第二章 十三代目鈴村満里の時代

(1)激震

  【パリ事件】


 紀元後二〇四〇年十一月初め、鈴村帝は七個軍団を率いてパリへと帰還した。彼女は未だ三十八。体力ならば残っていた。とはいえ、二度続けての敗戦は彼女の軍に暗い影を落としており、休憩が必要であったのである。その為、彼女はこの地で冬営をするつもりであった。『クラッタニア戦役』にも、『鈴村帝の軍団はその顔に暗い影を落としていたが、休息が出来るという安堵感はその重みを少しだけ晴らしていた』と、ある。

 既に、開戦から三年が過ぎていた。それ以来、彼等は休む事無く戦い続け、その体力も精神力も限界に来ていたのである。とはいえ、批判をする事も無く追従していた。

 二〇四〇年十一月十二日朝、鈴村帝とその軍団はパリへと入り、そこで全軍に休息を命じた。そして、その夜に全ては起きたのである。

 全軍が眠りに就いた十二時半、突如としてパリの周囲が喊声に包まれた。そして、瞬く間にパリの市街は火に包まれ、その各方位から大量のクラッタニア軍が攻め込んできたのである。

 混乱は先ず、北部守備隊の方から生じた。休息中であっても、文輪ではきちんとした制度が整っており、夜警は六度に分けられていた。だが、市街にも紛れ込ませてあったクラッタニア軍に対して、完全に油断していた為、迅速な対応を取る事が出来なかった。やがて、クラッタニア軍は全市に広がってゆき、中心部へとその勢いは広がっていった。

 ここで、報告を受けた鈴村帝は近衛兵の一個軍団を率いて前線へと赴いた。そして、その途中にあった敵の一隊と刃を交えた。その最中、一本の矢が鈴村帝を捕らえた。

 その傷は明らかに致命傷であった。だが、鈴村帝は全身から血を流しつつ奮闘した。胸を貫かれた若き皇帝は、その後の戦いで二百もの敵を切り殺した。それでも、次第に動きが緩慢になり、全身に矢を浴び、終には首を斬られて絶命した。この鈴村帝が外敵との戦争の前線で戦死した初めての皇帝となる。

 その後、鈴村帝の死が全軍に知れ渡り、戦意は完全に消失した。それでも、クラッタニア軍は徹底的に殺戮を行い、僅か十七名がその包囲網を脱しただけでその他は戦死し、七個軍団が一夜にして全滅した。また、市街に住む市民達も殺戮に巻き込まれ、その七万が一夜にして殺された。

 とはいえ、このまま文輪の全軍が壊乱する事だけは避けられた。同盟軍のEUFP軍最高司令官、ジュリアヌスが司令官無き文輪三個軍団と同盟国軍を収め、非常線を引いた為であった。『ジュリアヌスの手記』の中にもある。


 十三日の朝、突如としてパリ陥落の報が届いた。その後、七個軍団が全滅し、鈴村皇帝の壮絶な戦死とが伝えられると、私は三個アルファ編成隊(四万二千)を率いてパリへと急いだ。すると、その途上で路頭に迷った三個軍団と会い、そこでその一万八千を収め、更に、同盟国軍が孤立するのを防ぎ、防戦に努めた。そして、フランス国境を前にしてクラッタニア軍を追い返し、これ以上の進軍は防いだ。とはいえ、このあまりにも大きな犠牲は、第二次クラッタニア戦役の行方を決めかねないものであった。


 ここに至って、流石の文輪も動揺した。三十八年振りの両院協議会が開かれ、そこで対応策が話し合われたが、良策は挙げられなかった。そうこうしている内に、パリ東部がクラッタニア軍によって制圧されたとの報も届く。これにより、両院は完全に混乱し、最早、如何する事も出来ず、このまま、滅亡するかに思われた。






