⑩マー・ナラスタ戦争

   【マー・ナラスタ戦争】


 ここに至って、両軍の対決はマー・ナラスタ戦争と呼ぶに相応しい状態となったが、それに呼応するかのように、アルフレッド帝は本国からある人物を召喚する事となる。それは、アルフレッド帝が唯一求めた指揮官であり、数隻の宇宙艦隊を犠牲にすることさえ厭わない人物であった。それは、EUFP軍最高司令官であったジュリアヌス・ブラットンである。

 既に、彼が抜群の政治センスを持っていたと言う事は述べた。このセンスは、特にEUFP軍の形勢において発揮され、ともすれば分裂の危険性のあった欧州各国義勇軍を一つに纏め上げることに成功した。その為、法王からも信頼が厚く、対文輪の戦闘においては第二の獅子王、東洋の強欲を払う勇者として崇め奉られた。無論、そういった宣伝を最大限に利用したのは彼であったのだが。

 このように、文輪にとっては最初の難敵であったジュリアヌスであるが、二条里元執政官に完敗してからは、文輪の同盟軍としてEUFP軍を再構築する事となる。要は、思想を転換することを求められたのであるが、それを見事に果たして、メスタエ戦役では文輪国境の防衛に尽力した。その功績が認められ、若干十七歳ながらも、貴族に列席する。まあ、二条里などはこれよりもさらに若いのであるが。

 このように、これまでを輝かしい功績で飾ってきたジュリアヌスの参戦を誰よりも願っていたのは、アルフレッド帝ではなかった。二条里下の元第一軍団軍団長であった柳沢将軍である。彼は、二条里の下で、最も多くの戦を経験してきた将校であるが、その分だけ、彼はジュリアヌスの能力の高さを見抜いていたのである。その為、この兵力差を埋めうる力を持っているのは、ジュリアヌスだけと殆ど直感的に思ったと彼はその手記の中で語っている。そして、彼はこれを熱心にアルフレッド帝に説いている。この説得に根負けする形で、アルフレッド帝はジュリアヌスを呼んだのである。

 一方のジュリアヌスであるが、ジュリアヌス自身も声がかかればいつでも参戦できるように準備を整えてあった。その為、ジュリアヌスは自身の精鋭である五百騎を連れてクラッタニアへと向かった。この時、ジュリアヌスは最高司令官代行に当時十五歳のアレキサンダー・ファデラを就けている。この異例の人事にEUFP軍は困惑するものの、アレキサンダーはこれを即座に収拾し、鮮烈な政治デビューを果たした。

 さて、このような形で両軍の司令官が出揃う事となったが、戦場としても見事に整った。文輪軍はクラッタニアの援軍を含めて十万。これに対して、フィルンツ軍は未だに二十三万もの兵力を誇っていた。先の戦闘において、五万を捕虜にしたところでこれだけの差である。兵力差が、アルフレッド帝には重くのしかかった。それでも、アルフレッドは待つということをしなかったのである。

 マー・ナラスタ島に移ったアルフレッドは、次の標的をフェラント将軍に絞った。無論、三対一であれば大きな劣勢であっても、一対一であれば十分に対抗できると踏んだからである。

 十二月二十日、アルフレッド帝は自軍を二つに分けた。二万を地球から到着したばかりのジュリアヌスに任せ、自身は皇軍八個軍団とクラッタニアの援軍合わせて八万を手に、フェラント軍に対峙する事としたのである。フェラント軍の総兵力は六万七千。全体の兵力では劣っていた文輪でも、敵の兵力を分散させてしまえば、優勢だったのである。

 翌二十一日、ジュリアヌス率いる二万の軍勢がサス大将の率いる本陣へと向かって突撃した。これに対し、フィルンツ軍はオーメルフ参謀長の作戦の下、ジュリアヌス軍を両翼から挟み込んだ。だが、これをやすやすと受けるほど、ジュリアヌスも戦下手ではなかった。ジュリアヌスは自軍の機動力を生かして敵の包囲をかいくぐり、逆に、進路の変更に戸惑っている敵軍の脇を突きながら、フィルンツ軍を翻弄し続ける。そして、敵が団子状になったところで退却を始めたのである。

 これに合わせて、アルフレッド軍が盛んに運動を始め、フィルンツ本陣へと襲い掛かった。そこで、フィルンツ軍はフェラント軍のみを追撃にまわし、残りの全軍を以って、アルフレッド軍を包囲にかかったのである。フィルンツの雷と呼ばれただけに追撃が早く、攻撃力も大きかった。ジュリアヌスもその後退の足を緩める事はなかった。そのまま、この追走劇はクラッタニアの夜にまで及んだ。ちなみに、クラッタニア星の自転周期は二十八時間。この時、マー・ナラスタ島では昼が十八時間、夜が十時間という地球で言う真夏の時期に当たった。そして、この事が日頃から過酷な訓練に慣れ親しんでいる文輪軍に幸いする。

