第三巻「再興へ向けて」

第一章 第一次クラッタニア戦役

(1)フランシス弾劾戦役

  【終焉】


 なぜこのタイミングで、と思われる方も多いであろうが、クラッタニア側からすれば完全に予定の範囲内であった。元々、クラッタニア側の作戦では適度に叩いて退くつもりであった。五分五分の戦いをしながら戦機を探し、決定的な勝利を一度収めることで有利な条件で条約を結ぶことを目的としていた。そのため、レデトールの征服自体は企図しておらず、補給が切れたために一時の撤退を行なったのである。

 また、予想外の大勝はクラッタニア側に企図を変えさせることとなる。このまま地球を制圧する事で、文輪帝国を併呑するべきという形へ。そうなれば、レデトールの早急な制圧よりも地球制圧に向けた軍の再編制を行うべきである、と国王をはじめとする首脳部が決断するのは当然の成り行きであった。

 クラッタニア側の余裕の撤退にあたり、文輪とクラッタニアは休戦協定を結ぶ事となる。これに常任委員長である山ノ井は猛烈に反対したが、フランシス帝の勅命により、亀委仮が全権委任の下で会談に臨んだ。そして、二月七日に結ばれたバルッサの協定は以下の内容となった。


1、 クラッタニア王国および文輪帝国の両国は互いにレデトールから撤退し、その軍を駐屯させてはならない。

2、 文輪帝国は両軍撤退の費用を負担しなければならない。

3、 文輪帝国は五年以内に和約金として百兆デーラをクラッタニア王国に贈る。

4、 文輪帝国はこの協定の締結と同時に捕虜を釈放し、クラッタニア王国側は全ての釈放を確認したうえで釈放する。

5、 捕虜の釈放に際し、文輪帝国は捕虜一人あたり二百万デーラをクラッタニア王国側に支払う。

6、 文輪帝国はクラッタニア軍側の戦死者一人につき二百万デーラを見舞金として支払う。

7、 以後、文輪帝国はクラッタニア王国の許可なしに対外戦争を行ってはならない。


 この条件での協定締結に、亀委仮は相当な難色を示した。それでも、フランシス帝の勅命は厳しく発せられ続け、クラッタニア王国側の要求をほとんど呑む形で締結することとなった。

 捕虜の釈放の終わった十八日、クラッタニア軍はレデトールからの撤退を完了させる。それを見届けた上で、文輪帝国はレデトールより帰還した。






  【敗北の凱旋式】


 三月七日、地球へと帰還した文輪軍は首都において市民からの温かな拍手で迎えられた。特に、戦死したガヴィデ独裁官の亡骸の周りには多くの市民が集まり、その人だかりによって隊列は一時間の待機を余儀なくされたほどであった。また、重傷を負いながらも謁見の隊列に参加した亀仮名副常任委員長に対する歓声も大きなものであった。

 このような中で帰還した軍団兵に、フランシス帝は謁見を許さなかった。敵地より帰還した軍団兵との謁見を拒否する事は極めて異例であったが、軍団兵もその時は反発することなくそのまま宿営地へと戻った。

 しかし、三月八日にフランシス帝の発した勅令には、さすがの軍団兵の間にも動揺が広がった。本戦役で唯一の勝利を収めたフォーレン河畔の会戦に対して凱旋式を行うと宣言したのである。それも、フランシス帝の名の下に、である。

 この決定に即日、二条里護民官は敢然と反対に回った。それに合わせる形で、さらに複数の両院議員がこの決定に反対した。それでも、フランシス帝はこれを黙殺すると、十日に凱旋式を強行した。四頭の白馬が率いる馬車に乗るのは、フランシス帝。重傷を負っていた亀仮名以外の上級指揮官はこの後に従うだけであった。そして、市民の集う前で、フランシス帝は高らかに演説した。

「我々はまだ本国を蹂躙されたわけではなく、屈強な軍団兵と優秀な指揮官が数多くある。市民たちよ、まだクラッタニアとの戦争は始まったばかりである。この戦勝よりも遥かに大きな勝利を掴もう。そして今日は我々の戦勝を祝い、ひと時の喜びを祝おうではないか」

