第三章 十四代目二条里博貴の時代

(1)第二次文輪彼我戦争

  【二条里博貴】


 さて、本題に入る前に、ここで二条里博貴に関する歴史を紹介したい。既に述べている事も多々あるが、慣例に習って紹介したい。

 二条里博貴は一九八七年六月九日に日本の西にある長崎という県に生まれた。然し、この日に流星や天変地異などの現象が起きたという記述はなく、至極平凡な出生だったようである。兄弟は一人いたとされるが、政治とは別の道に進み、互いに依存する事が無かったので、全くと言って良いほどに知られていない。非凡ではあっても、大きな才能があったわけではなかったようである。また、結婚後に姓を変えたようで、二条里博貴とは、兄弟の縁でつながってはいても、それ以上の介入は無かったのである。故に、以後、多くの二条里という姓が出てくるが、その中には二条里の兄弟の子孫は含まれていない。

 この少年二条里が頭角を現すのは中学に入学してからであった。この頃に、皇帝組とされる山ノ井や水上、渡会らと知り合ったとされる。その中で、彼は政治と軍事とのバランスを学び、多くを吸収して群を抜く存在となった。

 そして、中学在学中に帝政樹立戦争に参加する事となる。因みに、辻杜帝は彼等の日本語の担当教師であったのだが、それ故に、二条里達は辻杜帝を先生と呼んでいる。そして、この『先生』は二条里の能力を早くも見透かしていたのである。

 二条里は創部当初から重要な役割を担い、初代執政官として日本占領では西北二軍の一翼を担ったのである。二条里の第一軍団といえば、文輪を学んだ者に知らぬ者は無しと言われるほどに有名であるが、それも、この時に結成された兵士達が中心であった。

 その後、三期連続で執政官を経験し、初代の独裁官をも経験した二条里は、二〇〇二年の夏に文輪要職を退陣する。未だ、彼等は中学生の少年であったのである。更なる勉強が必要であった。

 然し、安穏と過ごせる時間もそう多くは無かった。二十歳を過ぎる頃には、典帝から執政官就任の要請が来ていたのである。それに対して、二条里は否と答える。未だ、確かに国家の要職を務めるには早いとしたのである。その代わり、彼は内政官とその直属に当たる要職を歴任する。既に、マンデラ帝の時代に『護民官集団』を歴任していた二条里にとっては、二つ目の官職網羅であった。

 それから、トレラニア戦役で駆りだされるまでは『法務官集団』を歴任し、トレラニア戦役ではレデステアの下で会計監査官として着任している。しかも、その地位は単なる会計監査官ではなく、『お目付け役』に近いものであった。故に、作戦会議においては歯に衣着せぬ言葉を吐いた。彼自身も最高司令官として戦った為、黙ってはいられなかったようである。だが、レデステアはその作戦を採用する事は無かった。彼には、下位の官職に諫められるというのが癪に障ったようである。その為、十八年の中頃には、二条里を本国に戻している。

 然し、レデステアが思うように戦績を上げられず、敗北を繰り返すようになると、好帝も黙ってはいなかった。十八年の末、急遽執政官選挙を行い、二条里には無断で立候補届出名簿に彼の名前を載せたのである。この好帝の大胆な行動に、二条里は反対せず、従順として受け入れた。そして、立候補すれば、彼は圧倒的多数で当選するのであった。四度目の執政官に、彼は三十一歳の若さで就任したのである。

 就任後直、二条里はレデステアと交代した。事実上の更迭である。それでも、この人物が賢明であったのは、不満を漏らさずに二条里へと指揮権を移譲した事であった。決して、恥じる気持ちが無かったのではない。この時期の彼の手紙には、悔しさが書き連ねてある。然し、それと同時に多くの人の賛同を得た以上は、それに従うと決断したのである。これ以降、彼は親二条里派の一人として知られる事となり、第二次文輪彼我戦争においては二条里側で、兵站補給の重責を任せられる事となる。このレデステアの決断に対し、二条里も大きな信頼を置いたという事の現われであった。

