第四章 四代目マンデラ・ドバータの時代

⑪臨時皇帝としての在り方

   【登場と再登場】


 二〇〇六年に登場する事となったマンデラ帝であったが、この時期、文輪では表舞台へと再登場する人たちが現れた。

 まず、元常任委員長である山ノ井幸一が法務官として文輪に復帰した。一度は皇帝に次ぐ権力を持っていたため、執政官か常任委員長以外に可能性はないと考えられていたが、山ノ井自身の希望により、法務官として着任する事となった。これが、下位の官職に戻るという前例となるが、法務官は退任後に統治責任者として、帝国内のいずこかに派遣されることとなっている。山ノ井がこれを意識していたのは、言うまでもないであろう。

 次に、霧峯・内田元両執政官が復帰する。この時、霧峯は軍事担当の会計監査官、内田は軍務官に就任するが、この事が、後に帝国にとっては幸いする事となる。また、内田軍務官は大学に通学しながらの『兼業』であったため、これから四年間は軍団を手にすることがなかった。

 そして、この中で最も鮮烈な印象を帝国の内外に与えたのは、二条里元独裁官の税政官就任であった。この時、最も強く反応したのはユヌピス王国であり、中将に昇格していたゾ・デラスタ・デベデジニアは、次の皇帝がこれで決まったと公言したほどであった。それでも、二条里自身はまだ皇帝になるつもりなどは微塵も無かった。

 このようにして、多くの人材が文輪政治の表舞台に再登場したが、それでも、辻杜帝は何も反応を示すことなく、公式行事に参加することもなかった。自分の役目を最もよく把握していたようである。だが、この年の文輪政界には、さらに名立たる面子が登場する。グプラタ・トット、金剛毅、亀仮名、三井只人、層一成、レデステア・アーリーなど、次の巻では主役を飾る事となる人物も数多く排出されている。

 それで、なぜこのような事になったのかであるが、それは、マンデラが就任早々に常任選挙を実施して軍事関係の重職以外を総入れ替えしたためである。ちなみに、六代目執政官には典伍式と李典式が就任し、四代目常任委員長にはアンゼルム・ラットが就任した。何も、このような時期に選挙をする必要はないではないかと思われるかもしれないが、マンデラ帝としては文輪の民主性を保存するには必要であると考えたのだろう。確かに、四代も続けて皇帝が選挙を経ずに決まるのであれば、文輪の皇帝選出システム自体が崩壊しかねなかった。ただし、マンデラはこの選挙期間中には独裁官としてデスフォート元皇帝を置き、万全の体制を築いている。

 そして、このようにして初顔と復帰した顔に囲まれた中で、マンデラ帝はサテラット帝国との戦争に挑む事となる。むしろ、文輪帝国が事実上皇帝不在の中で如何にして外敵と戦うのかと言う事が試される最初の戦争であった。






   【サテラット帝国】


 さて、文輪皇帝の崩御と言う隙に宣戦布告を行なったサテラット帝国であるが、戦争の記述の前にこの国について少し触れてゆきたい。

 地球で言う紀元後一八〇〇年頃に惑星内を統一したサテラット星は、その母体であるグアネス王国の影響により、その頃から侵略に対する欲求が強かった。一八三七年にジマ星を支配下に入れたのを初めとして、文輪と戦うまでに十三の国家と交戦して、それらを悉く帝国の属州に組み入れている。その為、建国から僅か二百年であったにもかかわらず、サテラット帝国は宇宙の中でも比較的大きな帝国であった。加えて、その戦略は主に侵略向きに改良を重ねられている。故に、文輪皇帝の崩御と言う国家の一大事の隙に宣戦布告を行なうなど、平然とこなす事ができた。そして、戦うからには、必ず帝国内に組み入れると言う自信を持って挑んだのである。

 こういった事を反映してか、サテラット帝国の陣容は壮大なものであった。二三〇隻の宇宙艦隊を用意し、それに七十八万の兵力を積み込んだのである。マー・ナラスタ戦争のときに文輪の利用した艦隊が七十八隻(うち文輪が購入したものは僅かに十二隻)であり、レデトール共和国の保有する艦隊も百十隻に過ぎなかった。加えて、文輪の通常時の総兵力は九一個軍団の五十四万六千である。総兵力で行けば、百二十万強はあるものの、それだけの大軍を集結させるには時間が足りなかった。