 この帝の演説に対して向けられたのは市民たちの冷ややかな視線だけであった。それでも、帝はこの凱旋式に満足した様子であったという。だが、帝国の安寧はこの一瞬だけであった。

 翌朝、芦名和子税務官が惨殺されているのを発見される。さらに、同正午にはメルケン常任委員が東京の路地裏で暗殺された。その後、十三日までに両院合わせて三十七名が暗殺され、十四日の昼にフランシス帝は不敬罪によってこれらの議員を『処刑』したことを発表した。これらの議員全員に共通していたことは、この凱旋式を欠席していた事であり、その数は欠席した議員の半数にも及んだ。この第二次フランシスの粛清は一瞬にして帝国中を震撼させることとなる。

 一方、フランシス帝は帝国内のインフラ整備に要する予算を勅令により倍増させる。この案に、再び二条里護民官は反対を表明し、終に、拒否権を発動する。二条里護民官が拒否権を発動するのは独裁官および護民官時代を通して初めてのことであり、この一事だけで再び帝国中に震撼が走った。これに対して、帝は二条里を護民官から罷免しようとする。とはいえ、こればかりは両院の反対により実現しなかった。しかし、帝はここでは諦めなかった。






  【二条里元執政官暗殺未遂事件】


 狂ったか、と思われるかもしれない。事実、事件が公表された当時でさえ、狂気の沙汰として多くの人々に受け止められたほどである。しかし、フランシス帝からすれば、現実的な決断であった。登位の当初からフランシス帝は自身の立場を固める事に専念し、これに対して二条里は毅然と反対意見を述べ続けた。そして、クラッタニア戦役を主導する事によりその人気を高める事を試みたが、失敗したフランシス帝はここで反対を封殺しなければ自身の存在が危うくなる可能性すらあった。何よりも、二条里がその気になれば帝位が簒奪される可能性すらあった。

 フランシス帝は自分に人望が無い事が分かるぐらいには冷めた女性であった。そして、フランシス帝の失政に合わせるように、二条里元執政官に絶大なる人望が集まりつつある事も、明確な事実であった。それでも、当人に能力があればそれが自信となり、そう簡単には非常時に事を起こすなどという結論には至らない。どうしても勝てない為に起きたこの羨望と地位の危うさに対する嫉妬こそが、フランシスに決断を与えたのである。

 即ち、二条里元執政官を殺せ、と。


 四月三日早朝、皇居の前に数人の諜報官が武器および防具を剥奪された状態で縛られているのが発見された。この事態に、フランシス帝は両院を緊急招集し、両院に非常事態宣言を発令させる。これに、山ノ井ら一部の議員は反対票を投じたが、特殊諜報員の醜態とその撃破という事態を受けて過半数の賛成により可決された。そして、可決の次の瞬間、フランシス帝は全議員にこの事件の首謀者が二条里護民官である事を公表し、皇帝宣言により二条里護民官を国賊に指定した。

 このような形で二度目の国賊指定を受けた二条里護民官であったが、五日の午後までには事件のあらましが明らかになった。

 二日深夜、帰宅途中であった二条里護民官は七名の諜報官に包囲された。これに対して二条里護民官は説得を試みるものの失敗し、交戦するに至った。その結果、二条里が勝利を収める。しかし、二条里はこれらの諜報官を殺さず、そのまま皇居の前に置き、そのまま姿を眩ませたのであった。

 それに対し、フランシス帝は二条里護民官を罷免。加えて、政治的な抹殺を目論み、二条里の一族に対して資産の完全没収および公的職務への就任を禁止した。

 この事態に、最も強く反発したのはレデトール共和国であり、マヌソフ正統統治官は二条里元執政官に対する不当な捜査へ遺憾の意を表明した。また、複数の同盟国もこれに同調し、外部の混乱がクラッタニア戦役中以上に際立つようになった。

 だが、外部の動揺にもかかわらず、両院は静観していた。淡々と必要法案の協議を行い、フランシス帝への批判も二条里に対する捜査も行われることは無かった。その中で、フランシス帝だけが慌しく動き、二条里に対する捜査を諜報官に命じていた。