 二条里が就任してからのトレラニア戦役が如何に迅速に終結したかは、既に述べた通りである。この功績に対し、好帝は凱旋式を行なっては如何かと二条里に打診している。然し、二条里はこれを断った。その代わり、彼はアフリカ大陸に街道を敷設した。これは後に、アフリカの幹線道路となり、第三次文輪彼我戦争では、この道路を巡っての激戦が繰り広げられることとなる。

 それからまた、官職の制覇を再開した二条里は、次に常任委員会の各委員会を歴任する。常任委員長にはならなかったものの、副常任委員長にまでは上り詰めたようである。然し、三院会戦の時には完全中立を表明し、その間に起きる事必定の他国からの干渉をよく防いだとされる。特に、ギジガナアニーニアにおいては、暴動寸前にまでなったデモを政治的な交渉で鎮圧し、内政でも政治的な空白を作らなかったとされる。その為、二条里は執政協議会からは代理執政官職を贈られ、オーガスタ帝からは代理皇帝権を贈られる事となる。そして、オーガスタの粛清に苛まれる事も無く、比較的平穏に第二次ギジガナアニーニア戦役を迎えるのである。

 だが、この平穏を破壊したのは敵国ではなく、フランシス帝であった。これが二条里元執政官暗殺未遂事件である。この時は難を逃れた二条里は、然し、政治から離れる必要性を感じる。その為、軍団兵として文輪軍に入隊し、ここで軍部の官職をも網羅するのであった。それと共に、赴任先もアフリカから欧州、豪州、中東と進み、終には北米に辿り着いたのであった。

 その間に、二条里は鈴村帝とどこかで接触したとされる。鈴村帝時代初期の巡察行の途中ではなかったかと思われるが、確かに会見したと二条里自身も述べているのである。同時に、彼女が戦死した場合には、帝国を支えてくれるように依頼されたのであった。

 そして、その鈴村帝は戦死した。それと共に、彼には鈴村帝との誓いが残っていたのである。






  【太平洋海戦】


 二月七日、二条里帝率いる五個軍団は芝波率いる海上艦隊と遭遇した。これが、第二次文輪彼我戦争の緒戦となる、太平洋海戦の始まりであった。

 文輪の内乱である彼我戦争において、海戦によって始まるというのは非常に稀な例である。当然、小競り合い程度のものならば起きる事もあるが、文輪軍の主力は陸軍である。故に、互いに示し合わせて会戦に打って出るというのが定石であった。別段、陸上戦力が不足していたわけでも、場所が無かったわけでもなかった。ただ単に、双方にとって海戦に出るより他に方策が無かったのである。

 先ず、芝波率いるグラファード軍であるが、彼らには二条里帝の軍団兵が恐ろしかったのである。特に、二条里帝自身が率いた第一次文輪彼我戦争では、一個軍団で三十個軍団を退けるという芸当を成し遂げている。また、二条里帝は陸上で負けた事が三度しかなかったのである。然し、その強力な二条里帝の軍団も、海上になれば艦隊戦に頼らざるを得なくなる。そうすれば、物量でも、海戦の経験でも豊富なグラファード軍の方が圧倒的に有利であると思われた。第一、二条里帝は未だ、海戦を戦った事が無かった。

 一方、二条里帝側にとっては、可能な限りの最短距離で日本に辿り着きたいという思惑があった。欧州では、クラッタニア軍が居座っており、その他の国々においても不穏な動きがあった。それ故、内乱を早々に収拾してクラッタニア軍を駆逐したかったのである。また、迂回をしようにも、クラッタニア軍に不意を衝かれる可能性があった。

 この両軍の思惑の結果が、太平洋での海戦であった。然し、その結果ならば一方的なものに終るのであった。

 その日、二条里軍を発見した芝波は、それを包み込む為か、左右に艦隊を分けて航行した。前述したが、グラファード軍の方が圧倒的に物量は豊富であったのである。それと同時に、戦艦による砲撃と航空機による爆撃が開始され、周囲の海域には数多の水柱が上がった。その様子は、『新史』の中では以下のように述べられている。

「芝波による二条里帝へ攻撃は、一瞬にして敵艦隊の姿を覆い隠した。二条里帝側には逃げる素振りも殆どない。それを見た芝波は、急いで電報を送り、二条里帝の撃破を報告した。彼女は、二条里帝の急ごしらえの艦隊がこの状況では生還出来るわけもないと考えていたのである」