 ここで、戦の決して上手くはないマンデラ帝は悩むのであるが、李執政官の勧めにより、レデトール共和国に依頼して、補給艦隊の妨害を行う事にした。この時、金剛毅法務官と芝波誠也軍政官を派遣して、交渉と実際の指揮を執らせている。二人とも、比較的無名であったが、既に名のある人々には本国の防衛と言う重責がのしかかっていたのである。

 また、対空防御に関しては旧アメリカ軍の近代兵器を中軸に据える事を決定した。近代兵器を利用しないとした文輪にしては、おかしな事ではないかと思われるかもしれないが、それは陸軍だけの話であって、海・空軍においてはまだ有効なものであった。また、この指揮は旧アメリカ軍の将校であったシュルツ軍政官とオーガスタ内政官とに任せ、万全の状態を整えている。

 そして、文輪の四役、即ち、皇帝と常任委員長と執政官は着陸地点と目されているアメリカ中部へと向かった。この時、マンデラ帝はアメリカに可能な限りの兵力を集中させている。全九十一個軍団のうち、八十個軍団もの兵力が集結したのである。これだけで、四十八万の兵力がある。これに、指揮官としてジュリアヌス・ブラットンを初めとして、ボブ将軍、山ノ井法務官、柳沢皇軍司令官、アレックス将軍、デイシー軍政官などの豪華な面子を揃えた。その上で、彼らにある程度の裁量権を与え、北米中部に配置したのである。

 これに対して、サテラット帝国の先鋒を務めたのはシフュア中将と呼ばれる人物であった。彼は、サテラット帝国の俊英と目され、サテラット軍の中では比較的早く出世している。この彼が最も得意としたのは電撃戦であり、前の戦争では敵の戦略要所を上陸早々に陥落させている。また、これに副将として堅実な指揮でフィルンツにおいて有名なケフェア少将を付けている。この強力な二者に対して、文輪は別々の手を打たなければならなかった。

 だが、それ以上に大変であったのは、七十八万にも及ぶ兵力と四十八万の兵力で対峙しなければならないということであった。無論、練度や兵器によってはその差を埋められない事もない。また、戦術によって埋める事もできる。事実、そのような戦を今までの文輪の人間は行なってきたのである。

 しかし、これには類稀なる幸運や才能が必要不可欠となってしまう。そうなってしまっては、文輪の政治は一部の天才によって占有されてしまう可能性があった。事実、この時には皇帝をマンデラではなくアルフレッドや辻杜などにすべきであるという声が巷で沸き起こったほどである。このような状況で、マンデラ帝は才能がやや乏しくとも、少なくとも天才ではなくとも、十分に機能する戦略を用いなければならないと考えたのである。この考え方は、デスフォート元皇帝に似ている。ただ、マンデラ帝にとっては彼よりも遥かにその必要性が高かったのである。

 そして、マンデラ帝はサテラット軍の上陸を目前に控えた五月二九日、戦略会議の場において以下のような指針を示したのである。

「今回の戦争における基本戦略は、敵を分断した上での各個撃破とする」

 六月三日、サテラットの先遣隊である二十三万が予想通りに北米中部に着陸した。この前後に敵宇宙艦隊による爆撃を受けたものの、それはシュルツとオーガスタの尽力により、最小限の被害で抑えられた。その為、敵艦隊に対する打撃は弱かったものの、文輪の少ない兵力を温存する事はできたのである。

 さて、ほぼ無傷のままの敵を迎え入れる事となった文輪であるが、それでも、慌てることなく宿営地の建設を粛々と行なった。この時、文輪は隊を細分化し、五・六万程度の兵力で守る宿営地を九も築いている。その中でも、特に川の上流に位置し、戦略において重要な地点をマンデラ帝自身が守っていた。そして、帝はそこに堤防を築き、川の流れを堰き止めたのである。

 この作戦に対して、サテラット軍は素早く反応した。無論、水を補給できなくとも、十分に生活できるだけの水は確保できる。これは、艦隊が不測の事態に対応するための非常用であり、その蓄えを利用すれば暫くは耐える事ができる。しかし、それも長く続くわけではない。それに、知的生命体とは無くなるよりも先にそれに対する恐怖の方が大きな力を持ってくる。その為、シフュア将軍はこの状況を打破するために、マンデラの部隊を直接、攻撃する事に決めたのである。