 必死になって追い続けてきたフェラント軍であったが、真夏の猛暑と長期の追撃は兵士達に多大な疲労を与えた。これを、フェラント将軍は感じ取り、日没に合わせて追撃を中止した。その上で、全軍に休息を与え、夜間に本陣へと戻るという命令を出したのである。これが、フェラント軍には災いした。

 ずっと退却し続けてきたジュリアヌス軍は、それでも、日々の厳しい訓練によって、まだ十分に活動が可能な状態であった。ここで、ジュリアヌスは全軍に可能な限りの軽装を命じた上での最強行軍を指示した。既に、フィルンツ本陣からは五十キロは離れていたが、これを一時間以内に取り戻すとしたのである。これに当たって、ジュリアヌスは全軍に向かって、こう告げている。

「日々の苦しい訓練とは、実戦における果実となって表れる。このようにして、皆が不可能とも思われる作戦を遂行できるのは、戦友諸君の努力の賜物であろう。さて、ここまで来れば、あとはその努力を収穫するだけである。最も辛い任務となろうが、諸君が最大の能力を発揮する事を期待する」

 この演説の後、ジュリアヌス軍は静かに、しかし、元の場所へと急いだ。これに合わせて、アルフレッド帝も攻勢を強め、フィルンツ本陣に休む暇を与えなかった。その一方で、帝は柳沢将軍に命じて即席の防御陣地を少し後退した場所に築かせていたのである。そして、一時間の後にジュリアヌス軍が戻ってきたところで、アルフレッド帝の勝利は確定した。

 アルフレッド帝は、ジュリアヌスの到着を確認すると、直ちに後退の指示を出した。それに合わせて、フィルンツ軍も急いで追撃にかかる。だが、そこに姿を現したのは、逃げたはずのジュリアヌス軍と防御陣地であった。これによって、フィルンツ本陣は足止めさせられるのであった。

 これに対し、フェラント軍も強行軍でジュリアヌスの後を追っていた。それでも、休息した軍による行動の開始は、必然的に遅くなる。その為、本陣と合流する前には、アルフレッド帝の大軍と対峙せざるを得なかったのである。これで、勝負は決した。

 追撃で疲れ、しかも活動の再開という極めて困難なことを行なった後のフェラント軍は、最早、アルフレッド軍の敵ではなかった。元々から機動力の異なるフェラント軍は、抵抗も空しく包囲され、逃げる事も戦うこともままならなかった。それでも、何とか包囲を脱したフェラントが最後に見たものは、成す術もなく降伏する自軍の姿であった。

 一方、フィルンツ本陣の方も、ジュリアヌス軍を抜くのに必死であった。既に、この頃にはアルフレッドの考えが各個撃破にあることに気付いた本陣は、急いで救援に駆けつける必要性を感じたのである。だが、ジュリアヌスは少数ながらも、見事にこれを耐えしのいだ。結局、フィルンツ本陣はフェラント将軍が齎した敗報と共に、後退を余儀なくされたのであった。

 この日の戦いは、後にフェラント包囲戦と名付けられる事となるが、この戦いだけで、文輪はフィルンツ三軍の一つを抜いたのである。その為、フィルンツ軍の損害は戦死者一万二千、負傷者六千五百、捕虜は五万六千にも及んだのである。戦死者よりも負傷者が多かったのは、ひとえに、自害した者が多かったためである。これに対し、文輪の死者は二千三百、負傷者は五千七百であったという。一見すると、少ないように思われるかもしれないが、兵力の補充が困難な中では、厳しいものであった。それでも、この危険とも言える賭けは大きな戦果を齎したのである。

 だが、それと同時に救援を求めたクラッタニア軍は困惑する事となる。あまりにも、アルフレッド帝が強すぎ、あまりにも文輪軍が勝ってしまったがために、自国の存亡に危機感を覚えたのである。その為、クラッタニアとしてはこれ以降、文輪への兵力の提供を拒んだのである。これが、アルフレッド帝にとってはやや痛手となる。これに加えて、フィルンツ星は先の敗北の穴埋めをするために、兵力を増強し、総勢三十二万の兵力をクラッタニア星に集結させたのである。