 然し、この芝波の行動はあまりにも軽率すぎた。そして、それを示すかのように、二条里帝は先頭の旗艦の前方に立っていた。魔法による防壁を築いていたのである。当然、芝波の中には魔法という事も計算に入れていたものと思われる。だが、二条里級の魔法使いの事に関してまでは計算していなかったようである。通常ならば、自分の身を守るので精一杯であり、艦隊全体を覆うような防壁を作り上げるとは、常軌を逸していたのである。それでも、二条里帝は世界屈指の魔法使いである。この程度ならば難なく出来たようである。そして、爆撃さえ効かなければ、後は二条里帝の優勢となる。これで、海戦の行方は決まった。

 芝波は、味方の戦艦が次々と沈められていくのを見るしかなかった。訓練された二条里の軍は、二月の海をも泳ぎ、敵艦に対して攻撃したのである。また、航空機に対しては、二条里帝の魔法と矢によって攻撃し、操縦士は宙に舞って逃げるより他になかったのである。その敗残兵は、二条里帝の率いる救護艦隊によって救出された。

 この日の戦闘によって戦死したのは、芝波側の二千だけであった。但し、その意味ならば非常に大きかった。グラファード側は多くの主力艦隊を失い、同時に、太平洋における制海権をも失ってしまったのである。

 だが、この程度で全てが終るはずが無かった。未だ、グラファード側には七十五個軍団もの大兵力があったのである。因みに、この戦いにおける捕虜を、二条里帝は全員、上陸後に無条件で釈放している。その為、戦力的な増加は殆ど無く、五個軍団による進軍を続けたのである。故に、この第二次文輪彼我戦争の行方が日本における決戦によって決まるであろう事は、誰の目にも明らかであった。そして、誰もが予想したとおり、決戦の第二幕は日本において行われる事となる。






  【鹿児島上陸作戦】


 しかし、予想外の敗戦によってグラファード軍は大きな衝撃を受けていた。当然、二条里帝は待つはずもなく、日本に向けて進軍を続けている。上陸して会戦となれば、そう簡単に勝利を収める事は不可能であるという事は誰の目にも明らかであった。

 この中で、グラファードはファデナの派遣を決定した。その役割は、三十個軍団を以って、二条里帝の上陸を最大限に妨害するというものであった。その間に、グラファードは十個軍団を編成し、訓練する事となった。因みに、この三十個軍団のうち、文輪の精鋭とも言える機動兵は七個軍団であり、この戦いに力を注いでいたというのは明確な事であった。

 三月三日、九州の南端にある鹿児島という地に二条里は上陸した。しかし、これを迎えたのは、陣営地の建造も完了し、迎え撃つ準備は万端の三十個軍団であった。これに対し、二条里は上陸地点を変える事もせずに、攻撃を開始している。

 だが、この攻撃は途中で中止される事となる。相手が全く挑発に乗らず、攻撃が意味を成さなかったからである。その為、流石の二条里も陣営地を築いての長期戦に入る他に無かったのである。

 それでも、それにも待ったが掛かる。陣営地の建設の最中に、ファデナは小隊で以って、襲撃したのである。二条里帝もこの事は十分に予測し、ある程度の対策は講じていたのである。しかし、ファデナは自分の兵を二条里帝の軍団の射程範囲に入れる事はせず、遠くから投げ槍によって妨害する事に専念したのである。物資は豊富にあった。そして、槍による死者は出なかったものの、陣営地に突き刺さる事によって、陣営地は荒らされたのであった。その為、二条里軍は十分な睡眠を摂る事が出来なかったのである。

 ファデナの戦略は二条里軍の消耗待ち、であった。これが意外な効能を生む。二週間を過ぎた頃から、二条里軍が疲弊の色を隠せなくなっていたのである。執拗なファデナの攻撃は、二条里軍から睡眠の為の場所さえも奪っていたのである。その中で、二条里の軍団兵は僅かな場所を交代で寝ていたのだが、それにも限界があった。