 六月十日午前五時半、猛火のようなシフュア軍の攻撃がマンデラ軍を襲った。「猛火のような」という表現をここでは用いているが、この時に守備を担当した皇軍第一軍団が死傷により、半減してしまったという一事を考えても、全く誇張表現ではない。シフュアは十六万もの兵力を率いてこれを強襲している。それを六万の兵力で防ごうと思えば、多大なる犠牲が生じるのは自明の理であった。

 これに対し、攻撃を受けたマンデラ帝は即座に命令を下した。それは、決して自軍を守れなどという卑小な命令などではなく、残る全兵力を以ってケフェア少将の守るサテラット陣営地を奪取せよ、であった。

 午前六時、命令を受けた陣地の指揮官たちは殆ど全ての兵力を率いて、ケフェア軍を急襲した。この時、出陣した三十五万の兵力全てがケフェア軍に集中する。それに対し、マンデラ軍に課された仕事は、ひとえに死守だけであった。さらに言えば、マンデラ帝は自分を餌にしてこの先遣隊を撃破するつもりであった。

 これに対し、実に五倍もの兵力によって囲まれたケフェア軍は、それでも十分によく耐えた。陣地の守りを堅固にし、攻撃の激しい箇所に兵力を集中させる事で、決して退く事はなかったのである。ケフェアにとっても、取る事のできた戦略はただ死守するだけであった。死守さえすれば、シフュア軍が救援に駆けつけるか、マンデラ軍を撃破する。その僅かな望みだけを頼りにして、ケフェアは耐え続けたのである。

 だが、この勝負を決したのはケフェア少将とマンデラ帝の根気ではなかった。戦闘開始の翌日の午後になってから、シフュアはその軍を二つに分けたのである。十万の兵力を以ってマンデラ軍への攻撃を続行し、六万の兵力を以って、ケフェア軍を救援することにしたのであった。

 これに対し、文輪はシフュア分隊に対する守りを、典執政官と五個軍団に任せることとする。文輪としては、集中させた兵力を大きく割いてしまいたくはなかったのである。故に、典執政官にも死守が求められる事となった。それでも、この判断は正しかったのである。大きく兵力が減少したことにより、守りどころか攻撃すら可能になったマンデラ軍に対して、兵力に大きな変化のなかったシフュア軍は次第に、死守が難しくなってきたのである。それでも、ケフェア軍は文輪の猛攻によく耐え続けた。

 六月十三日午後十時半、終にサテラットの陣営地が陥落した。この時、ケフェア少将は投降を潔しとはせず、毒をあおって自害した。そして、陥落によって自由となった文輪の大軍は次にシフュア軍の分隊に襲い掛かり、さらには、シフュア軍本隊を撃破したのである。

 六月十五日、このサテラット戦争の初戦は文輪軍の勝利で幕を閉じることとなる。後に、トピカ南の戦いとして呼ばれる事となるこの戦いでの死者は文輪が一万二千であったのに対し、サテラット軍は六万八千にも及んだ。そして、捕虜となったのは十六万にも及び僅かに二千程度の兵士がシフュア中将と共に、逃げおおせたのであった。

 それでも、この戦いによって、皇軍のうち三分の一が死傷によって戦闘不能となっている。文輪帝国においては精鋭である皇軍がこれ程の痛手を被った以上、その損失は数では表せないものとなったのである。

 しかし、その一方でマンデラ帝の示した基本戦略は、着実に実行された。トピカ南の戦いによって、暫くは動員可能兵力が四十万程度にまで落ち込んでしまったものの、サテラット軍の兵力も五十五万にまで落ち込んだのである。圧倒的に、文輪の勢いが伸びたのであった。

 とはいえ、文輪とサテラット帝国との本格的な戦闘は未だに成されていなかったのである。そして、本隊同士の戦闘こそが戦争の行方を左右するのであった。







   【サテラット戦争】


 七月十日、サテラット軍の第二陣が到着し、それから三日にわたって次々と地球に同軍の主力が降り立つ事となる。ここで本格的にサテラット戦争は始まるのであるが、これに対する文輪の反応は静かなものであった。初戦とは打って変わって、マンデラ帝は陣を堅く守り、戦闘を控えるように通達を出したのである。

 この間、マンデラ帝はもう一つの戦争をサテラット軍に仕掛けている。それは外交戦であり、兵力を用いずにこの戦いで有利を掴もうとしたのである。無論、マンデラ帝は戦争の終結が武力の行使によってのみ訪れる事を知っていた。それでも、外交上の有利はそのまま戦場での有利に繋がる事を知っていた。そして、政治こそが得意分野である帝は、このような言葉を残している。