 ここに至って、アルフレッド帝は兵力の増強を余儀なくされたのであった。レデトールとも必死の交渉を行い、何とか移動手段を確保している。それでも、一度決めた以上は兵力の逐次投入などという稚拙な事は行なわなかった。






   【「恐るべき」ミラー】


 ここから、アルフレッド帝の本領が発揮されるわけであるが、それも、決して本国から増援軍が届いてからではなかった。フィルンツ側に十六万もの軍勢が到着するであろうと言う情報を掴んだ直後から、行動を開始していた。具体的には、情報を得るために間者を放ち、時期を見ては略奪行に出た小部隊を撃破し続けた。これに平行して、皇軍の訓練を強化した。この理由としては、後にアルフレッド帝は自ら、クラッタニア星の重力が強かったためであると述べている。地球の一・二倍の重力を持つクラッタニア内では、その影響によってやや動きが鈍くなっていた。そこで、来るべき決戦のために訓練を厳しく施したのである。これに、悲鳴を上げる兵士も多かったそうであるが、それに耐ええたのは皇軍の百人隊長が率先してこれに従ったためである。この百人隊長であるが、実は、その殆どが一度は退役した二条里下の軍団の有志たちであった。

 帝政樹立戦争後、二条里は指揮下の軍団に退役を命じた。その時、二条里は費用も住まいも職も準備し、万全の態勢で解散したのである。二条里としては、軍人が退役した後に不安が残るようであれば、帝国の将来が危ういと考えたのかもしれない。なんにせよ、二条里のこの思いは、彼らの熱い思いによって少しだけ計算が狂う事となる。退役を直前に控えた頃、数人の有志が二条里の下を訪れ、以後も帝国の発展のために軍人として協力したいと願い出たのである。これを、二条里はあまり気乗りしなかったものの、気迫を十分に読み取って、受け入れたのである。その彼らに与えられたのは皇軍十五個軍団の百人隊長であった。

 以後、彼らは典伍式の皇軍再編成に至るまで、約八百人もの二条里の軍団兵が皇軍の要を担い、戦い続けた。これにより、文輪はその創造期において強力な軍を有する事となる。

 さて、このようにしてさらに強化されたアルフレッド帝隷下の軍団兵であるが、これを有効に利用するには主力決戦より他にないと踏んでいたようである。後に、この戦役における勝因を聞かれた帝はこのように答えている。

「我々の軍は数においても、補給においても、物資においても、決してフィルンツに及ぶ事はなかった。しかし、それでもこのように勝利を得る事ができたのは、一つに、我々の軍団兵の練度が高かったためであり、もう一つに、先手を得続けたためである」

 このように語ったアルフレッド帝であるが、フィルンツ軍十六万が完全に集結する八月までの間に、四万二千もの敵を捕縛または仕留めている。文輪帝国にとっては、初めてとも言える膠着状態において、それでも、自軍の有利を保ち続けることに、アルフレッド帝は成功したのであった。

 そして、この結果はフィルンツ軍の厭戦気分となって返ってくる事となった。弱小国と思われていた文輪によって、しかも、自国の最高のカードを切っておきながらの連敗は、兵士たちの士気に重くのしかかっていた。そもそもが、フィルンツ帝国も速攻型の戦略を主とし、性格的にも即決が性に合っていたのである。長引けば長引くほど、フィルンツ軍の弱体化は避けられない状況にあった。

 これに対して、文輪帝国の方は膠着状態でも、日々の訓練を的確にこなし、その士気をさらに高めていた。元々、二条里の軍団兵からなる百人隊長が多かったのであるが、その彼らにとっては戦場も訓練も同じであった。要は、帝国のためであり、その意識が軍団兵の隅々にまで及んでいたのである。この考えは前皇帝であるデスフォートの隷下にあった時の影響であった。

 急ぐフィルンツ軍に対し、堂々と構えた文輪軍とでは、最早、勝負は明らかであった。だが、アルフレッドは勝負を急がず、着実に救援軍の働きを果たし続けた。フィルンツ軍が手薄にした地域をクラッタニアに再復し、強力な防御陣地を築いたのである。これには、後に文輪も苦しむ事となるが、誠意を尽くしてクラッタニアを援助し続けたのである。

