ。私が貴公と共闘するというのならば、条件はただ一つである。貴公が罪を受け入れ降伏する以外にはない。それを除けば、貴公の首が私の前に出される以外の選択はないのである」
この書簡に対して、二条里は読み終わるまで無言であったという。だが、これを読み終わった二条里は机に向って暫く物を書くと、それをグラファード配下の者に渡して告げた。
「グラファード氏には、文輪にとっての危急存亡の秋であるという事をよく説いていただきたい。内乱はこれ以上に無いほど無駄な出血となるのですから」
この二条里とグラファードの橋渡し役であったグラファード配下の男は、二条里の書簡を手に急いで戻った。だが、グラファードはその男から二条里の言葉を聞いて、読む事も無くその書簡を破り捨てた。
「あの輩が、未だ分からぬと言うのか。貴様に残された道は我が下に跪くか、骸を曝すかの二者択一でしかないと言う事に」
よもや、グラファードは現実を見る能力を失っていた。この頃から、グラファードの下から配下が消えてゆくようになる。その理由を『新史』ではグラファードが狂った為であるとしている。これは、確かに言える事かも知れない。
だが、これが反二条里派の立場から見ると、また別の側面が浮かび上がってくる。ここでは、いつものように『アンチ・二条里』から引用したい。
二条里の皇帝登位後、我等がグラファード側ではグラファードの皇帝登位を可決した。そして、それと同時に彼には二条里との徹底した対決が求められたのである。ここに至り、一部の気概の無い者達は皇帝乱立を恐れ、逃げ出すようになったのである。
だが、グラファードにとっても若干の不服があった。少なくとも、明らかに高飛車に振舞い、二条里を貶めるように定められている事には不満であった。つまり、彼にとっては、他の幕僚から束縛されるのが不快であったのである。それと同時に、彼は帝国に二人の皇帝を抱かせる事には終始反対でもあった。
実際には、グラファード自身が書き残していない為にどのような考えを彼が持っていたかを知る由はない。だが、この『アンチ・二条里』はこの側面を照らし出すのに大きく貢献したといえよう。いずれにせよ、この記述が正しいものとすれば、皇帝乱立にアレルギーがあったようである。既に内乱が始まっている以上は変わりないと思うのだが、当事者達はそれでは済まなかったようである。確かに、これを境に多くの皇帝が擁立されれば彼等の危険も増すというものではあったが。
話を戻すと、二条里の書簡を破り捨てたグラファードは、戦書を二条里に向けて送ったのである。それと同時に、決戦の場を記し、外にも宣伝する事で二条里が退く事の無いように仕向けたのである。これには、流石の二条里も混乱収拾という皇帝の役割を前に戦うしかなかったのである。時は三ヵ月後。モンゴル草原で激突する事となったのである。
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