「武力を用いての戦いであれば私に用はないが、知力を振り絞っての戦いであれば私にも役割がある。戦争とは所詮、文武の両立に帰結するのだ」

 七月十二日、マンデラ帝は二条里を外務官へと転任させ、クロイス帝国へ向かわせた。この時、二条里が帯びた使命は代償なしで兵を出させる事であり、無謀としか言いようのない内容であった。それでも、文輪には勝算があった。それは、兵力分析の提供と戦略的弱点への誘導が可能であった点である。クロイス帝国は侵略の、特に大国の侵略に野望を持った国家であり、この手の話には、必ず乗るという計算があったのである。

 また、霧峯会計監査官に三井只人を付けてサテラット帝国内の不満分子の扇動を開始した。元々、霧峯は幼いながらもアメリカの地下組織のメンバーであり、その性質を熟知していた。加えて、優れた軍人でもある。いざという時には扇動だけではなく、実務を担当できると確信しての行動であった。そして、サテラット帝国内にはいくつかの力を持った組織が存在していたのである。

 こうした手回しを行ないながら、マンデラ帝は正面に対する敵軍との戦いにも頭を悩ませていた。無論、長期化すれば帝の考える戦略が功を奏することとなる。しかし、それだけでは勝利を収めることができないのは明らかであった。むしろ、そういった戦術が効力を発揮する前に本隊が消滅すれば全てが水泡に消えよう。そうなると、徹底した防御が必要となる。だが、逆に防御を重ねれば敵軍に考える余裕を与える事にも繋がる。味方の士気も下がろう。それらの事情を考えれば、帝には適度な戦勝が求められたのである。

 七月二十日、マンデラ帝は作戦会議を招集し、その場で今後の方針について話し合った。百人隊長からの召集であったというから、最大規模の作戦会議である。ここで、帝は決戦を行なう必要性について説かれることとなる。その筆頭は、典伍式を筆頭とする主戦派の面々であり、外交戦において勝利を収めつつある今を除いて決着をつける道はないというのがその理由であった。一方の守衛派は、アンゼルム・ラットを筆頭とした面々であり、外交戦の効果がさらに浮き出るまでは待機するべきであるとした。この二者択一を迫られたマンデラ帝であったが、その苦悩は見るに明らかであった。

 この悩める皇帝に対して、決断の後押しをすることとなったのは、デスフォート元皇帝である。この有能であった皇帝も、どちらかといえば軍事が得意というわけではなく、マンデラ帝に近い存在であった。そのため、彼は夜半に彼の陣地を訪れると、懇々と彼に持論を説くのではなく、静かに告げた。

「マンデラさん、貴方が最も確実と思う方法を選べばいいのです。決して無理をせず、紅茶でも傾けてゆっくりと考えてください。かく言う私も、同じようにして決断を下したのですから」

 デスフォートの一言を受けたマンデラ帝は、決戦回避を決定し、敵軍を分断しての小競り合いに終始するとしたのである。この決定が、最終的にはサテラット戦争を早期解決へと近づけてゆく。

 十月の半ば、まずはサテラット帝国の隷下にあるファロアスが叛旗を翻した。ファロアス星はサテラット本国に最も近く、丁度、喉元を突かれる形となった。これに対し、サテラット帝国は属州から三十万の兵力を投入して、鎮圧に向かわせた。しかし、その三十万が丸ごと反乱兵となるまでにさしたる時間はかからなかった。正規軍と市民兵によって大いに増大したファロアス反乱軍は属州の州都を陥落させ、翌一月にはファロアス共和国の成立を宣言した。

 また、これに呼応したのがクロイス帝国であった。ファロアス共和国の成立に合わせるようにして、軍の集結を開始したのである。その兵力は百万近くになるとされ、宇宙戦艦五百隻が投入される事となった。

 さらに、この事を内田軍務官が上手く利用した。前線に出る事ができないために諜報部隊を率いていた内田は、その全てを投入してサテラット軍にこの噂を吹聴してまわった。結果、サテラット軍では混乱が生じ、その士気が低下する事となった。加えて、典の進言を受けたマンデラ帝は、兵力をさらに増強してサテラット軍を圧迫したのである。