 八月十七日、ついに到着した増援軍五個軍団を隷下に加えたアルフレッド帝は、自軍を三つに分け、フィルンツ軍へと向かい始めた。第一軍は五個軍団であり、これにクラッタニア軍の二万を加えた五万をアルフレッド帝自らが率いた。第二軍を率いるのはジュリアヌス・ブラットンであり、五個軍団とクラッタニアの一万で構成される。そして、最後の第三軍であるが、これこそが、アルフレッド帝が本国から召喚した援軍であった。五個軍団とクラッタニアの一万であり、柳沢陽介にこの指揮を一任した。これで、文輪皇軍の全てがクラッタニア星に集結したわけであるが、それだけに、アルフレッド帝は決着をやや急いだ。やや、とするのは、急ぎすぎているフィルンツ軍に比べれば、圧倒的にゆっくりとしていたためであるが、補給を考えれば、一年以上の滞在は最早不可能であった。

 これに対し、フィルンツ軍の方も八月三十日には十六万もの援軍が到着する。だが、その十六万の士気は先遣隊の低い士気によって、一気に低下する。厭戦気分が全軍に広がりつつあった。これを、アルフレッドは決して見逃さなかった。

 九月一日、クラッタニア星における紀元九一七年二月七日早朝、クラッタニア軍の右翼に、突如としてアルフレッド帝の率いる文輪第一軍が現れた。およそ五万の突撃である。フィルンツ軍にとっては決して恐ろしい数ではない。だが、今まで負けに負けているフィルンツ軍にとっては、驚きを通り過ごして絶望を感じるにまで至った。恐怖がフィルンツ軍の右翼を支配し、その恐怖が中央へと広がっていった。

 アルフレッド帝は、ここで一層の攻撃を命じる。さらに、これを挟む要領で第二軍が姿を現した。完全に包囲殲滅戦の好例となったが、フィルンツ軍が全滅しなかったのは、偏に、新参の兵だけで構成された左翼の兵士が踏ん張ったためであり、高級指揮官の頭脳が用いられることなく、フィルンツ軍は多くの死骸を残す事となった。

 ことここに至って、いよいよフィルンツ軍も窮地に立たされる事となるが、それと同時に、フィルンツ軍内において意識の改革が断行されつつあった。敵地の中心で訓練が行なわれ、防御陣地の改良を行い(それまでは粗悪であった)、敵軍の分析や同盟関係の締結に力を注いだ。これにより、文輪軍団兵を敵に回しても十全に戦える基礎を築いたのである。この改革の最中に叫ばれたのは、この一言であった。

「屈辱を雪ぐためには、屈辱を受けた相手の真似をするより他にない。負けたままでは、祖国に合わせる顔がない」

 このようにして、フィルンツ軍は建て直しを図っていく事となるが、これを考え付いたのは参謀や総司令官ではなかった。意外な事にも、フィルンツの雷ことフェラント将軍がオーメルフ参謀総長に具申したのである。ちなみにフィルンツでは、平時には軍の裁断は参謀総長に任され、戦闘時にのみ総司令官が意思決定を行なうというシステムが確立している。その為、このような改革案は参謀総長の器量によって可否が分かれるのであるが、これをオーメルフは難なくどころか、喜んで受け入れた。

 この事実を誰よりも望んでいなかったのはアルフレッド帝であろう。しかし、このフィルンツ軍が訓練に勤しんでいる間、アルフレッド帝自身は決して手を出そうとはしなかった。ただただ、敵情の分析と溜まっていた国内政治の整理だけに力を注いだのである。この理由を帝自身は述べていないので想像するしかないが、それは恐らく、文輪を巡る外交関係の変化にあったのではないか。この時期、救援を頼んできたクラッタニアの態度がさらに冷淡になっていく。最低限度の補給こそ行なってくれるものの、陣営地の設営資材や戦争では不可欠な地理情報の的確な提供をやんわりと拒み始めたのである。内部では、このような声も上がっていたという。

「フィルンツの駆逐後は、速やかに文輪を駆逐しなければならない。その為には、フィルンツの活躍が必要であるが、我々にできる事といえば、兵糧攻めぐらいではないか」

 この情報を、アルフレッド帝は的確に掴んでいた。アルフレッド帝の本国への報告書には「クラッタニアの心変わりゆえに本国への帰還が必要であり、帰還の準備を始める」とある。これに加えて、いくつかの有力な国が文輪に興味を示し始めているという情報がレデトールによって齎された。最早、相手の国以上に自国のことを考えなければならないようになっていたのである。このため、相手に睨みを利かせながら準備を整えていたのである。

 また、もう一つはアルフレッドの性格に起因するのであるが、彼がこの精強な軍団と戦ってみたいと考えたではなかろうか。後に述べるが、元々アルフレッド帝は軍人である。この軍人の血が騒いでいたのではないかという、一見すると愚にもつかない考えである。ただ、この戦争の後に、アルフレッド帝はこのように語っている。