  【遺言状】


 その時、両院に一人の男性が訪れた。その男は、前代の文輪常任委員長であり、鈴村帝によって北米防衛を任されていた山ノ井幸一であった。

 彼は入るなり、真っ直ぐに壇上へと向うと、その場で鈴村帝の遺言状を披露した。それを要約すると、以下のようになる。


1 .各地の防衛軍の司令官は残留するものとし、混乱の生じる事が無いようにする事。

2 .この遺言状が開封された時も尚、戦争の最中である場合、選挙を行ってはならない。

3 .第十四代皇帝に二条里博貴を指名する。

4 .私の全ての資産について、居住区と最小限の生活費は家族に分配するとし、その他は全てを国庫に収めるものとする。


 以上の遺言状が読み上げられた後、場内は安堵に包まれた。しかし、この中にはこの状況を苦々しく思う者もいたのである。そして、その不満分子が集うのに時間は掛からなかった。彼等は混乱の静まった両院に対して代理執政官の選出を求めた。口上は『次代皇帝就任までの政治的空白を避ける為』というものであったらしい。圧倒的多数で代理執政官の就任を認め、同時に提出された、代理執政官の軍団保有を可能にする法案も可決されたのである。

 この時の不平分子についてであるが、その中心は共和政派の人々であった。特に、副常任委員長であったファデナとジェームズ・キュロスは共和政の復活を切望していたのである。それ以外にも、百二十人程度の共和政派が両院の中にいたそうである。

 その上、不平分子はこれだけではなかった。先ず、中国最高司令官であった黎陵は日本の建国した、しかし、人民達が歓喜している帝国に抵抗があった。また、東欧最高司令官のフェラードは、黄色人種による帝国支配を許せなかった。そして、ズサ戦役や二度のホートロー戦役の最高司令官であり、凱旋将軍であったグラファードは、人類以外の政治への参加が許せなかった。と、ある。

 しかし、この例外に当たる人々は、表面上はこのような大義名分を持っていたが、実際には、二条里に個人的な恨みを抱いていたのである。それも、個人的な書簡の上では明確に表れている。特に、グラファードはその怨みも激しいものであった。

「あの二条里という男は、何かにつけて癪に触る。多くの皇帝達からの信頼を浴び、多くの人民からの信頼と羨望を浴び、有り余る程の財産に身を浴している。然し、彼は一体、何をしたと言うのだ。ただ、小僧のくせに帝政樹立戦争に参加し、二度外敵の侵攻を防いだだけではないか。それに比べて、私は五度も外敵の侵攻を防ぎ、三度も凱旋式を挙行したのだ。にも拘らず、帝国の第一人者は未だにあの男の下だ。全く、帝国人民は何をしているというのだ。憎い。あの男が憎い。いつの日か、あの諸悪の権化を打ち滅ぼしてくれる」

 これは、彼の書簡の一部であるが、第二次ギジガナアニーニア戦役の後に書かれたものとされている。明らかに、口調は傲慢であるが、これを紹介した『新史』には、作者の批評が挟まれている。

「グラファードは、当時の帝国においては名のある指揮官ではあったものの、政治家としては三流以下であった。彼は三度の凱旋式を自らの功績としているが、二条里は挙行の許可を与えられても拒否し、その分の労力と費用とを帝国の教育水準向上や生活水準の向上に当てたのである。また、グラファードの戦った敵よりも、二条里が対峙した敵の方が、圧倒的に強力であり、強大であった。その差は、鼠の群れを襲うのと獅子や虎の群れを襲うのとに類似している。それでも、二条里は決して誇示する事無く、グラファードに対しては礼を尽くし、尊敬すべき軍人であると述べているのである。既にこの時点で、彼は二条里に負けていたのである」

 酷評で有名な『新史』であるが、それでも、これ程に厳しく書き立てている文章は少ない。推測するに、彼もグラファードの『尊大なる』態度に怒りを覚えたのではないかと思われる。故に、厳しく言わずにはいられなかった。それに加え、彼の現実を見る能力は、グラファードと二条里の力量の差を的確に掴んでいたのであろう。この途中に、戦った敵の差を述べた箇所があるが、非常に的確であったとは、古今の史家と軍事関係者とが共に意見を統一させるである。