 この怒涛の攻撃にサテラット軍は焦り、十日にわたる軍議が開かれた。その中で、サテラット軍は講和と決戦の二派に分かれたが、最終的には主戦派が武力で押し切り、文輪との決戦を行なう事となった。

 三月七日、文輪との睨み合いの最中、サテラット軍最右翼の七万八千が文輪軍左翼に襲い掛かってきた。それに呼応して、最左翼の五万八千も文輪軍右翼を襲う。この事態に、文輪はあわや包囲の大惨事となるところであった。

 だが、この危機を救ったのは中央の前衛を任されていたジュリアヌスであった。ジュリアヌスは、サテラット軍中央左の一隊が弱いと見抜き、そこに、前衛と中衛全てを投入したのである。これを、士気も弱ったサテラット軍が押さえる事はできなかった。

 戦闘が開始されて僅か二時間。それだけの時間で五十五万のサテラット軍は崩壊した。この時の戦いをトピカ北西の戦いと呼ぶが、その勝敗は明らかであった。士気の失われたサテラット軍は三万六千の死者を出し、十八万に及ぶ捕虜を出した。これに対し、文輪軍は死傷者を合わせても一万を超えなかったという。

 この敗北に、サテラット軍は講和を決意した。三月二十三日、シフュアが講和の使者として文輪軍に赴き、その場で話し合いが行なわれた。その結果、文輪はサテラット帝国と「トピカ条約」を結ぶ事となった。以下に、その内容を示す。


1、 本条約は文輪帝国とサテラット帝国との間における講和条約である。

2、 以後、サテラット帝国は文輪帝国及びその同盟国の領土を侵さないものとする。

3、 同様に、文輪帝国もサテラット帝国の勢力を侵さないものとする。

4、 サテラット帝国は、賠償金として文輪に五十兆デーラを支払うものとする。ただし、十兆デーラは同年中に支払うものとし、残りは四十年の分割払いとする。

5、 サテラット帝国の有力者は翌年より五名程度の子供を文輪帝国に留学させるものとする。なお、その費用は文輪が全て負担する。

6、 条約締結後、両軍はその捕虜を解放するものとする。

7、 条約の更新は三年ごとに行なわれるものとする。


 この「トピカ条約」であるが、今までの条約と比べて、二つ異なる部分がある。まず、一つ目は賠償金の支払い金額を明確に示した点である。今までの講和条約であれば、国家予算を基準に算定するか、その技術などを提供させるのが常道であった。それが、本条約では五十兆デーラとなっている。この五十兆デーラであるが、どの程度の金額であるかと言われれば、宇宙戦艦一隻分であり、サテラット帝国には十分な支払能力があった。故に、決して高いものではなかったのである。それでも、この金額を提示したのは、サテラット帝国に抜け道を作らせないためであった。つまり、マンデラ帝はこのサテラット帝国を完全には信頼していなかったのである。

 さらにこれが如実に表れたのは、講和条約に同盟の内容を含まなかった部分である。今までの文輪帝国であれば、講和条約と同盟とを抱き合わせる形を取る。そのため、同盟国は文輪帝国の庇護下に入り、同時に兵力などを提供する事となる。これによって、文輪帝国は同盟国との親密さを高め、連携の強化を図ったのである。無論、純粋な利益が高いかどうかは不明である。それでも、戦争という惨劇を繰り返さないという部分に絞れば、十分に効果があった。

「決戦では勝利した。しかし、サテラットの主戦派を完全に挫く事まではできなかった。これがいずれ、火種になるだろう」

 と、トピカ条約の締結後、マンデラ帝は語ったというが、これが帝の心境を全て表している。戦いを扇動する者がなくならない限りは、戦争は再び起きる。戦争をたくらむような相手と、同盟を結ぶなどできるはずもなかった。

 それでも、講和条約自体は穏便に締結され、両軍の捕虜は解放された。さらに、マンデラ帝は霧峯らに帰還を命じ、ファロアス星の独立運動の支援を断ち切ったのであった。政治的な利益から行けば、マイナスになる行為でも、自ら欠点を増やす事のないように、マンデラ帝が配慮した結果であった。それに、もはやファロアス星の独立運動は支援の必要も無く、共和政府は充分に機能していた。

 そして、ここまでを終えたマンデラ帝は、急いでレデトールへと向かった。無論、サテラット戦争における協力に感謝するためであった。レデトール共和国の国会に登壇したマンデラ帝は、多くのレデトール市民の見守る中で以下のように語った。