「苦しかったが、愉快な戦であった」

 いずれにせよ、十二月八日にフィルンツ軍が再び運動を行なうまでは決して攻撃を加えなかったアルフレッドであったが、フィルンツが運動するや否や、再び活発に運動を始めた。だが、この時の運動は今までのものとは異なった。敵陣地を大きく囲い込んだのである。そもそも、少数で多数の敵を囲い込むのは愚策とされる。それを、アルフレッド帝はあえて行なったのである。

 このアルフレッド帝の行動を訝しんだのは、まず、フィルンツ軍のサス大将である。包囲された時点でサス自身が指揮を執ることとなったのだが、この文輪の包囲に対して攻撃を加える事を一切禁じた。長年、フィルンツ軍の最前線で戦い続けたサスにとっては、到底、信じがたい光景であったのであろう。また、文輪の陣営地を真似して作られた防御陣地は強固であり、その支えもあって、様子見という行動に出たのである。

 だが、アルフレッド帝はさらに、包囲陣地の構築さえ始めた。強固な砦を連ねてゆき、敵を上から攻撃するという強力な包囲陣を布こうとしていたのである。後に、これは文輪の包囲戦用の砦となるが、この砦のおかげで勝利する事となる戦は多かった。そして、頑なに攻撃を拒絶してきたサスも、この対応をする必要に迫られた。

 ここで、フィルンツ軍は三つに分かれている自軍を上手く利用する事とした。まず、七万の兵力を以って敵陣営地構築の妨害を行い、二万の兵力を以って総司令部の防衛に当たらせる。そして、残りの全兵力である十三万の兵力を文輪軍の逆包囲に用いようとしたのである。文輪の兵力十三万に対して、フィルンツ軍はその二倍近くを誇っている。その、優勢な兵力を最大限に利用して、この一戦を戦うことをサス大将は決意したのである。

 二〇〇六年一月二日、クラッタニア星における早朝、フィルンツ軍が一斉に行動を起こした。陣営地の建設がおよそ終わった箇所に七万の兵力が殺到した。オーメルフ以下の訓練よろしく、準備された攻城兵器を整然と使っての攻撃であった。

 これに対し、攻撃の報告を受けたアルフレッド帝は、柳沢将軍に二個軍団を持たせて現場に急行させた。十五個軍団しか持たない文輪にしては、大きな援軍である。だが、アルフレッドはまだ、手許に三個軍団を保持していたのである。この三個軍団を持って、アルフレッド帝はこの直後に出陣するのであるが、その行き先はフィルンツ軍が攻め込んでいる方向の反対であった。

 この防御陣地の設営に当たって、アルフレッド帝は高地の占領を重点的に行なった。少しでも高いところから攻める方が有利であるのは、常識である。その方針で、文輪軍は動き、次々と包囲陣地を築いていったのであった。それでも、文輪には手のかかる難所があった。それは、土壌の脆い沼地であり、ここを越えることができなければ、包囲が不完全に終わる恐れがあった。そこで、アルフレッド帝はそこに一個軍団と援軍の一万を配置し、早急に埋め立てから建設までが終わるように指導している。通常、一つの砦あたり一個大隊で担当させていたアルフレッド帝にとってみれば、可能な限りの兵力集中であった。だが、近くの山などから土をかき集めての作業は難航し、まだ土壌の整備と簡易陣営の設営がやや後方で完了しただけであった。

 ここに、フィルンツ軍が目をつけるのではないかとアルフレッド帝は睨んだのであるが、まさに、この読みは正確であった。急ぎ駆けようとするアルフレッド帝の許に、千野春生から次々と急使が駆け込んできた。近くの砦などからかき集めてもせいぜい二万にも及ばない文輪軍に対して、十万の面となってフィルンツ軍が押し寄せてきたのである。これには、流石の千野将軍も悲鳴を上げた。

 ここで、包囲陣地を築いていた文輪軍の方に防御側の不利というものが重くのしかかってきた。即ち、攻撃側は攻撃箇所を好きなように選べるのに対して、防御側は相手の攻撃を受けるより他にはない。この一事が数の少ない文輪にとっては大きな足かせとなりつつあった。第一、フィルンツ軍の矛先がさらに別の場所へと向けば、防御がおぼつかなくなる。そのような事を防ぐためには、常に、攻められていない砦も最低限度の兵力を残して置く必要がある。これが、兵力の分散という結果に繋がり、各個に大軍から撃破される危険性を生むこととなる。