 一見すれば、帝国内部は二条里を切り捨て、帝国内部の再建を試みているようであった。だが、事態は水面下で着々と進みつつあった。







  【弾劾の水曜日】


 四月二十三日、常任委員会は午前より議事非公開での議事進行を進めていた。この日、フランシス帝は二条里が中東に潜入しているとの報告を受け、首都日本を離れて捜査の直接指揮を執っていた。それでも、首都には片腕であるジェム法務官を残しており、皇軍も二個を配備していた。

 午後六時、議場より出てきた山ノ井常任委員長は記者に向かい、いつもの静かな口調で告げた。

「本日、常任委員会は全会一致で常任委員会最終事態宣言を発し、フランシス帝を国賊として指定することを決定した」

 同午後七時、鈴村執政官による緊急招集に応じた執政協議会はフランシス帝に対する執政協議会最終事態宣言を可決。この瞬間、フランシス帝は両院による国賊指定を受け、自らが追い落とそうとした二条里と同じ地平に立つ事となった。


 突然の国賊指定に、フランシス帝は当然のように大きな衝撃を受けたようであるが、両院にとっては既定の路線となっていた。この裏側では、勅使河原内務官が暗躍していたとされるが、正面から対峙したのは山ノ井常任委員長であった。午後九時、両院最終事態宣言の発動を受けての記者会見に臨んだ山ノ井常任委員長は、開口一番に言い放った。

「現フランシス帝は帝国の内外を慮ることなく、自身の保身にその精力を注いでいる。先のクラッタニア戦役では適切な時宜に対処する事をせず、同盟国であるレデトール共和国の信頼に応えることを怠った。これは、文輪帝国皇帝として有るまじき行為であり、これ以上の暴政を許すわけにはいかないと判断した。そこで、常任委員会は本日午前六時より協議を行い、午後六時に最終事態宣言を発するに至った。これより、我々はフランシス帝に対して国軍を発動し、これを排除する所存である」

 これに、鈴村執政官が続く。

「フランシス帝の擁する軍団に対抗するべく、私達は執政官軍団の発動を決定し、皇軍二個軍団への攻撃を明朝開始する予定です。しかし、私達はフランシス帝の排斥を求めるものであり、同じ帝国市民との戦闘を望むものではありません。そのため、両院側への参戦を望む者に対してはこれを認め、一時の除隊を望む者にもこれを認めようと思います。私達は明朝、首都において戦火を交えることなく問題が解決できることを期待します」

 これらの発言に記者は質問を行うが、常任委員長、副常任委員長および執政官は丁寧に対応した。そして、この会見の最後に鈴村執政官は宣言した。

「これから起こる帝国内部の戦いについては、私が独裁官として主に担うつもりです。首都の防衛には亀委仮執政官を配し、帝国市民の生活の安寧を守りたいと思います」

 三十三に過ぎない執政官のこの一言に、会場からは温かな拍手が向けられた。記者たちも、帝国の現状に憂いを隠せなかったのである。若き執政官には強い期待が寄せられたのである。

 記者会見の終了後、鈴村執政官は静かに静岡の執政官軍団駐屯地へと向かった。そして、執政官は集まった四個軍団に対して告げた。

「本日より、私はフランシス帝を弾劾するために戦いを始める。それは同時に、廃滅すれば私達が国賊となることを意味している。フランシス帝がどのような対処を取るかについては、安易に想像できることだろう。そのため、私は戦友諸君に今回の戦いを強要しようとは思わない。もし、この中で従う用意の無い者があれば、自由にこの場を去っていただきたい。逆に、もし従う者があれば、迫り来るであろう艱難を共に乗り越えていっていただきたい」

 四個軍団は、静かに鈴村執政官の言葉に聞き入っていた。賛意を示すでも、否定をするでもなく、ただただ、若き執政官を見詰めていた。しかし、それを変えたのは鈴村執政官の次の一言であった。

「フランシス帝は我々が血を以って築こうとした平和を否定し、それを己が名誉に変えようとした。そのようなことをする皇帝を、私は肝脳地に塗れた戦友たちを思えば、許すことはできない。今一度、この帝国に平和を齎すために、諸君の名誉を回復させたい」