「数年前、私達は文輪・レデトール戦争という悲劇を体験しました。その戦いは凄惨を極め、互いに多くの命を落とす事となりました。それでも、今ではこのように友好的な関係となり、この建国以来の危機に際しても多くのご協力を頂きました。そのご協力に感謝すると共に、この両国の関係が長く続く事を願って止みません。そして、同時に多くの国々がこうした良好な関係を築く事ができる事を心より願いたいと思います」

 この時、多くのレデトール市民は拍手を惜しまなかったという。






   【第一回皇帝選挙】


 先に、図書部の帝国制度を述べた部分があるが、その中で、最も特異なものとして帝国選挙という制度が存在する。基本的に、選挙は本国の市民権を持つものが行うものであり、植民地や外国に住む人々に選挙権は存在しない。だからこそ、外国人の投票権が大きな問題となるのであるが、その根底には、自らの命運を他国の人々に任せるべきではないという考えが存在する。

 だが、この帝国選挙の概念では、そのようなものを超越し、属州だけでなく同盟国に住む全ての自由民が選挙権を持つ。つまり、図書部帝国では同盟国の人々にも、自らの運命を託すべきだという特殊な概念が存在するのである。これが、必ずしも正しいわけではない。しかし、図書部帝国はこの制度を通じて、広大な規模の帝国を維持してゆくのである。

 さて、サテラット戦役を集結させたマンデラ帝であったが、帝はレデトールから帰還した四月三十日、第一回図書部皇帝選挙の告示を宣言した。この時、帝はこのような一言を述べた。

「我らが図書部帝国は、市民並びに全て同盟国によって成り立っております。ですから、この選挙は図書部に関わる全ての人々によって成されるべきです。この地球という小さな星にとっては初めてのことですので、皆様、ご協力のほど、よろしくお願いします」

 これに呼応して、皇帝候補には三人の人物が名乗りを上げた。

 まず名乗りを上げたのは、常任委員長であったアンゼルム・ラットである。アンゼルムはサテラット戦役に参戦し、最前線で敵軍を果敢に攻め立て、帝国内で人気を博していた。とはいえ、その政治力にはやや不安の声が上がっており、それが得票に響くのは明らかであった。

 次に名乗りを上げたのは、同じく執政官である典伍式であった。典は、その安定した政治手腕と中国という大票田を抱えた一角の人物であり、一回目の本国選挙では圧倒的な人気で執政官に当選している。ただ、中国の安定化に尽力する場面が多かったために、対外的にアピールする機会が少なかった。

 そして、最後に名乗りを上げたのは、オーガスト・ファットン副常任委員長である。オーガストは第一回の本国選挙で執政官候補として立候補した事のある人物であり、堅実な政治手腕で頭角を現していた。また、この三人の中では唯一、内政官、法務官、護民官の上位三役を勤め上げており、図書部政治をよく把握していた。それでも、帝国内外に対するアピールは弱く、また、時に表れる攻撃的な性格から人気がいいとは決して言えなかった。

 以上の三人で争われる事となった帝国選挙であるが、序盤はほどよく、その人気は分かれていた。特に、最も不利と言われていたオーガストの粘りは凄まじく、一時は人気で一位に上り詰めた。本国選挙とは異なり、同盟国からの支持を受けようと尽力した結果である。

 しかし、それを大きく変えたのはデスフォート元皇帝による応援演説であった。デスフォートは、図書部の外でも壮絶な人気を誇る。特に、メスタエ王国はデスフォートを崇拝していた。そのため、彼の応援はそのまま大票田であるメスタエ王国の獲得に繋がったのである。

 九月一日、帝国内で一斉に行われた投票は、その投票率八九パーセントという高い値を叩き出した。本国の現状と、同盟成立の時期を考えれば奇跡とも言える数字であった。そして、その結果として五代目皇帝に選ばれたのは典伍式であった。

 ここで、マンデラ帝には一つの問題が生じる事となる。それは、禅譲の時期であった。マンデラ帝の登位は「二代目デスフォート帝非常時禅譲法」を根拠に行われており、その内容に従って、戦役終結から半年以内に帝国選挙を行って次期皇帝を選出している。だが、この法律には禅譲の時期自体は明記されていなかったのである。これでは、さすがに不都合があると考えたマンデラ帝は「四代目マンデラ帝禅譲法」を制定し、禅譲の様式とその時期を定めたのであった。