 実際に、救援に駆けつけたアルフレッド帝は、周りを埋め尽くすフィルンツの大軍を目の当たりにして、思わずこう呟いたという。

「私も、人生で初めて洪水を経験した」

 それでも、アルフレッド帝は決して怯む事はなかった。むしろ、全軍の先頭に立つと、

「恐れるなかれ、戦友諸君。我らが勇姿を勝利の女神も見ているぞ」

 こうして、アルフレッド帝は先陣を切って敵陣に切り込んでゆくのであるが、この後に続いた三個軍団の勢いも凄まじいものであった。この間に、千野将軍は簡易陣営を整えなおし、再び防御の用意を行なう。流石のアルフレッド帝であっても、これだけの兵力差を埋めることは、突撃だけでは不可能である。その為の、指示であった。事実、半時間ほどすると、三個軍団は陣営地にまで後退し、そこで激戦が繰り広げられる事となった。

 後に、千野春生将軍は幾度も自害という言葉が頭を過ぎったと述べているが、確かに、この戦いは言語に絶するものがあった。大地が灼熱と化してゆく中で、雲霞の如く攻め寄せてくる大軍を、必死になって押さえ続けた。文輪軍では防御陣地に籠れば、必ず矢を放って戦うようになっていた。が、文輪の準備していたそれは、南中を過ぎる頃には、全て打ちつくしてしまっていた。その為、負傷兵の集めておいた敵軍の放って刺さった矢を放っただけではなく、周りの石や通常は会戦でしか用いる事のない投げやりを引き付けては投げ続けた。さらには、戦死した味方の死骸を土塁にし、身に着けている二振りの剣さえも再利用して耐え続けたのである。これに対して、フィルンツ軍も今までとは異なり、果敢に攻め続けた。訓練によって培われた士気と軍隊行動は遺憾なく発揮され、長時間に亘って文輪軍を悩ませ続けた。

 戦闘開始から約十時間後、突如としてアルフレッド帝は近くにあった第七軍団の第二大隊を自らの指揮下に加えた。そして、人数を確認した帝は、徐に陣営地を飛び出し、フィルンツ軍に突撃を開始した。これに対し、防御陣地の攻撃という行動に慣れてしまっていたフィルンツ軍は行動が遅れ、瞬く間にアルフレッド帝が突き抜けて行くのを許してしまった。だが、訓練によって鍛え直されたフィルンツ軍は、即座に追撃を開始し、ゲヒト将軍を筆頭として突き進んだ。

 猛追するゲヒト将軍に対して逃げるアルフレッド帝。文輪を殲滅するには、これほどまでの好機は確かになかった。今までの敗北の屈辱を雪ぐべく、ゲヒト将軍はさらにスピードを上げてこれを屠ろうとした。

 その時、突如として前方に大軍が出現した。アルフレッド帝はその中に飛び込んでゆく。ゲヒト将軍もこれに続こうとした。それを静止させたのは、その軍がフィルンツ軍だったということを距離等から、直感的に感じ取ったからである。だが、友軍から返ってきたのは、矢の嵐による歓迎であった。

 この時、アルフレッド帝の突っ込んだフィルンツ軍、即ち、七万のフィルンツ軍の方では、大きな混乱が生じていた。

「アルフレッドが大軍を率いて後ろを脅かしてきた」

 この情報を流したのは柳沢将軍であり、彼は指揮下の軍団兵に向かってこのような命令を出した。

「アルフレッド帝に対する歓声を挙げよ。勝利の喜びを矢と共に相手に放つのだ」

 実は、この指示はアルフレッドによるものであった。帝は、この指示を出した上で敵陣突破を行い、フィルンツ軍の同士討ちを狙ったのである。危険な賭けではあった。だが、アルフレッド自身は戦争終結後に、このように述べている。

「敵軍の疲労度、自軍の訓練度、足の速さから敵軍の心理状態までを全て読めばリスクの低い賭けであった」

 このようにして、フィルンツ軍に混乱を生じさせたアルフレッド帝であったが、ここで柳沢将軍に出陣を命じ、混乱した七万を壊滅させた。散れば、軍隊の威力は微塵もなくなる。これで、後方の敵は完膚なきまでに叩きのめされた。

 さらに、アルフレッド帝はフィルンツ軍の総司令部を襲撃させる。だが、総司令部自体は陥落を目的としては襲撃させていない。むしろ、アルフレッド帝自身は激戦区の面となっているフィルンツ軍の後方を突く作戦に出る。この為に、防御に当たっていた兵力のおよそ四分の一を割き、当てた。