 この状態は二条里にとっては予想外であった。彼も幾多もの戦いを潜り抜けてきていたが、このような事は初めてであったのである。それでも、二条里帝は決してその明朗で快活な気性を失う事はなかった。そして、これが二条里軍の唯一の支えであった。

 だが、気持ちだけでは戦に勝つ事は出来ない。二条里もそれは分かっていた。この頃には、グラファードが精鋭の訓練を抜かりなく行なっているという情報が二条里軍にも齎されている。

 そこで、三月二十日、二条里帝は第一軍団の第一大隊だけに、集中的に睡眠を摂らせた。そして、その間に残りの半分を陣営地に残して、それ以外の全兵力を以って襲い掛かってきたファデナ軍を急襲し、敵陣にまで攻め上った。当然、その攻撃も途中で止まらざるを得ない。しかし、少なくともその間だけは、陣営地が襲われる事はない。その間に、二条里軍の残り半分は荒らされた土地を整えて、各々が眠りに就けるような場所を作り、休息を摂ったのである。

 その日の夜、二条里は軍を四つに分けた。第一隊は、休息させていた第一軍団第一大隊。第二隊は、昼間に敵陣を攻めた軍隊。第三隊は、昼間に陣営地の守りに就いていた内の半分。第四隊は、残りの兵で編成された。

 夜半、四つに分けられた二条里軍の内、第一隊と第二隊だけが静かに陣営地を後にした。その間、第四隊は休息を摂る。そして、海に着くや、第二隊を軍艦に乗せて出航させた。それから、二条里自体は第一隊を率いて静かに海へと入り、適当な上陸地点を探した。

 第一隊と二条里帝は静かに上陸した。観音崎と呼ばれる地域であったとされる。その後、この一隊は最強行軍で北上し、ファデナの陣営地の後ろへと回りこんだ。それと殆ど時を同じくして、原油基地に上陸した第二隊と、それを防ぐ為に派遣されたファデナ軍の本隊が激突したのである。それが、開戦の合図となった。

 司令官のいないファデナ軍に対して、二条里帝の率いる千二百は優位に戦いを進めた。とはいえ、敵は未だ二十個軍団もいたのである。故に、勝敗を決したのは二条里軍の第三隊、第四隊の突撃が開始されてからであった。

 既に、後方から襲われていたファデナ軍の陣営地は、挟み撃ちにされて完全に混乱した。それまでは、圧倒的に優位であった三十個軍団も、その意味を無くした。次々と二条里軍に捕らえられ、三時間にも及ぶ戦いの末、ファデナ軍の陣営地は制圧された。

 その頃、二条里軍急襲の知らせを聞いたファデナは、軍を二分してやっとの事で駆けつけた。しかし、このファデナ軍の三個軍団は、二条里軍の三方包囲によって全軍が捕虜となった。

 この日の戦いによって捕えられたのは十万二千。死者は、二条里軍が五百七十二、ファデナ軍は三千七百であった。そして、ファデナもここで捕虜となった。

 ファデナ軍を撃破した二条里軍は、しかし、それ以降の進軍を敢えて急がず、二条里帝はそこで一週間の休息を許した。負傷者が多かったのもその理由であるが、それ以上に、睡眠不足が二条里軍全体に広がっていたのである。それに加え、周辺地域の制圧には時間をかけた。九州は二条里帝の基盤である。その統治を誤れば、自己瓦解の可能性もあった。また、敵地に攻め入るには、十分な準備が必要であったのである。

 この間に、二条里帝は捕えた敵の全軍を解放した。しかし、今度はいつものようにその場での釈放ではなく、本州にまで護送してから釈放したのである。つまり、九州からグラファードの勢力を少しずつ駆逐していたのである。

 そして、四月三日、二条里軍は長崎に入城した。文輪発祥の地である。それと同時に、二条里帝の古い仲間が多く集う場所でもあった。実際、この地に於いて辻杜初代皇帝と謁見し、水上等を自軍に引き込んだのである。この長崎に、グラファードは一兵も守備隊を置いていない。強いて言えば、北方防衛の旧来の守備隊だけがいくらか残っていたものの、彼らは皆、二条里帝の指揮下に入る事を選んだ。これを、二条里自身もよく分かっていた。その為、二条里は長崎への入城には軍隊を従えず、単騎で行なったのである。