 この法律によると、特に異常がない場合には、帝国選挙後、半年以内に禅譲を行わなければならないとなっている。また、その期日は決められており、各月の一日に行うものとしたのである。半年以内、というのは各種指示系統の確認や印章などの改定に必要な時間であった。また、この頃はまだ皇居がなかったものの、その代わりとなる執務公館(旧日本国首相官邸)の移転や引越しなども考慮に入れての内容であった。

 「禅譲法」を制定したマンデラ帝は、それを根拠に禅譲の期日を一月一日とした。やや期間は開くが、年度の替わりに乗じて行えることは大きなメリットと言えた。そのため、これ以降は平常時の禅譲を一月一日に持っていこうとするのが慣習となった。






   【マンデラ・ドバータ】


 このような形で、マンデラ帝は自らの帝位に終止符を打とうとした。確かに、法によって定められた彼の在位要件は既に失われており、退位する必要はあった。しかし、仮にも最高権力者に登りつめたのである。本人の意思さえあれば、既成事実として追認させる事も可能なはずであった。むしろ、この後の二、三十年を考えれば、その考えの方が自然であった。それでも、マンデラ帝はそれをせず、素直に従ったのである。

 登位時六十一歳であったマンデラは、旧南アフリカで一九四五年十二月十日に生を受けた。この年は、ちょうど第二次世界大戦の終戦の年に当たり、これから始まろうとする歴史の荒波に放り込まれる形となった。それに、帝は黒人であった。幼少期から壮年期にかけてを、帝は差別の中で生きてゆくこととなる。

 この彼が十五歳になる一九六〇年、アフリカで十七もの新興国が誕生した。俗に「アフリカの年」と呼ばれるが、この出来事に、若いマンデラは自国の状況を嘆く事となる。外では民族自決を求めての戦いが行われている。しかし、国内ではアパルトヘイトによって白人が優位にある。この矛盾に、帝は強い疑問を抱くようになってゆく。

 この後、貧しいながらもマンデラは自ら教養を深めてゆき、やがてはアパルトヘイト廃止に向けて動き出す事となる。この当時のことを、帝はこのように振り返っている。

「日々、平等という事について思いを巡らしておりました。運動が常に上手くいったわけではありませんので、大いに悩まされる事もありました。それでも、自分と自分の子孫と友人のために精一杯、努力しようと闘い続けたものです」

 これが、安価な労働力として工場に出仕し、それでも、少ない財産を自身の学問に捧げた男の素直な心情であった。そして、一九九一年にアパルトヘイトの廃止が実現すると、マンデラは初めて結婚した。この時、マンデラ帝は四十六歳。相手は二十七歳と大きく離れたものであった。

 この後、黒人にも選挙権が認められると、マンデラは政治家へと転身する。九四年に行われた選挙において当選を果たし、南アフリカの発展に寄与する事となる。

 そして、それから八年後の二〇〇二年二月、南アフリカが図書部と同盟を結んだのにあわせ、アフリカ大陸からは始めての常任委員として派遣されることに決まった。この時、日本の土を始めて踏んだマンデラは、このように述べている。

「全く、豊かな国です。これほど幸福な国家は他にないでしょう」

 また、ロシア戦線から戻った辻杜帝と謁見したマンデラはこのように述べたという。

「自ら皇帝と名乗るからには、もっと卑しい人格であると思っておりました。しかし、これほどまでに優れた人物であるとは想像しておりませんでした」

 これに対して、辻杜帝はこう返したという。

「なに、皇帝というものは、別に人知を超えた存在ではない。ただ、市民のために最良の方法を求めた結果、自分が皇帝になるしかないと考えただけだ。だから、別に誰がなろうとも問題はないのである。それこそ、数年後にはあなたが皇帝になっている可能性もあるのだ」

 この時は、さすがにマンデラ帝も笑うだけであったそうであるが、内務官、税政官により、併呑した地域の安定化と税制の調整に尽力したマンデラは、辻杜帝の退位とほぼ時を同じくして法務官に就任している。そして、税制改革の骨子を作った功績が高く評価されたマンデラは恐るべき速さで常任委員長にまで上り詰めたのである。この直後に、アルフレッド帝が急死して四代目皇帝に登位。辻杜帝の一言が現実となった瞬間であった。