 十六時間に及ぶ戦闘は、両軍の兵士に多大な疲労を与えていた。だが、クラッタニアの夕暮れと共に現れた二万の兵力が一気に戦況を変化させる事となる。前後から挟まれる形となったフィルンツの大軍は最早、成す術を失った。

 クラッタニアの熱帯夜にあって続けられた戦闘は、しかし、戦闘というよりも虫取りという表現の方が近かった。絶望に苛まれながらも襲い掛かってくるフィルンツ軍を、捕らえては収容するという難儀な作業を続けなければならなかった。それでも、翌朝には戦況が明らかとなってゆき、戦場には多くの死骸が残される事となった。

 後に、マー・ナラスタ戦争における最大の戦いとして記憶される事となるこのメレレデア包囲戦は、結局のところ、文輪の勝利で終わり、同時に、戦争を終結させる戦いとも成った。この戦いの敗報を受けたフィルンツ政府は、文輪帝国に対して降伏の意思を示したのである。この理由を、後にオーメルフはこのように述べている。

「悔しいが、真似をしても勝てなかった以上、闇雲に犠牲者を増やす戦いをする気にはなれなかった。これ以上ないほどの見事な負け方に、感服させられたというのが、正直なところである」

 しかし、この戦いは決して文輪の被害も小さくはなかった。死者四万、負傷者六万のフィルンツ軍に対して、文輪でも死者一万六千、負傷者二万という深手を負ったのである。それでも、負けを認めたフィルンツ帝国は、皇帝自らがクラッタニアを訪れて謝罪を行なうとともに、アルフレッド帝との条約の締結に望んだのである。

 この時、アルフレッド帝は以下のような条約を要求した。


一、本条約は文輪帝国とフィルンツ帝国の講和条約であると共に、同盟でもあるものとする。

二、以後、フィルンツ帝国は文輪及び文輪の同盟国に対して武力を行使しない。

三、同様に、文輪もフィルンツ帝国の勢力を侵さないものとする。

四、両国は互いに貿易を行なうものとする。

五、この戦争における両軍の占領地は互いに放棄するものとする。

六、フィルンツ帝国は文輪帝国に対し、賠償金ではなく、宇宙戦艦の技術を提供するものとする。

七、文輪帝国はフィルンツ帝国防衛の義務を負う。

八、この条約は文輪の十年周期において更新されるものとする。

九、フィルンツ帝国は、有力者の子息を毎年文輪帝国に留学させる義務を負う。ただし、留学期間中の費用は文輪が全面的に負担する。


 この内容を、フィルンツ皇帝は素直に受け入れ、二〇〇六年の三月三日にナラスタ条約は調印された。そして、フィルンツ帝国もまた、文輪帝国の友人として歩んでゆく事となる。さらに、フィルンツ帝国内において、アルフレッド帝は『恐るべき』ミラーとして、畏敬の念を以って崇められる事となるのであった。






   【アルフレッド・ミラー】


 このようにして、マー・ナラスタ戦争を終結させたアルフレッド帝には、両院から凱旋式挙行の申し出が行なわれた。凱旋式といえば、戦勝を祝うパレードと認識しがちであるが、文輪のそれは、祝いながらも市民への感謝を行なう事に重点を置いたものであった。ただ、いずれにしても金を食うパレードである事には変わりない。それでも、アルフレッド帝は文輪皇帝というよりも一人の男としてこれに挑んだのであった。一人の人としてならば、これほどまでに名誉的なことはなかったのである。

 このようにして、文輪皇帝に上り詰めたうえ、文輪において最も名誉的とされる凱旋式を史上初めて挙行したアルフレッド・ミラーであるが、彼の人生は決して楽なものではなかった。

 一九五六年四月十日、アメリカ南部地区の小さな町でアルフレッド・ミラーは産声をあげた。ミラー家はアメリカの中でも決して裕福な方ではなく、三人兄弟の末っ子として、様々な不自由を負って生きてゆく事となる。それでも、彼は屈強な肉体を築き上げ、知性に富んでいたという。友人も多く、ここまでは幸せな人生を送っていた。

 だが、ベトナム戦争の勃発により、彼はアメリカ合衆国という国家に疑問を抱くようになってゆく。それが極大化したとき、彼は傭兵として各地を点々とするという危険な人生を選んだのである。この頃のことを、アルフレッド自身はこのように語ったという。

「戦争を始めていいのは、何かを守るときだけであるという事を感じさせられた。無論、主義主張などという馬鹿馬鹿しいもののためではない。市民。これを守るときだけである」