 次の瞬間、軍団兵は立ち上がり、喚声を挙げた。鈴村執政官にはそれだけで十分であった。そのまま若き執政官は四個軍団を駆って首都へと進軍し、皇軍二個軍団との戦闘に備えて宿営地の建造を行った。だが、その準備は無駄に終わる。明朝、皇軍二個軍団はその全てが鈴村執政官の下に参集したのである。ジェム法務官は首都日本から脱出。これに呼応して、亀委仮執政官が鈴村執政官を独裁官に任命し、初めて対皇帝弾劾の体制として独裁官体制が成立した。なお、鈴村帝は特別軍部主席に千野律生を任命し、次席には渡会和貴およびデスフォート・アレクサンドルを配した。






  【フランシス帝弾劾戦役】


 フランシス帝に対して両院最終事態宣言が発せられたという情報は帝国中を駆け巡った。これに対し、ユヌピス・レデトール両同盟国は中立を素早く宣言し、他の同盟国もこれに続いた。ただ、レデトール共和国のクララテホ諫言官は以下のような談話を簡潔に述べた。

「帝国の未曾有の危機に際してこのような混乱が生じることは少々遺憾である。しかし、先の戦役を振り返れば今回の非常措置は仕方のないことであり、責任を負う者として賛意を示さざるを得ない。この度の弾劾がどのような形で決着するかは分からないが、いずれにせよ、宗主国として次は責任が果たされることを望む」

 さて、独裁官に任命された鈴村はその直後に、輸送艦隊の編制にとりかかった。既に、フランシス帝は中東で兵糧の接収を開始しており、複数の方面隊軍団をその指揮下に収めていた。文輪帝国が内乱を行う場合、最も重要になるのはこれ以降もほとんどが属州軍団の動向になるのであるが、その先鞭をつけたのは、この時のフランシス帝の行動であった。そして、フランシス帝の本拠が欧州である以上、最大の焦点は欧州を押さえることとなった。

 この時、最も早く行動したのは渡会特別軍部次席であった。二十六日の午後三時には、EUFP軍最高司令官であるジュリアヌス・ブラットンと接触し、その支持を取り付けたのである。さらに、鈴村独裁官はグラファード外務官に特別インペリウムを付与し、欧州方面隊の接収を命じた。これに、グラファード外務官もよく応え、欧州方面隊のうちフランシス帝側についたのは二個軍団で止まったのである。

 とはいえ、フランシス帝もこの状況を手を拱いて見ているだけではなかった。隷下の三個軍団に加え、接収した方面隊軍団五個を以って欧州方面へと進軍する。対するグラファード外務官は十四個軍団のうち七個軍団を引き抜き、中東の線で防衛を固めるように画策する。まだ、フランシス帝側には海上輸送手段はない。グラファード外務官はチグリス・ユーフラテス川を中心に五個軍団を配置し、さらには残る二個軍団を以ってフランシス帝と対峙した。五月の初めには、グラファード外務官はフランシス帝の正面に布陣し、挑発を繰り返しながらも、直接の戦闘は引き伸ばした。

「大口を叩くのは、皇軍と戦う自信がないためだ」

 と、フランシス帝はハバム皇軍司令官に言い放ったというが、ハバム皇軍司令官は静かに俯いただけであったという。グラファードの戦上手は帝国の中でも相当なものであり、その人物が戦いを引き延ばすのには理由があるのだと、敏感に感じていたようである。

「グラファード氏の戦略は、そのいずれを取っても教科書に載せて恥じないものである。私も、氏の戦略研究には古代の名将に対する思いで行う」

 ハバム皇軍司令官就任の際に行われた、雑誌のインタビューの一部であるが、この一文だけでも、ハバム皇軍司令官は自分とグラファードとの差を痛感していたようである。それでも、皇軍司令官の仕事は皇帝を守ることである。そうである以上、ハバム司令官はグラファードの執拗な挑発に耐え、補給路の寸断に全力を注いだのである。だが、グラファード外務官もこの意図を適確に掴み、欧州からの補給を滞りなく行わせた。

 膠着状態の続く五月二十日、鈴村独裁官は執政官四個軍団を率いて首都日本を出航、二十二日には上海に上陸した。そこで独裁官は東亜方面隊六個軍団を指揮下に組み入れ、中国内陸鉄道をフルに稼動して西方へと急いだ。この報告は二十三日にはフランシス帝の下に齎され、幕僚会議が行われた。その席で、フランシス帝はギジガナアニーニアへの援軍要請さえ提案したほどであったが、これはさすがに否決された。