 それでも、この時の反二条里派で彼に対抗し得る人物はこのグラファードのみと目されていたのである。そして、この反二条里は一致団結しての皇帝就任阻止を目論んだのであった。即ち、代理執政官の持つ非常任免権を行使しての親二条里派一掃を行なったのである。当然、執政官や常任委員長が帰国し、この権利を剥奪すれば失敗に終る。然し、その両方ともが欧州戦線に集中し、この平定に全力を注がざるを得なかったのである。

 十一月の半ばには二条里皇帝の擁立で固まっていた両院が、末には、それが完全に反対へと変化していたのである。この間に更迭された議員は三百人近くにも及ぶ。そして、圧倒的な賛成多数でグラファードの独裁官就任が可決されたのである。同時に、二条里に対しては、最終事態宣言が発せられ、皇帝就任など不可能に近い状態となったのである。その間にも、クラッタニア軍はドイツへの侵攻を開始する。

 このようにして成立した所謂、『グラファード体制』は、しかし、並みの人達では対抗のしようがなかった。既に、首都日本には三軍である九十個軍団が各属州から集結し、二条里の侵攻に対応していたのである。

 この状況に対抗できる人物群は、最早、反対派の議員の中にはいなかった。そして、権力を手にしたグラファードらによって、共和政宣言が発せられるのである。然し、そのようなものがクラッタニア戦役を好転させるわけもなく、十二月末には、西欧諸国及びペルシア湾岸がほぼクラッタニア軍に制圧されるのであった。






  【『皇帝』二条里】


 この動きに対し、二条里は完全に静観を保っていた。フランシス帝による暗殺未遂事件以来、彼は軍団兵として各地を転々としていた。然し、第二次クラッタニア戦役が始まり、鈴村が帝位に就くと、彼は北米属州へと赴任している。その間に、彼は軍団兵から徐々に昇進し、軍団内の役職を総覧したのである。そして、山ノ井の下で軍団長となった二条里に、三度目の両院最終事態宣言が下されたのである。

 しかし、今度は今までとは異なり、次期皇帝として帝国を守るという責任をより強く感じていた。事実、彼はジュリアヌスに向けて手紙を送っている。

「今回ほど、帝国に対して強く責任感を抱いた事はない。戦死した先帝の為にも、私はこの帝国を担いたいと思う。未だ、戦機が訪れていない故に内乱を起こす事は不可能であるが、早々に混乱を収拾し、クラッタニアとの戦いに終止符を打つつもりである」

 この手紙が送られたのは十一月の中旬であり、この頃には、既に両院の動きを察知していたようである。彼の下には多くの情報網と間者がいた事は有名であるが、この時もそれが効力を発揮したようである。こうなると、動けなかったというよりも、動かなかったとする方が適切であったように思われる。これ以外にも、各地の軍に対して友好的中立を保つように要請したからである。

 このような中で年が暮れ、二条里に対する軍隊が発動された。未だ、季節が冬であった為、クラッタニア軍は冬営中であったのである。この間に、グラファードは十五個海上艦隊と共に芝波諒子を派遣した。芝波は反二条里派の一人であり、将軍として海上艦隊指揮官の主要な一人として活躍していた。但し、その戦績も内乱の一部であった。

 ここに至って、二条里は終に軍隊を発動した。こちらは、合計して五個軍団であった。然し、この軍団兵の中には、第二次ギジガナアニーニア戦役で彼に従っていた兵士達があり、そうでなくとも、二条里自身が軍団兵としての生活を営んでゆく中で従えるようになっていた新たな軍団であった。その訓練は帝政樹立戦争期の彼の旧軍団兵が行なったとされている。即ち、文輪では伝説とされた第一・第四・第七軍団の兵士達の胸を借りて育った精鋭達だったのである。そして、二条里は彼等に第一から第五までの軍団名を付けた。それは、それ自体が二条里の軍団兵、二条里の精鋭となった事を意味していたのである。故に、彼等は意気揚々と海に漕ぎ出したのである。

 さらに、二条里は行軍の最中に皇帝への登位を宣言したのである。これに対して、本来の常任委員長及び執政官は承諾を下し、二条里は第十四代の皇帝に就任したのであった。

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