 だが、これに対してグラファード軍は、本州で迎え撃つ準備を進めるだけで、この西の果てには、全くの関心を寄せなかったのである。実利から行けば、全く意味の無い場所であった。

 しかし、この長崎には実利以上に、大きな利益があったのである。それを実利と共に、簡単に列記する。


・二条里帝の地盤である点。

・文輪発祥の地であり、多くの発足当時の功労者やその子孫がいる点。

・ユーラシア大陸へと通じる一部の制海権を握った点。

・文輪を再興するのだという事を兵士達に示し、その士気を上げ、外に向ってアッピールする点。

・最悪の場合には、最後の砦として、安心して籠城できる点。


 単身で長崎入りを果たした二条里は、多くの人々からの歓迎を得、それを確認してから兵士達を長崎に入れた。それも、ミリタリーを全面に押し出した行進ではなく、武装を解き、楽隊に変身してからの行進であった。その彼等が、最初に二条里帝によって連れて行かれたのは、各地に残る原爆に関する史跡や第二次世界大戦における被害の状況を示す史跡の数々であった。その中でも特に、二条里は長崎市にある平和公園で演説を行なった。通行の邪魔になるなどの理由から短く切り上げたものであるが、紹介したい。

「諸君、これが今から九十六年前に原爆が投下された地である。現在は、このように爪痕も少なくはなっているが、ここでおきた事は戦争や核と言う物に対する問題提起でもある。現在、世界には核兵器と呼ばれた物は存在しない。しかし、未だに戦争という物は確かに残っている。諸君も、私も、その渦中にあるのだ。故に、ともすれば忘れてしまいがちであるが、戦争というものは多くの人々の命を奪い、多くの人々に悲しみと苦しみとを与えるものである。諸君も、多くの戦いを私と共に歩んでゆくであろうが、この事を忘れないでもらいたい。諸君が行なっている事は、大きな責任を負うと同時に、比類なき悲しみを与えるものであるという事を」

 この演説の後、二条里帝は長崎を後にした。そして、十分な休息を与え、エネルギーを得てから、本州に向けて軍を発するのであった。






  【関門海峡攻防戦】


 二条里帝は長崎を出発してから、その軍を三つに分けた。一隊は、二条里帝に降伏した後、参戦を希望した者で編成された三個軍団であった。この三個軍団を率いるのは、プロコンスルの内田水無香であった。内田前執政官と言えば、文輪二代目執政官として、二条里と共にアメリカを転戦し、欧州戦線ではベルギーやアイルランドを攻め落とした事で有名である。その後、彼女は大学を卒業してから軍団兵として各地を転々とし、第二次ギジガナアニーニア戦役では、サルスへの道を開いた人物でもあった。この隊に与えられたのは、九州に残るグラファード勢の一掃であった。

 また、別の一隊は、二条里の率いていた中の二個軍団であり、指揮官は霧峯瑞希であった。最初に彼女が登場したのは、北米戦線の最中であり、二条里独裁官の下で、騎兵団長として活躍した。特に、彼女の率いる北軍は歴代文輪軍団兵の中でも五本の指に入る強さとされ、第十七軍団は二条里の第一軍団や第四軍団と共に伝説の軍とされる。実際、第一次文輪彼我戦争においては、二条里が率いた軍団が三個であったのに対して、霧峯はこの第十七軍団だけであった。更に、トレラニア戦役や第二次クラッタニア戦役においては、二条里と共に同僚執政官として参戦している。また、後の話にはなるが、三次にも及ぶクロイス戦役においては、守備軍の最高司令官として、レットの奇襲を防ぎ、『国家の母』の称号を初めて与えられる事となる。この隊には四国の占領という、戦略的にはまた大きな意味を持つ任務が与えられたのであった。