「内乱を同盟国にまで拡大させてしまっては、いずれ内政の全てを掴まれてしまう。帝位を守ることも重要であるが、それ以上に、覇権と独立を維持することの方が重要である」

 後に、フランシス帝側の軍団長として戦った小野村光(こう)は語っているが、同じ事を述べた時、フランシス帝は「悔しそうな顔をしながらも、静かに頷いた」という。結局、この会議ではフランシス帝が自ら先頭に立ち、会戦に訴えることが可決された。ここで、フランシス帝に対してことごとく酷評を与えてきた「新史」は言う。

「ここに至って、フランシス帝は自らの命運を自らの責任で決めるべく動き出した。文輪帝国皇帝の一人としての責任を全うすると決めたのである」

 五月三十日、フランシス帝は両院側についたイラン中東方面隊宿営地を急襲した。未明の襲撃にもかかわらず、この二個軍団はよく応戦したが、四個軍団での夜襲に耐えることができなかった。この戦闘でフランシス帝は二個軍団を接収。一方、異常を察知して援軍に駆けつけたグラファード外務官は、そのまま引き返すより他になかった。このフランシス帝の電撃作戦によって両軍の決戦投入軍団数は拮抗することとなった。

 六月七日、鈴村独裁官は中東に到着。グラファード外務官を指揮下に加え、十二個軍団となった独裁官はフランシス帝に両院最終事態宣言が発令された旨を通達し、市民と帝国の安寧を守るためということを明記した上で、国賊指定されている人物への恩赦と、対クラッタニア戦略の根本的変更を求めた上で「降伏」を「奏上」した。これに対し、フランシス帝は速やかに拒絶の意向を示し、その旨を独裁官側に通達した。その際、書状には以下の一言が記されていた。

「皇帝が両院に『降伏』したなどいう歴史を作るわけにはいかない。私はあくまでも文輪皇帝であり、臣下の暴走を看過することはできない」

 その上で、フランシス帝は堂々と会戦を「指示」したのである。六月九日、砂漠の中央で布陣した両軍は、互いに最高司令官を先頭として対峙した。

「戦友諸君、この一戦は本来、成すべきではない戦いである。しかし、このままでは我々の名誉と戦跡、帝国の全てが否定されることとなる。だからこそ、今日一日は私に力を貸して欲しい。フランシス帝を廃位し、一致団結して外敵と戦うために」

「戦士諸君、この一戦は私を守るために行われる戦いである。だが、私を守るということは、将来的にはこの文輪皇帝という『歴史』と『帝国』を守ることである。私の意志により始まった戦いであるが、将来の帝国の為に、この一戦を奮励、努力して欲しい」

 現地時間午前十一時半、両軍は大いに激突した。互いに、帝国の将来を賭けた戦いであると既定したのを証明するかのように、一進一退の戦闘が繰り広げられた。鈴村独裁官は包囲殲滅を企図して右翼の突破を試みるが、ハバム皇軍司令官は無数の傷を負いながらも、千野律生特別軍部主席の猛攻を耐え続けた。だが、皇帝軍が正面に配した二個軍団は長くは持たなかった。剥き出しになった中央を皇軍三個軍団で維持し、何度も壊滅しそうになりながらも、フランシス帝は鈴村独裁官を目掛けて突撃を繰り返した。

 夕刻、互いにこれ以上の戦闘の続行は不可能であると判断し、小競り合いを行いながらも戦闘の規模を縮小した。そして、日没を境に戦闘を終了し、互いに宿営地へと引き上げることとなった。

 しかし、深夜二十三時に状況は一転する。フランシス帝は自ら八個軍団を指揮して鈴村独裁官の陣営に夜襲を仕掛けたのである。これに対して、鈴村独裁官は冷静に対応し、四個軍団で防備を固める。他の軍団の援軍を待ったのである。しかしこの時、フランシス帝側は壊滅した中東方面隊二個軍団の残りを除いて、両院側の他の宿営地も全て襲撃していた。八個軍団を二個軍団で攻めた構図になるが、フランシス帝側の猛攻の前に、グラファード外務官でさえ積極的攻勢に移るのが難しかった。