 とはいえ、アルフレッド帝も生きてゆくために、様々なことに手を染めている。アフリカから中東にかけてを転戦し、そこで、領土を奪い合い、主義主張を争う戦いに身を投じ続けたのである。これが、二〇〇〇年頃まで続くのであるが、アルフレッドはこの時期を、人生で最も不毛であったと述べている。

 このようにして、自分の考えと生活に苦しんでいたアルフレッドの下に、一つの情報が齎された。それは、日本で自分たちの生命のために立ち上がった部隊、即ち文輪であった。これを聞きつけたアルフレッドは急いで文輪との接触を図り、辻杜帝との面会にこぎつける事ができた。この時、アルフレッドは自分を軍の一部に加えるように頼むつもりであったが、それよりも先に、辻杜帝はこのように言った。

「君は会計監査官として中東に行ってもらう。まさか、君の才能は傭兵だけではあるまい。頑張って、人々の命を救ってくれ」

 この一言で、アルフレッドは辻杜帝を終生、恩師と崇めるようになった。そして、実際に会計監査官となった彼は、渡会法務官の下で民生の安定化と軍団内部の収支を上手く調整しながら、軍事上の助言も的確に行なったとされる。さらに、欧州戦線以降は二条里の許で将軍として奮戦し、スペインの安定化と第一次ギジガナアニーニア戦役におけるユヌピス攻防において大きな戦功を挙げることとなる。

 また、デスフォート帝の時代を通しても政治よりも軍事が中心ではあったが、皇帝の右腕として最高の働きを続けたのであった。その為、アルフレッド帝は配下の軍団兵に「恐るべきミラー」と、畏怖と尊敬のまなざしによって呼ばれたのであった。






   【急逝】


 マー・ナラスタ戦争を終え、いよいよ本格的にアルフレッドによる統治が始まるものと期待された二〇〇六年四月二十日、アルフレッド帝崩御の知らせが帝国中を駆け巡った。

 この日、アルフレッド帝は戦勝の礼を述べるべく、首都日本の東京において両院協議会を開く予定であった。それに合わせて、各地から常任委員や執政協議会の委員たちが集い、アルフレッド帝自身も、滞在先の長野から向かう途中であった。だが、昼食を前にして、突如としてアルフレッド帝は胸を掻き毟り始め、そのまま、前にのめりこむような形で項垂れた。無論、この直後に処置が行なわれはしたものの、その甲斐もなく、アルフレッド帝は崩御したのである。五十という、政治家としてであれば最も脂ののったいい時期での死であった。

 それでも、不幸中の幸いであったのは、両院の議員全てが、一同に会していた事である。戦勝を祝うはずであった両院協議会は、アルフレッド帝の死を悼むと同時に、新皇帝の承認を行なうとした。承認、とするのは「二代目デスフォート帝非常時禅譲法」により、常任委員長であるマンデラ・ドバータが臨時皇帝に就任したためである。

 しかし、この三日後の二十三日、突如としてサテラット帝国が文輪に対して宣戦布告を行なう。これに対応すべく、再び両院協議会が開かれ、マンデラ・ドバータがサテラット帝国との戦争を終結させるまでは皇帝に在り続けるという決議を通した。「五代目典執政官臨時皇帝登位特別法」によって、マンデラが正式に四代目文輪皇帝として就任する事となった。

 登位の後、マンデラは最初の両院協議会においてアルフレッド前皇帝に「恐るべき」という贈名を贈るように依頼した。若くして亡くなった皇帝への畏敬の念を示すために、マンデラは所信表明演説よりも先にこれを行なったのである。そして、その直後に国葬を五月一日に開く旨を決議し、喪主としてマンデラ自身が立つ事に決まった。

 当日、国葬の開かれる会場には、多くの市民や軍団兵だけではなく、レデトール、ユヌピス、ギジガナアニーニア、メスタエ、クラッタニア、果てはフィルンツからさえ参列者が訪れた。特に、フィルンツからはゲルベと呼ばれる、戦功第一の将軍に贈られるという最高級の布地をアルフレッド帝に捧げたという。アルフレッド帝の功績を認めるものは国の内外にあったが、最もその力を認めていたのは、敵であったフィルンツ帝国であった。

 そして、この席でマンデラはアルフレッド帝を追悼する演説を、行なっている。以下は、その最後の部分である。

「多くの功績と多くの輝きを遺したアルフレッド・ミラー。帝は、いつまでも我々帝国の事を見守り続けられる事でしょう。我々が『恐るべき』という畏敬を以って帝の事を語りついで行くのですから」

 新たな帝国の三代目として相応しい、偉大な皇帝の死であった。

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