 そして、二条里自身は第一、第二、第五軍団を率いて本州へと上陸する事となる。しかし、ここで待ったが掛かる。代理執政官となったパーシーが九個軍団で以って、関門海峡を守っていたのである。それも、トンネルと橋に兵力を集中させ、陣営地は背後からの攻撃にも耐えられるよう、十分に堅固なものとなっていた。その上、水上には幾重かの罠が仕掛けられ、同時に船を非周期的に航行させて海上を渡る事が出来ないようにしていたのである。即ち、本州へと行くには、橋かトンネルを越えるより他になかったのである。

 しかし、そこにも妨害が入る。鹿児島において敗北したファデナが、軍団を再編成して十個軍団で以って、二条里帝を包囲にかかった。これに対し、二条里帝は軍を二分した。第一、第二軍団を勅使川原に与え、後方に控える十二個軍団を攻撃させた。その間に、二条里は第五軍団だけを引き連れて、関門橋に突撃した。

 二条里は、常に攻撃が困難な相手と対する軍を率いる。この時もそうであった。二条里の率いる軍は基本的に会戦向きであり、橋の上での戦闘には慣れていなかったのである。

 しかし、二条里にはもう一つの習慣があった。それは、必ず精鋭中の精鋭を編成し、それを中心に戦いを進める事であった。故に、二条里は圧倒的に少ない兵力でも戦いを進める事が出来た。帝政樹立戦争では、第一、第四、第七軍団。トレラニア戦役では、第八軍団。第二次ギジガナアニーニア戦役では、第十軍団であった。因みに、更に昔の紀元前一世紀頃に活躍したユリウス=カエサルが率いる軍団の中で、最も信頼を置かれたのが第十軍団であった為、この軍団はカエサル軍団と綽名された。そして、この時には、第五軍団がそれに当たった。故に、二条里は多少の不利があろうとも、十分に戦う事が出来ると確信していたのである。

 文輪軍団兵の通常の布陣は三列横隊である。しかし、この時の二条里は縦長の長方形の陣形を用いている。だが、陣形の別はあっても、二条里の軍団兵の強さは格別であった。橋の出口で包囲されながらも、三方それぞれに対応し、敵の前進を阻んだのである。

 その間に、勅使川原は後方に控える十個軍団に襲い掛かった。当然、勅使川原の率いる軍団数の方が断然少ない。だが、勅使川原は子供を相手にするかのようにしてファデナを包囲し、間も無く四散させた。二条里軍は会戦には強いのである。

 四月二十五日に行なわれたこの日の会戦で、二条里側は二十三名の死者を出し、グラファード側は二千七百の犠牲者を出した。また、七個軍団に当たる四万三千が捕虜となった。とはいえ、これで全ての戦闘が終了したわけではなく、挟撃されるのを防いだだけであった。故に、完勝ではない。それでも、ひとまずは安全な状況となったのである。

 そこで、二条里はその日の晩のうちに次の行動に移った。先ず、勅使川原に第一軍団を率いさせ、それを以って海峡の先に布陣する残党を攻撃させた。当然、パーシーはこれを迎撃する。だが、その裏側では二条里帝が着々と海峡を越えていた。当然、堂々と越えたわけでも、空から越えたわけでもなかった。本当に、関門大橋の裏側を越えていたのである。この時、二条里は五個軍団の中から、最も信頼の置ける第一大隊のみを率いていた。戦力は千二百を切る。だが、二条里にはそれで十分であった。

 午前零時、海峡を越えた二条里軍はそのまま、パーシー軍に襲い掛かった。前方で勅使川原の率いる軍団を防いでいた彼等は、後方から鬼気迫る勢いで攻めてくる二条里軍に、最早逃げる以外には無かった。

 この戦いによる二条里軍の死者は僅か七名。一方、パーシー軍は千五百の死者を出し、パーシーを筆頭に残りほぼ全ての軍団兵が捕虜となった。

 しかし、この戦いにおいても、二条里は全ての捕虜から司令官に至るまでを解放した。当然、パーシーはグラファードの下に戻る。だが、この時は軍団兵の多くもグラファードの下に戻ったのである。故に、通例ならば多くの軍団兵が二条里帝下に入るが、この日は二十三名がその指揮下に入っただけであったのである。

 この原因は幾つかあったようである。その中で、最も大きなものとされるのは、グラファードの宣伝であった。

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