 この状況を、鈴村独裁官は直感的に把握する。そして、独裁官は守備に当たっていた中から二個大隊を引き抜き、宿営地から打って出ることにした。翌深夜一時半、鈴村独裁官はともすれば射抜かれる可能性すらある矢による援護射撃を受けながら、鈴村帝の部隊に突撃したのである。

 まさかの事態に、フランシス帝側の八個軍団も動揺する。だが、これにフランシス帝は言い放った。

「首謀者が少数で飛び出したのだ。今が、討ち時である」

 フランシス帝は鈴村独裁官の二個軍団の包囲を試みた。しかし、鈴村独裁官は全速力で駆け、その追従を許さない。そして、向かった先はフランシス帝の下ではなく、千野主席の宿営地であった。

 背後から予期せぬ攻撃に、千野主席の宿営地を攻めていたジェム法務官の部隊は混乱した。元々、少数での不利な戦闘であったため、挟撃されてはひとたまりもない。約半時間ほどの戦闘の後、ジェム法務官の部隊は四散した。そして、解放された千野軍を率いて鈴村独裁官は来た道を引き返した。

 宵闇が静かに晴れてゆこうとする頃、皇軍の背後に怒涛の勢いとなって迫る軍があった。その時、フランシス帝の廃滅は決定的なものとなったのである。

 明朝七時、全ての戦闘はフランシス帝が戦死した時点で終了した。この時の様子は史料によって異なるが、眉間を貫かれた上で絶命したという。いずれにせよ、この戦いで皇帝側は一一七五八人が戦死し、二七〇六二人が負傷した。実に、六割近い損害である。一方、両院側も七〇八二人が戦死、一〇七一二人が負傷し、こちらも約三割が死傷するという実に壮烈な結果となった。また、皇帝側では王白莉税務官が戦死し、両院側ではフィルビナ・フォット常任委員が戦死している。一日の損害だけで言えば、帝国史上最大級の規模となったのである。

「内乱は悲劇である。それも、当事者以上に共同体にとっての悲劇である。しかし、政治を行う以上、覚悟しなければならない悲劇である」

 このように述べたのは、幾度も政争に巻き込まれた二条里の言葉である。彼は二度の彼我戦争を体験することとなるが、その悲惨に対する苦しみは想像以上に深かったようである。

 話を戦闘の後に戻すと、六月十日、フランシス帝の戦死を知った皇軍司令官のハバムは自らの陣幕で自害しようとしているのを発見された。しかし、まだ息があったために緊急で処置が行われ、辛うじて一命を取りとめた。一方、鈴村独裁官は同正午、本戦役でフランシス帝を「支持」した人々に対して如何なる処罰も行わないということを宣言し、皇軍の三個軍団をグラファード外務官の指揮下に加え、方面隊の欠員を補充した。また、捕縛されたジェム法務官はそのまま解放し、法務官という地位は剥奪したものの、常任委員として政治への参与は認めたのである。

 このような措置を施した上でグラファードと千野の両氏に事後処理を任せ、鈴村独裁官は六月十五日に首都日本へと帰還した。そして、独裁官の地位を返上し、フランシス弾劾戦役の終決を宣言したのである。

 このような形で、フランシス帝の時代は終わるのだが、粛清と帝国防衛の両面からその評価はすこぶる低い。とはいえ、これまでの皇帝の中では在位期間が五年六ヶ月と最も長く、帝位の『安定化』という面では最も予断なく行なった皇帝であった。また、反対派を抑え込みながらも、適宜首脳に加えていった点を考えれば、現実を冷徹に見詰めることのできる人物でもあった。そして、何よりも最期の在り方としてはたとえ道徳的に問題があったとしても、皇帝の「系譜」を守る者としては正しいあり方ではなかったか。これについて、フランシス帝の戦死を描いた後の「新史」はこのように述べている。

「様々な問題を引き起こした女帝であったが、最期だけは文輪皇帝として君臨した。そして、最後まで鈴村独裁官の討伐の意志を捨てなかったのは、以後の皇帝の在り方として確りとした筋道をつける上で大きな意味を持つ。七賢帝時代の長期在位もフランシス帝なくしては存在しなかったであろう」

 常任委員会は六月二十日、フランシス帝の国葬を決定した。これを提案したのは他でもない鈴村執政官であった。

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