 しかし、これだけの成功をマンデラ帝は呆気なく捨てる。無論、政治を全て捨てたわけではなく、この後も副常任委員長と執政官を歴任している。そのため、これを不審に思うものも多くあり、後に皇帝となる好複里はその理由を尋ねた。

「特別な理由は何もございません。ただ、市民のために必要だと感じたために成したまでです」

 このマンデラの回答に好は唖然となったそうであるが、去り際の潔さはその後も続いた。二〇一六年には七十を過ぎたという理由から図書部の政界から引退し、その後は悠々自適の生活を通したという。また、マンデラ自身は特に子供を後継者に据えるなどということをしなかったが、唯一の娘であるマンデラ・フィアラは第二次クラッタニア戦役で敢闘し、その功績によって法務官や属州統治官を歴任する事となる。

 そして、引退から二一年も過ぎた二〇三七年、マンデラ帝はその生涯に幕を閉じる。第二次クラッタニア戦役の行方を最後まで心配していたという。いつまでも市民を思うその心に、帝は死後、国家の父ではなく、市民の父という尊称を贈られたのであった。






   【十二月三一日】


 「禅譲法」の制定後、マンデラ帝は残された時間を帝国内部強化のために用いる。マンデラ帝としては軍事が苦手であったため、本領発揮の機会が与えられたといえる。そのため、マンデラ帝の行動は素早かった。

 まず、マンデラ帝は司法制度に関する整備を行っている。図書部は各地方自治体に様々な権限を付与して運営を行っているが、司法もその一部ではあった。しかし、帝国の拡大と共に規範となるべき指針を作る必要性が生じ始めたのである。具体的には、宗教上に関係する裁判と対外関係に関する法律であるが、特に前者は早急な対応が必要であった。

 そこで、マンデラ帝は「四代目マンデラ帝司法制度管理法」を制定し、その中で宗教に関する裁判を制限した。具体的には、他宗教信者や他宗教への干渉の禁止、宗教原理の過度の徹底に関する法の制限、宗教裁判の禁止などが組み込まれており、特に、「帝国法を超える処罰および罪状の制定」を強く禁止している。とはいえ、宗教に関係する項目全てが禁止されたわけではなく、宗教からの破門などに関しては特に制限を与えず、また、信条の侵害に対しては強い態度で処罰に臨んだ。

 また、これと同時にマンデラ帝は、帝国内における司法のヒエラルキーを定めた。まず、地方自治体において一審と二審を受け、最後に帝国裁判所において審理を受けることができるという三審制を導入した。この時、裁判官を務めるのは法務官軍団であり、帝国基本法に抵触しない限りは地方自治体の法律を基準にした。そのため、マンデラ帝は「初代二条里執政官両院基本法」を「四代目マンデラ帝両院増補法」によって改め、法務官軍団の増員を決定する。特に、法務官の人数を九名とほぼ倍増させ、法務官軍団の権限を増強させている。後に、これが三院会戦の一因となるが、少数民族の保護を行う上では必須の条件であった。

 次に、マンデラ帝は国民保険制度の導入の検討を始めた。これは、さすがに在位期間だけでは完成させる事ができなかったものの、「四代目マンデラ帝医療補助制度緊急措置法」により、優先度の高い部分が成立する。具体的には、出産と事故による傷害に対するものであり、これらに対しては窓口の負担を五割にまで軽減するとしたのである。以後、マンデラ帝は政治生命をかけてこの制度の制定に取り組む事となる。

 さらに、地球では問題になりつつあった、石油の代替エネルギー開発に対しても力を注ぐ。内務官の下に臨時で環境・代替燃料特別担当官を設置し、以後二十年分の指針を決定した。

 このように、帝国制度の根幹を成すような整備こそ行わなかったものの、必要な法律を整備したマンデラ帝は晴れやかな顔でその位を典伍式に譲る。この時、壇上に立ったマンデラ帝は次のように述べた。

「私は能力でも人望でも、今までのどの皇帝にも及ばない存在でした。それでも、僭越ながら皆様のために働かせていただくことができ、真に幸福でした。そして、これからも皇帝としてではなく、何かしらの形で皆様のために働く事ができれば幸福です。皆様の幸福が未来永劫続くよう、お祈り申し上げます」

 二〇〇七年一二月三一日、マンデラ帝は両院の温かい拍手に送られ、退位した。それと同時に、図書部帝国は民主帝国という未知の領域を歩み始めるのであった。

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